『ハイネリア戦記』
登場人物
【マファナ・オルナ・ハイネリア】
ハイネリアの公女。公爵家の生まれであるが、生母が賎妾であったため久しく公族とは認められず、12歳になるまで臣下に預けられ、市井の中で育った。気品と聡明さを併せ持ち、また、宮廷育ちの公女たちにはない生命力に満ち溢れた魅力的な少女。絹のような長い金髪と、透き通るような蒼い瞳が特徴的である。小柄で繊細さのある外観からは想像もつかないほど芯の強さがあり、また、貴族とは思えないほど清らかな優しさを持っているので、特に階級の低い者たちからの輿望が厚い。17歳。
【ラヴェッタ・エルル・ベルリオルセ】
マファナの養父母の実子。故に、マファナとは姉妹同然に育ってきた。父は、ハイネリアでも“知将”と呼び声の高い将軍で、彼女にもその血流が受け継がれており、常に冷静沈着で、知性も豊かな女性。ハイネリア地方の女性には珍しいほど背が高く、武芸にも秀でている。亜麻色の髪は、宮廷にあるうちは仲間内でも羨望を注がれていたほど美しい艶と長さを持っていたが、マファナについて戦場に出るにあたり、惜しげもなく肩の所で切り落とした。18歳。
【ロカ・ユリナ・アルバニッツ】
マファナ専属の宮廷医であり、今は軍医の一人。クセのある赤い髪がとにかく特徴的。三つ編みにしてはいるが、うまくまとまっていない。かつて原因不明の伝染病が蔓延し、行政の判断で焼かれたファルターニャ村の出身。避難先で自分を治してくれた医者の弟子になり、厳しい修行を耐え抜いて、民間の出自ながら宮廷医に推薦されるほどになった苦労人。21歳。
【ミラ】
【ミレ】
マファナを追いかけるように戦場にやってきた双子の侍女。貧困階層出身のためにミドルネームと氏姓は持たない。一見すると見分けがつかないが、薄茶色の髪が内向きになっているのがミラで、外向きになっているのがミレである。ともに、16歳。
【オスカー・ヴァン・ラドマリフ】
辺境地・ファルカを治めるラドマリフ家の若き当主にして、マファナが率いるハイネリア正規軍の幕僚のひとり。典型的な直情型の人間で、正義感が強く、生真面目。初陣の時に兄を喪い戦いに怯えるようになるが、マファナの活躍を知り奮起する。後のアネッサ侯爵。18歳。
【ハインバッシュ・ヴァン・マエストーニ】
現ハイネリア正規軍の幕僚の一人。通称は“ハイン”。ハイネリア独立戦争を経験している“宿将”。その時の戦いで命に関わる大怪我をし、左目を失い、左足にも後遺症が残っている。しかし、知略・軍略に長けており、“参謀”として活躍している。44歳。
第1章:マファナ
「補給隊が……」
アネッサの砦に居を構えるラヴェッタの下へ、放っていた密偵からの報告が入ったのは深夜も近いころであった。
まどろみの中にいた彼女ではあるが、しかし、戦中にあるその鋭気はすぐさま夜具を払い、薄着であるという恥じらいを見せることもなく、今は密偵と向き合っている。
「前線に物資が届くとすれば、三日後になります」
敵地で戦いを続けるにあたり、真っ先に問題になるのは物資調達だ。さらに、相手方は大軍であるために、それを運ぶだけでも大きな労力となろう。
「通り道の辺りはつけたのか?」
「はい」
密偵は胸元から布切れを取り出すと、それをラヴェッタに差し出した。
「……ふふ。よくやってくれた、カゲロウ」
簡単に記された周囲の情景と、輜重隊の進路を確認したラヴェッタは、最も信頼しているこの密偵に労いの言葉をかけ、よく休むように告げた。
「では」
“カゲロウ”と呼ばれた密偵は音もなくその場から消える。相変わらずの影ぶりに感心しながら、ラヴェッタはひとり思考に沈んでいった。
(我が軍の物資も、永久ではない)
攻める側と攻められる側では、その容量の差は大きい。しかし、アネッサの砦に蓄えられている武器や食料も、いつまでもあるというものではない。
戦術の基本は、相手の力を自分の力以下にすることだ。その方法にはいろいろある。
ひとつは、初めから自力で相手を上回ること。そして、もうひとつが、相手の力を奪うこと。その奪った力がそのまま自力になるならなお良い。
「よし」
薄闇の中で光った彼女の目は、軍師としての怜悧な計算を終えて鮮やか色合いに変わっていた。
「奇襲をかけるのですか?」
翌朝…。軍議の中で早速とばかりに補給隊を襲撃することを提案したラヴェッタに、鎧を纏って円卓の中心にいる少女が声を出した。凛とした響きがあり、それが彼女の聡明さを示している。
それだけではない。
漲る意志の力を湛えた青い瞳の輝きと、まるで絹糸のような艶やかさを持つ金色の髪は、高貴な香りを見ているものに運び、彼女の血の尊さをいやがおうにも伝えてくる。
マファナ・オルナ・ハイネリア。紛れもなく、ハイネリア公国の公女である。そして付帯するなら、現君主の実姉にあたり、公族の中でもその席次は相当に高い。
そんな彼女が、何故に生死と隣り合わせの最前線にいるのか…。それには複雑な事情が絡み合ってくる。
マファナは今でこそ、公爵家の中で高い席次を与えられているが、その生母・オルナ(ハイネリアでは成人した暁に、女性はミドルネームとして母の名を戴く)は実は、正夫人として他家から前君主に嫁入した女性の侍女であった。もともとが位の低い女性であったから、手がついたことで生まれたマファナも、当初は公族としての待遇は得られなかった。
そんな状況が一変したのは、生母のオルナが男児を出産してからである。
前ハイネリア公は絶倫だったのか、妻妾の間に数多くの子をもうけたが、その全てが女子で、男子にどうしても恵まれなかった。やがて公爵も老いと衰えが見えるようになり、周囲が、“あきらめ”を感じていた矢先、その待望の男児をもうけることができたのである。
ハイネリアは他国に比べると、官民ともに女性を尊崇している趣はあるが、それでも君主は男子相続である。後継ぎに頭を痛めていた前ハイネリア公と重臣たちは男児の出産を喜び、生まれて間もないその子を公太子(次期君主)に定め、オルナを一気に正夫人の次席に据えた。すでに正夫人は病没していたので、事実上、オルナは第一夫人としての座を戴くことになったのである。
賎妾の子に過ぎなかったマファナも、それゆえに公族として改めて認知され、ハイネリアの女子が“成人”として認められるための風習である“花飾りの儀”を12歳になってから済ませた時に、貴族として宮殿に迎え入れられた。
「ラヴェッタ、危険ではないの?」
そんなマファナが、ラヴェッタに向ける眼差しは、君臣の境を越えたものがある。なぜなら、公族として認知されていなかった頃のマファナを育てたのは、ラヴェッタの両親だからだ。
普通“お手つき”の場合、その寵愛は一夜で終わることがほとんどだったのだが、よほどに気に入られたのか、オルナは以後も公爵の寵を得ていた。しかしその愛情は、オルナと自分の間に生まれたはずの娘であるマファナには届かなかった。なぜなら彼女は、二人の手元にはいなかったからである。
色を好む公爵だから子も当然多い。それもなぜか、女子ばかりだ。従って、その全てを公族に認めてしまうと国家財政が逼迫してしまうので、位の低いいわゆる“おてつき”によって女児が生まれた場合は、その臣下に子を預けるという不文律がいつかできあがっていた。愛妾の子でありながら、マファナもその習いに従うように、すぐにラヴェッタの両親の家に預けられていたわけである。
しかし、“捨てられた”といってよいマファナではあるが、むしろこれが彼女にとっては幸運となった。
ラヴェッタの父親は、“知将”と呼ばれ、ハイネリアにその人ありと謳われたヴェルエットという名の将軍で、その良識を広く世に評されていた人物でもあり、その母親であるエルルも“賢妻”として評判が高かった。
周囲から見れば、マファナを“押し付けられる”ように預けられた二人だが、彼らは新しい家族を得たことを非常に喜び、ラヴェッタに与えるものとまったく同じ愛情をマファナに注いだ。生まれてすぐに生母と引き離される不遇を味わったマファナではあったが、“家庭の愛”は常に傍にあったのだ。たとえ血が繋がっておらずとも、それに匹敵する愛情があれば子供は歪みなく育っていく。マファナも、ヴェルエットとエルルを本当の両親のように慕い、市井の中で心身ともに美しく成長していった。間違いなく、彼女は幸せだったのだ。
だから、実弟が公太子の座についたことで公族として認知され、“花飾りの儀”を終えると共に、養父母のもとを離れなければならなくなったときは、本気で泣いてそれを拒んだ。しかし、公の命令に自分が逆らい続けることは、養父母に迷惑をかけることになると悟り、やむなく宮廷に戻ることを了承したのだ。
高貴な暮らしが出来るというのに、落胆を隠さないマファナ。そんな彼女に与えた養父母の愛は、とてつもなく大きなものだった。
ラヴェッタの同行である。もう一人の愛する娘を、宮廷に戻ってもマファナが寂しがらないようにと、彼女に預けたのだ。
その愛に応えるようにマファナは、公族となってからも、侍従として近侍するようになったラヴェッタには特別な信頼と情愛を寄せていた。そういうこともあり、ラヴェッタはいつしか“侍従長”という立場を戴くようにもなっていたのだが、どちらかというと中央の行政では冷遇されている武官の娘という出自を考えると、これは破格の待遇である。
「敵方は大軍であり、長期の駐留に士気も倦んでいます。さらに、補給がくるとなれば、その士気も一瞬大きく緩みますので、奇襲をかけるにはこのうえないといえるでしょう」
そして、“知将”と呼ばれた父・ヴェルエットの気質をそのまま受け継いだラヴェッタは、軍事における才能も卓抜していた。それが、この戦役で大きな力を発揮していた。
女性としてのしなやかさを失わず、しかし、強靭な腕力を持っている彼女は、長い戦槍を軽々と扱うだけでなく、将としての識見も豊かである。そのため、宮中にあってはマファナの身の廻りを預かる“侍従長”に過ぎなかったはずなのだが、このアネッサにおいては“軍師”として、並み居る武官たちに尊ばれていた。知将として尊崇されていたヴェルエットの娘であることも、少なからず影響している。
そんな“軍師”、ラヴェッタの話は続く。
「もちろん、陽動を仕掛けます」
自分たちの狙いが輜重隊にあることを反らすため、陽動は必要だ。
「ならばその陽動隊は、わたしが指揮をとりましょう」
「マファナ様……」
にわかに円卓がどよめいた。アネッサ砦の将として、さらには、貴族であるという彼女が、自ら死地に乗り込むというのだ。無理もない。
マファナは、知将と謳われた人物に育てられただけのことはあり、公族の中では稀有なほどに政治や軍事に精通している。しかし、華奢な体格が表すように、ラヴェッタほどに武事には優れていない。腰にかけている細剣も、敵を撃ち殺すためのものというよりは、味方の士気を高めるために振られることがほとんどだ。
「将の、しかも公族のわたしが陽動に出るなど、まさか相手も思わないでしょう」
「………」
確かに、そうだ。マファナのように、君主に血筋の深い公族が前線にいることがあまりありえることではない。厚い軍隊に覆われ、まるで錦の御旗のように飾られるのが、戦場における“君主”の存在なのだから。
マファナが戦場に出るようになったのは、公族として宮中に登った彼女を待っていた白眼と冷眼に耐えかねたというのが、その理由のひとつではあった。
公爵の直臣とはいえ、武官の席次は文官のそれに比べると格段に低く、さらにヴェルエットは自分の領地をもっていなかった。彼の軍給が収入の全てであったベルリオルセ家の経済状態はそれ故に、一般の民草に近いものがあった。そういうこともあって、公爵の実子でありながらマファナは、他の子供たちと同じような環境の中で成長したのだ。
鍬鋤を振るって田畑を耕し、必要なものは自らが市場に出向いて買い求め、時にはラヴェッタや養父とともに狩りにも出た。
そういう生活感のあふれる環境の中で育った彼女だから、公族の一人として降って沸いたように宮中に現れたときは、さぞかし野生の香りを漂わせていただろう。それでも、もともとの美質が彼女には十分に備わっていて、また、家に所蔵されていた様々な書籍を、養母の手ほどきを受けながら読み尽くしたということで育まれた知性と教養が、そんな気品に磨きをかけて、芯のある彼女の美しさを象っていた。
繊細な美質に慣れてしまっていた数少ない男の公族は、この風変わりな姫君を当然ながら最初は奇異の目で見た。しかし、マファナの中にある鮮やかなほどの生気に惹かれたものか、いつしか彼女を囲むようになった。
“公太子と同腹の姉”であるという一面も、政治的な色合いをこめて大きく影響したであろう。もしも彼女を妻にすれば、たちまち“公太子の一族”となり、公族の中では大きな影響力を持てるようになるからだ。
『あんな野蛮で臭い娘の、何処がいいのかしら!』
当然、女性の公族たちはマファナに集まる視線を喜ばない。公太子の実の姉であるというのも、彼女たちには気に入らなかった。なぜなら、その母親であるオルナが生まれの卑しい女性だという認識は、彼女は第二夫人となってからも変わりがなかったからだ。
さすがに公太子や生母のオルナへ蔑視の目を向けるわけにはいかない。そのため、そういうものは全てマファナに注がれるようになった。ともすれば野蛮に映る“たくましさ”も、それを助長したであろう。
自分ひとりで身の回りのことをするという、一般の民衆では当たり前のことも公族たちは人任せなのだ。起床するにも、食事をするにも、果ては排泄のときにでさえ、侍従たちに事細かな世話をさせる。
ラヴェッタは例外として、マファナはそういう当たり前の侍従をあまり持とうとはせず、できることは自分で全てを行ってきた。宮殿の礼式に染まらない彼女の姿もまた、他の公女たちに蔑視される理由になったことは、言うまでもない。
『ヴェルエットお父様と、エルルお母様のところに帰りたい……』
何ひとつ不自由のない宮中での生活は、しかし、マファナには窮屈で仕方がなかった。奇異の視線を受けつつ、3年ぐらいは鬱々とした日々を彼女は過ごしていた。ラヴェッタがいなければ、ひょっとしたら気が狂っていたかもしれない。
ハイネリア公が薨じ、まだ10歳にもならない実弟が公爵としてハイネリアの統治者に擁立されると、マファナの立場は更に微妙なものになった。自らの腹を痛め生んだオルナでさえ、マファナをどう扱っていいか悩むほどに、だ。
自分の腕に抱き、自らの乳で育てた記憶も皆無なこの少女よりも、彼女の愛情は公爵になった幼君に注がれている。慎みのある女性であったオルナも、“公母”と呼ばれるうちにいつしか、心身に権力の淀みが出てしまったらしい。そういうものに毒された“母”の姿を見るのも、マファナには苦痛であった。
女性の公族は、慣例によれば、二十歳を迎える前に他国に嫁入りする。もしくは、有力な臣下の妻となり、公爵家を支える絆の手段になる。その辺りは、女性を尊崇するハイネリアも他国と同様である。
もちろん、マファナもそのルールに従うはずであった。だが、公爵の実の姉である彼女は、その嫁入先も相応の国でなければならない。さらに言うなら、正夫人の待遇でなくてはハイネリアの沽券に関わってくる。
だが、主だった諸国の王公はすでに妻帯を済ませており、マファナの立場に見合う嫁入先が見当たらないという実情ができあがってしまった。本人としては、ハイネリアの宮廷を早く出て行きたかったので、何処でもかまわないとやや自棄な考えにあったのだが…。
宙に浮いたまま、窮屈な生活を送るマファナ。しかし、そんなものを一変させる事態が、ハイネリアに起こった。
隣国・オルトリアード王国の侵攻である。
もともとハイネリア公国は、オルトリアードの属国であった。それが、諸国を巻き込んだ“大戦”の最中に、虚を突くようにして独立を宣言した。その背後には、オルトリアードと長年領地を巡って争ってきた西方の雄・フラネリア王国の暗躍がある。
もちろん、オルトリアードはそれを認めず、ハイネリアへ軍隊を侵攻させた。ところが、物量で大いに優位に立っていたはずのオルトリアード軍は、ハイネリアとの戦いに敗れ、フラネリア王国の介入を許しその独立を認めるという屈辱を味わったのである。
もちろん独立の後押しをしたフラネリア王国に対し、ハイネリア公国が臣従にも似た盟約を結ぶのは当然であった。
フラネリア王国は、オルトリアードに並ぶ大国である。また、農産物資の少ないオルトリアードとは違い、肥沃な大地が国土の大半を占めるということもあって、国は富んでいる。
山岳地帯を王土に持ち、鉱山資源に頼るばかりのオルトリアードは、当然ながらその国力では敵わない。敵うとするならば、土地の気質の差が生み出す軍隊の屈強さぐらいであるだろうか。
フラネリアの兵は、はっきりいえば、弱い。諸国の中では、最弱といっても良い。だが大軍を抱えながら、長期戦にも耐えられるという物資の豊富さがある。単発の戦いでいくら勝利を収めても、すぐに物資が尽きて本国に帰還せざるを得ないオルトリアードの軍隊は、戦いに勝ちながら戦争に負けるという悪循環を、フラネリアとの戦では繰り返していた。
さらに、オルトリアードの中では稀有なほどに豊かな地質を持っていたハイネリアが、独立してフラネリアと盟約を結んだ。オルトリアード王の扼腕ぶりが、目に映るようである。
そういうことから、オルトリアードは久しくハイネリアへの侵攻を企てながら、フラネリアの影に怯えるようにそれを留めていた。ハイネリアの奪取はいつしかオルトリアード王の悲願となったが、それは久しく、果たされる予感さえ抱かせなかった。
そんな事態を変えたのは、諸国情勢の変化である。
フラネリアの東南方に、民族がいくつもよりあつまった新興国家ができあがったのだ。フラネリア王国は、この新興国に強い危機感を抱き、難癖をつけて一戦を仕掛けたのだが、大敗してしまった。“最弱”でも、豊富な軍需物資がその弱さを補っていたフラネリアの大軍が、寡兵を持つだけの新興国に敗れ去ったのである。
さらに輪をかけたのが、ハイネリアを独立に導き、政治的な背景があるものの大きな親しみを見せていた国王・ユーグ3世の薨去である。
新しく君主の座に着いた若い王・シャルル2世は、その母がオルトリアードの出自ということもあり、国の方針を転換させてオルトリアードとの融和を図るようになった。
当然、オルトリアードはハイネリアの利権を協議に乗せた。
孝心に厚い若い王は、家臣の諌めも聞かずにハイネリアからの撤退を約束してしまった。独立国家であるものの、フラネリアの庇護下にあるといってよかったハイネリアは、一朝一夕にしてその後ろ盾を失ったのである。
そして始まったのが、オルトリアードの侵攻であった。“密約”どおり、フラネリアはこの進軍を黙認し、そのためハイネリアは、独力での戦いを強いられた。
幼君がまさか戦場に出るわけには行かないので、公族の中でも武を自ら誇っていたとある貴族が、“総大将”としてオルトリアード軍と対峙した。しかし当然ながら、現実の戦場で、彼のような青白い細腕と生兵法が生きるはずもない。
当時、正規軍の総帥を務めていたヴェルエットの諌言も無視し、無謀とも思える正面対決を仕掛け、当然ながら惨敗した。“知将”と称されたヴェルエットも、その戦場の露になった。
緒戦の敗北と総帥の戦死による正規軍の崩壊を受け、ハイネリアは未曾有の混乱状態に陥った。
誰もが絶望を抱く中で、自ら武官の家々を巡り協力を求め、一軍をまとめたのが、マファナ公女だったのである。
彼女はまず、老齢を理由に退官していた将軍・アレッサンドロに図り、彼の一族が持っている私兵を中心に編成した軍を率いて戦場に出た。緒戦の大勝に油断をしていたオルトリアードの先鋒隊を木っ端微塵に砕き、息をつかせぬ電撃戦を仕掛けて、軍事上の立地の中で最も重要とされていたアネッサを奪い返したのである。
次いで彼女は、散り散りになっていた各将の兵団をアネッサに収束させた。もともとが小勢であるというのに、これが離散していては軍にならないと判断してのことだ。そこには、既に幕中の人となっていたラヴェッタの進言も入っている。
以来、アネッサを拠点とし、遊撃部隊によるゲリラ戦を中心にして、オルトリアードの軍隊を削るような戦いを重ねてきた。補給路の確保に苦しむオルトリアードは故に、アネッサ砦の前で進軍を停止せざるを得なくなってしまったのである。
アネッサに集まってきた兵は、憂国の士といってもよい。女性でありながら総帥の座にあるマファナを軽んずることもせずに、各々が持っている勇気と知恵を振り絞って彼女に仕え、数を頼みに押し寄せてくるオルトリアード軍を何度となく叩きのめしてきた。
オルトリアードとの戦端が開かれてから一年と少し。アネッサは、砦というよりはほとんどひとつの都市としての機能を有し始め、城内で屯田を始めるほどになった。
こうなってしまえば、城砦と化したアネッサを巡る戦いが、ハイネリアとオルトリアードの戦争といってよいだろう。
「屯田を始めたとはいえ、アネッサの物資は豊かであるとはいえません」
だから、輜重隊への奇襲を進言したラヴェッタだったのだが、まさかマファナが陽動の部隊を率いることを言い出すとは、思わなかった。
「総帥では危険が過ぎる。僕が、いこう!」
円卓で、入り口に近いところにいた若い騎士が立ち上がった。精悍な顔つきをした、あどけなささえ残す青年である。
「貴君の熱気は買いたいがのう、それでは陽動にならんぞ」
円卓の中で、マファナの隣に座る老顔が弾けたような笑いを見せた。
白髪に白髭と、幾重にも刻まれた皺が目立つこの老人が、アレッサンドロである。アネッサ奪回戦の際、軍隊のほとんどが彼の私兵であったこともあり、この砦の中では“最重鎮”としての扱いを受けている。
もっとも彼は、そういうものに頓着はせず、好々爺なその風体を崩すこともせず、マファナを総帥として忠勤に励んでいた。故に、マファナを始め、周囲からの信望が厚い。
「………」
そんなアレッサンドロにたしなめられた形の少年は、悔しそうに顔をゆがませた。若さと情熱がその身にあふれていて、それが危なく映るのは、アレッサンドロだけではあるまい。
陽動はあくまで敵をひきつけるのが目的であり、ぶつかって撃滅することが本懐ではないのだ。彼のような熱気を込めた軍が、陽動という難しい動きができるかというと、おそらくは無理であろう。
「ふむ…」
主君にそう言われたからではないが、ラヴェッタは陽動の指揮をとるのに、マファナほど適した人物はいないと思うようになっていた。彼女は常に冷静であり、戦場の機知を読み取るのにも長じている。また、彼女を厚く信奉する兵士たちは、まるで手足のごとく彼女の命令に従うであろう。
見た目の華やかさも、おそらくは敵を強烈にひきつけるものになる。まさに、その存在が既に陽動としての役目を大きく果たしてくれるのだ。
「わかりました」
言いながらラヴェッタは、主君を死に近い場所へ送り出そうという自分の将としての性質を、少しばかり恨んだ。“知将”と呼ばれた父の血がそうさせたというのなら、それはあまりにも冷たい血の温度であろう。家族以上に自分を愛してくれる人を、敵の前に晒そうというのだから…。
「オスカー殿には、総帥を守っていただきたい」
「!」
アレッサンドロにやり込められ、消沈していた青年の顔色に熱気が蘇った。彼は、マファナを一途に守り通せる力強さを十分に持っている。
「軍師、まかせてください!」
もう一度立ち上がったオスカーは強く胸を叩き、その意思を表した。あまりにも若さが満ちて滑稽にも見える様子に、かすかに円卓の空気が苦笑を交えて和みを生んだ。
「ハイン殿」
そのざわめきが静まるのを待って、ラヴェッタは隣に座る隻眼の男に声をかける。寡黙であるが故に、冷静な思考を常に絶やさないハインは、ラヴェッタにとっては軍略を図るには欠かせない相手にもなっている。
「貴君も、陽動の一員に加わっていただきたいのだが……」
「軍師、遠慮は無用だ」
ハインは“心得た”とばかりに、彼にしては珍しい微笑を口元に浮かべた。
オスカーもハインも、武官としては一流の家格を持っている。文官に比べると、確かに武官は宮中への拝殿も許されておらず、中央での執政にも関われないほど良くは遇されていないが、公爵家の直臣であるということは変わらない。そんな彼らが、マファナの侍従に過ぎない自分を“軍師”と呼び、まるでかしづくようにするのは、ラヴェッタとしてもいささか戸惑いを覚える。
「老将軍とアザル殿は、私とともに輜重隊を襲う。その命を私に、預けてもらえるだろうか?」
「ほほ。この老骨でよければ、いくらでも」
「軍師さんよぉ! そういう場所こそ、俺の力が必要でありましょうに!」
“死地”といえば、奇襲隊がおもむく戦場は最もそれに近い。経験によって、戦場をまるで子供をあやすかのように見つめる視線を得たアレッサンドロは、そういう死地の中で生き抜く術を心得ているし、そして、アザルという筋骨もたくましいこの男の奮迅な武力は、一撃粉砕を必定とされる戦場には欠かすことができない。
「各員の分担は、これで。兵の数は、陽動隊が二千。奇襲隊が百で、行きます」
砦に駐屯している兵数は、およそ三千。その半分以上を野戦に出すというのだから、この一戦は大掛かりなものになる。
「奇襲隊が百とは……少ないのでは?」
オルトリアードの前線に配置されている軍隊は、偵察によれば五千は下らないという。その軍隊に物資を運ぶ輜重隊は、当然ながらそれ以上の数であろう。
「それが最も適数です」
密偵であるカゲロウから受けた報告では、輜重隊は峠道を使うとあった。入り組んだ地形では、大勢の兵はむしろ邪魔になるだけだ。
「奇襲隊は明晩、明けを前に砦を出ます」
報告によると、輜重隊はかなりの強行軍らしく、幾重にも分断してしまっているらしい。それを確固撃破していくというのが、ラヴェッタの作戦であった。
「総帥は、明け方に敵に戦いを仕掛け、アルセル川に引き寄せて、陽が南中するころに戦いを止めて引き上げてください」
「あなたはどうするのです?」
「夕方頃に、帰陣します」
ラヴェッタの確信を持った言葉を聞けば、マファナも心配を引っ込めるより他はなかった。
軍議が終わるころ、既に陽は南中していた。マファナは外に出ると、射すような日差しに目を細め、次いで空の青さに目を見張った。
「戦争が終われば……」
ハイネリアの自然を闊歩し、心行くまで楽しみたい。公族の地位を返還し、ただの民としてハイネリアの土になりたいと、思っている。
マファナは、宮中に戻ることは微塵も考えていなかった。“戦場の女神”として宮中では吟遊されているらしいが、だからといってそれを歓喜する気にはなれない。そんな名声のために自分は戦っているのではないのだ。
(わたしは、ハイネリアが好きです)
二つの大河にはさまれ、緑が野を覆うこの大地を、マファナは愛していた。それを蹂躙しようとするオルトリアードに、女の身でありながら戦いを挑んだのは、自然とその中で息づく民衆たちを愛するが故の、愛国の志である。国家に対してではなく、彼女は自然と民衆を守るために剣をとったのだ。
その高潔な志が、アネッサの砦を強固なものにしているといっても良い。
「………」
風を浴び、自然と一体になっていたマファナ。
「う……」
しかし不意に我に帰ると、難しい顔つきをして俯いた。
きゅるるっ……
「………」
絞るような苦しみが、下腹を螺旋状に走ったからである。すぐに彼女は、足をとある場所へと向けた。
マファナが起居をしているレンガ造りの建物の傍に、“それ”はあった。茶色の幕を使って張られた小さなテントである。
その入り口の前には、ひとりの女性が槍を持って構えていた。槍こそは持っているがいかにも慣れていない感じがあり、とても兵士とは思えないたたずまいではあった。
「あ、マファナ様」
「今日は、ミラなのね。いつも、ご苦労様」
少し早足にそのテントに向かって足を進めてきたマファナは、その足をとめて女性を労う。
きゅるっ、きゅるきゅる……
「う、ん……」
しかし、すぐにかすかに顔をゆがめて下腹を抑えると、心配そうな顔つきの女兵に会釈を与えてテントの中に入っていった。
中は湿った空気が満ちている。そして、円錐状に張られたテントの中央部分には窪んだ穴が穿たれていて、その中には木桶が入っていた。
マファナは、その穴と桶をまたぐところまで足を運ぶ。
「はぁ、く……」
カチャ、カチャ……
と、腰周りの防具を取り外し、厚手の麻布で作られたスカートの脇に手をかけると、それを一気に腰の辺りまで引き上げた。
「ん、早く、しないと……」
スル、スル……
そして今度は、自分の急所を覆っている薄い布地に手をかける。横の紐で括るようにしているそれを外すには、固く締めた結び目を解かなければならない。
スルッ……
それを器用にも一度で解いたマファナは、正面に引き上げるようにして布地を股の間から外し取った。淡い金色の陰りが、露になっている。
「………」
テントの中は完全な密室だ。秘所を晒している羞恥を感じることもなく、彼女は膝を折り曲げて、真下にある桶に向かって尻を突き出した。
「ん、うん……!」
そして、沁みるような鈍痛が響いていた下腹に力を入れた瞬間、
ブビィッ!
と、空気を無造作に切り裂いたような音が響き…、
ブチュッ、ビチュ、ビチビチビチビチビチビチ!!!
次いで、尻の間に芽吹く可憐な蕾を一気に花開かせて、その中央から汚泥を弾けさせた。
「はぁ、ん……く、……うっ」
ため息にも似た吐息のあとで、
「く、う、うぅっ!」
下腹に走った痛みを抑えるように、腹筋に力をこめる。
ブリュッ! ブリブリブリブリブリブリ、ブリブリィ!!
瞬間、派手な音がテントの中に響き渡り、その音と同時にマファナの中から飛び出してきた汚物が、木桶にびちゃびちゃと叩きつけられた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
膝を抱えるように、木桶に向かって尻を突き出しているマファナ。
ブリブリブリブリ!!
途切れたように見えた排泄はしかし、思い出したかのような爆音をもう一度、高らかに奏であげた。
(ひどい音……)
われながら、はしたなく思う。どうやら少し、腹が緩んでしまったらしい。
実は軍議が始まったころから、既にかすかな便意を感じていた。しかし当然ながら、総帥の座にある自分が、“糞がしたいから”と中座をするわけにもいかず、なんとかそれをごまかした。しばらくすると、嘘のようにそれはなくなってしまったので、軍議が終わるまではすっかり忘れていたのだが、その緊張が解けると同時に、体は生理現象を思い出したらしい。
「う、ん、んっ」
ビチビチビチッ! ビチッ!! ブビッ、ブビッ、ブビビビ!!!
軟らかさを極めた物体が、まるで豪雨を集めた濁流のようにマファナの尻から飛び出して渦を巻く。かなり、程度がひどい。
『あの、マファナ様……』
テントの向こう側から、心配そうな声がかけられた。入り口で槍を構えていたミラである。
『お下しに、なっておられるのですか……?』
「だ、大丈夫です。心配は、いりません」
気丈にもマファナはそう言ったが、さすがに羞恥に顔を紅くしていた。
自分の排泄の音を聞かれるということは、相手が女性であっても恥ずかしい。それも今のように“下痢”とあれば、その耳障りな排泄音が“汚らしさ”をことさら表現しているようで、かなりの恥じらいがマファナには生まれていた。
少し脱線するが、先に、公族は排泄の世話でさえも侍従に行わせると言ったそれを、具体的に述べるとしよう。
まず、衣服は絶対に自分では脱がない。スカートの裾を左右の侍従に持たせて引き上げ、その中を探るようにしてもう一人の侍従が最後の一枚を丁寧に取るのである。
次いで、豪華な丸く細長い陶器を持った侍従が、それを公女の尻の近くに捧げ持つ。そういうふうにして用意された陶器に向かって、公女は立ったまま排泄を行う。
つまりは、少なくとも四人の視線がある中で、大も小もいたしているのだ。しかも、陶器を持っている侍従に、出てくるところを凝視されたままで……。まずこれで、普通ではないことがおわかりいただけるだろう。だが、彼女たちにとっては日常における通常の行為のひとつなのだ。
最後に、排泄物で一杯になった陶器は、侍従の手によって“宮廷医”のところへ運ばれる。宮廷医はその状態を見て、公女の健康状態を測るのである。
軟便であれば、少し内臓が弱っている可能性を思い、硬便であれば水分の不足を思う。運ばれる陶器の中に、便が混ざる回数が減ったと思えば、侍従を通じて公女に便通の有無を問い、それが無いとわかれば浣腸を使う。もちろんその処方も、侍従が行う。
原則として、公女に付く侍従は全てが女性だ。しかし中には奇癖を持つ公女もおり、年若い男性の侍従にシモの世話をさせている者たちもいる。女性である自分が排泄している様子を、顔を赤らめながら黙って見つめているその様子が、彼女たちには何より楽しいらしい。また、男の手によって浣腸をされるというのも、彼女たちにはめくるめく喜びを与える“遊び”にもなっているそうだ。
マファナには、想像もつかない世界である。当然、排泄に際しては誰にも立会いを許していない。自分で衣服を脱ぎ、立ったままではなく陶器を真下にきちんとしゃがんで、その中に排泄をする。本当は自分の排泄物が満ちた陶器も、自分で処理をしたかったのだが、“健康状態を見るためには必要なこと”とラヴェッタに諭され、やむなくそれを許していた。さすがに浣腸は自分ではできないので、それが必要とされるときはラヴェッタに処方してもらっていた。
宮中にある中で、マファナの排泄物が入った陶器を宮廷医に運んでいたのは、先述のミラと彼女の双子の妹・ミレである。そして、マファナが戦場に出てアネッサに駐留するようになると、なんと彼女たちは危険も顧みず、揃ってこの砦にやってきた。しかも、マファナ付きの宮廷医であったロカも一緒に、だ。ちなみにロカも女性である。
宮廷医は、専門の知識を有する技術職ではあるが、その席次は侍従に等しく、当然ながら執政への関与はない。故に、女性でも師匠について医術を学ぶことは許されているし、その職につくことも、医術師ギルド(組合)への参加も認められている。ちなみに、宮殿に常駐する宮廷医は、ギルドからの推薦を受けた医術師が務めている。
だから、宮中に入る中で“排泄の慣習”を聞かされたマファナは迷わずに、ロカを宮廷医としてもらえるように懇願していた。自分の致したモノを、まさか男性に見られるわけにはいかないと思ったからだ。そういう当たり前の羞恥でさえ、大半の公女は抱いていないというのだから、宮中がいかに世間とかけ離れた世界であることが分かる。
『あ、あなたたち……きてくれたのですか?』
言うなれば、自分の汚物を管理してくれている三人だ。だから、嬉しさと同時に気恥ずかしさが、彼女たちを迎えた時にマファナの顔には浮かんでいた。
『ロカ、ミラ、ミレ。よく、来てくれたよ』
一方でラヴェッタは、“これで、マファナ様の健康に対する懸念が消えた”とばかりに、珍しくも喜びを露にしていた。彼女たちが来るまでは、ラヴェッタがマファナの排泄の状態を見てその健康を読んでいたのだが、専門の知識を持たない彼女にはどうしてもその見極めができなかったのだ。
ロカ、ミラ、ミレには当然だが武事の経験は無い。しかし、砦の衛生を守る点については、これ以上ないほど重用されている。特にロカの存在は、大きい。
宮廷医は、どちらかといえば内科の専門医ではあるから、戦場というストレスが異常なほどにかかる場所において絶対に必要な存在であり、また、ロカはこれ以上ないほどに優秀な医師であった。原因不明の下痢や嘔吐で苦しむ兵士が出ても、その汚物や内容物を見てロカはたちどころに症状をつかみ、しかるべき処方をしてくれる。また、奇妙な病が砦の中に流行る兆候を見つけると、その原因を探り当てていち早く対処する。外科の方にも心得があるらしく、もう一人の軍医を助けるように立ち回っていた。
ミラやミレも、侍従職に携わってきた経験を生かし、マファナの排泄を中心とした身の回りの世話だけでなく、兵舎の細々とした仕事もよくこなしている。その献身的な働きぶりを見て、戦争を勝利に導いてくれるのは、彼女たちのような存在ではないかとラヴェッタも諸将も大いに学んだものだ。
…話が少し反れた。
マファナの排泄は、まだ終わっていない。
「うっ、くっ――――……」
ブビィィィ!! ブビッ、ブブッ、ブリブリブリッ……
息むたびに、可憐な蕾が内側から盛り上がって禍々しく口を開き、そこから形を持たない汚泥が吐き出され、家畜がするそれのようにボトボトと木桶に向かってこぼれ落ちていく。
「はぁ、あ、く……う、うくっ……」
ブピッ、ブッ、ブッ、ブゥッ……
「はぁ……や、やっと……ふぅ……」
差込が続く下腹を撫でさすりながら、それでもマファナは排泄の終わりを自覚した。
「………」
蕾の周辺が無残に汚れた尻を軽く浮かし、穿たれている穴の近くに山になっている干草に手を伸ばす。汚れを拭うためだ。
汚物を紙で拭くという習慣は、既に貴族の間では主流になりつつあるが、貴重品といってもいい紙を使うことを貧しい民衆が考えるはずも無く、排泄の処理には一般的に干草を使う。
カサッ…
宮中で紙を使うことを覚えたマファナではあるが、民衆の中で生活していた時間も長いので、干草によって尻を拭うことに対しての抵抗感は無い。
カサ、カサ、カサ……
右手一杯に干草をつかみ、それを噴出口に押し当てて弾けた汚物をぬぐう。今日は特に念入りに、干草を大量に使って尻の周辺を何度も拭いた。汚れが広範囲に渡っていることを、本人だからこそ良く知っている。
「ふぅ……」
排泄物に満ちた木桶は、ミレと番を交替した後でミラがロカのところに持っていくから、汚物が付着した干草を放り込むわけにはいかない。
それは、別の場所に小さく掘られた穴に埋めるのである。そのまま、ある程度の溜まりを見せたころに土ごと掘り返され、肥料として使用される。人糞を肥料として再利用する習慣は、農産国家であるハイネリアには古くから存在しており、今では諸国もそれを当然のように行っていた。
そして、屯田を始めたばかりのアネッサにとっては、人糞はなによりの宝物である。人が生命活動の中で廃棄したものが、結局は生命を支える大きな手段になるというのは、まさに自然のサイクルが命を育んでいる証であるだろう。なんと、尊いことではないか。
基本的には、公女の排泄物は宮廷医の診察が終わった後は丁重に廃棄されるのだが、アネッサにおいて貴重品とされる人糞はもちろんマファナのものも例外ではなく、彼女の排泄物も肥料として大いに利用されていた。兵たちの間ではひそかに“聖糞”とよばれ、尊ばれていたりもする。もっとも、その処理は全てミラとミレが行っているから、何処に混ざって、どの農地にばら撒かれたかは、兵士たちは掴むことが出来ないでいるのだが。
余談になるが、人糞をそのまま肥料として耕地に撒くのではない。まず、土と混ぜ合わせた状態にして“ねかす”作業が必要になる。人糞を直接農地に撒くと、刺激の強い有機物が土を窒息状態にしてしまい、逆に農地を痩せたものにしてしまうからだ。しかし、土と混ぜ合わせた状態でしばらく“ねかす”ことにより、いろいろな物質が分解されて土が柔らかくなる。農作物の根が何処までも深く伸びるようになり、それだけ多くの養分を吸い取れるようになり、よく肥えた恵みを得られるようになるのである。ちなみに、砦の中で集められた排泄物を撒いておく場所のことを“肥田”と呼び、立ち込める臭気ゆえにそれは居住の空間とはかなり離れた場所に用意されていた。
「………」
排泄が終わり、身支度を整えて、マファナはテントを出た。
(苦しげなお顔は、していないようだけど……)
心配そうにマファナの顔色を窺ってみたミラだったが、中から出るなり爽快な顔つきを見せている様子を見てその憂色を払う。
「それでは、ミラ」
「はい」
マファナは少しだけ頬を染めながら、ミラに微笑を残して足取りも軽やかにその場を去った。
「………」
すぐにミラはテントの中に入る。むせるような臭いが立ち込めているが、それを当たり前のように経験してきた彼女は、嫌な顔をすることも無く窪みの中から木桶を取り出そうとした。
「まぁ……」
すぐにその状態が悪いことに気づく。ロカのように詳しい診断はできないが、長い間、マファナの排泄物に関わってきたから、簡単なことならミラもわかるようになっていた。
(まるで泥水のような……さぞや、お辛かったことでしょう……)
たぷんと揺れる排泄物で満ちた木桶を大事そうに抱えると、かすかなうめきを交えつつ凄まじい音を立てて排泄していたマファナの苦しみを思い、“おいたわしや”と、ミラは瞳を閉じる。桶の中から漂ってくる悪臭も、仕える主の健康状態が、かなり下り気味になっているということを伝えてきた。
(早く、ロカに見せなければ……)
もしも問題があるとすれば、排泄物を見たロカがそういう診断を下すであろう。だから、ミラにできることは、異常を訴えているマファナの排泄物を、間違いなくロカに届けることだった。
「なに? マファナ様が?」
「ああ。このところ、固さを失うばかりだったから、心配していたんだが……」
戦いを明日に控え、部屋で瞑想にも似た沈黙の中にあったラヴェッタだったが、思いがけなくもロカの訪問を受けて、彼女を部屋に通していた。ロカが夜にラヴェッタのところを訪れるときは、決まってマファナの健康状態に関する話である。
ロカは女性ではあるが、その形(なり)はミラやミレよりもみすぼらしい。といっても、衛生にかかわる身であるだけに、ほつれた衣服と、はねた赤髪がいまいち纏まりきっていないことを除けば、不思議と清潔な印象があった。
「下痢、といっていい状態だな」
「………」
ラヴェッタは難しい顔をする。マファナの健康状態が下降気味にあるというなら、明日の戦局では大きな影響を生むのではないかと考えたからだ。
戦場では、思いがけないことが死に直面する。生と死を天秤ばかりにかけたような状態の最中で、そのバランスを一気に崩すことが起これば、たちまち命は露と消えるのだ。一瞬の立眩みで動きが止まったとしても、その後で矢が雨のように降り注いでくれば、たちまち死を呼び込むことになる。
「ロカ、どう見る?」
マファナの状態が、重症なものか聞いておきたかった。
「消化はできていたみたいだから、罹病ということではなさそうだ。食べてからすぐの排泄だったとしたら、この状態も頷ける。ただ、次も同じような便が出るというのなら、考えなければならないところだな」
「ふむ……」
果たして戦場に出るまで、マファナが排泄を行うかどうか…。しかし、考えてみれば、もしもマファナの腹具合が相当に悪化しているというのなら、おそらくはロカのところに木桶は何度となく運ばれてくるだろう。
「ロカ、もしも今夜中にミラかミレが木桶を持ってきたら、すぐに私を呼んでほしい。夜中でもかまわない。私が眠っているようなら、蹴ってでも起こしてくれ」
「わかったよ」
ラヴェッタとロカは、気心の知れた仲である。親友といってよい。宮中では、侍従長といって差し支えなかったラヴェッタは故に、ロカとはよく顔をつき合わせてマファナの健康状態を話し合ってきた。
侍従一人一人の顔と名前をしっかり覚え、分け隔て無くやさしく接するマファナには、人に関心をあまり寄せないはずのロカでさえ好印象を持つようになり、今ではラヴェッタと同じような忠誠心も抱いている。そういう想いが通じ合ってこその、二人の友人関係である。
「ラヴェッタ、きみも最近は調子が良くないらしいな」
ロカは、ラヴェッタの排泄の状態もひそかに観察している。直接見るわけではなく、ミラやミレに報告させているのだが。
まさか自分のものにも話が及ぶとは思わず、ラヴェッタは少しだけ驚きの表情をロカに見せていた。しかしすぐに、冷静な軍師の顔を取り戻す。
「確かに少し、腹はしぶる……」
慢性的な下痢症が続いているのは、実はラヴェッタの方であった。
「とりあえず、丸薬を用意しておいた。劇薬に近いが、特効性はある。もしものときは、使ってくれ」
「すまない。……マファナ様には?」
「あの人の体では、逆効果になるだろう」
「そうか……」
ロカ曰く、マファナは下痢を起こしやすいという。確かに、ラヴェッタがしばらくその観察を続けていたときも、ほとんどが液状に近いものばかりだった。おそらくはもともと、消化器官が強靭ではないのだろう。それが気丈にも鎧に身を包み、死が飛び交う中にいるのだ。
「おいたわしい……」
そんな主君を、明日は陽動として使おうという自分が、やはり悪人のように思えてしまうラヴェッタであった。
(ん……く……)
戦いを控えた夜ということで、早めに床に着いたマファナだったが、しくしくと痛みを発し始めた下腹の蠕動で目を覚ました。
(ま、またお腹が……)
すぐに床を払い、寝所を離れようとする。しかし…、
ギュルゥ!
「ひっ――……」
引き絞られたようなうねりが下腹に襲い掛かり、苦痛に顔をゆがめながらマファナは両手で腹を抱えて蹲ってしまった。
(だ、だめ……これでは、すぐに……出てしまう……)
蕾の内側に流れ込むようにして、内容物が下ってきている。
ギュルルルル!!
「あ、あっ……!」
もう、例のテントまで行く余裕など無かった。
窓から入る月明かりを頼りに、寝床の下から小型の木桶を取り出すと、膝の辺りまで丈のある肌着の裾を引き上げて太ももを露にし、両膝を折り曲げて、尻を木桶の中に突き出す。
「あ、くっ!」
ビチビチビチビチ!!
すぐに弾ける、水気を含んだ破裂音。腹痛の元凶たちが、マファナのいきみに反応するようにして、次々と木桶の底に叩きつけられていった。
ブリッ、ブリッ、ビチビチッ、ビチチッ!!
(く、苦しい……)
確かにこのところ、腹はしぶるばかりであったが、これほどまでの苦痛を感じることは無かった。ミラの前では気丈に振舞っていたが、実はあの時を境に、かなり腹の調子が悪くなっていたのだ
ブリィッ! ビチャッ、ビチャアァァァァ!!
ほとんど水と化したような物体が、マファナの可憐な蕾を犯して排出される。たちまち木桶の中身は汚泥にあふれ、酷い臭いを発し始めた。
(なにが……なにがいけなかったというの……?)
尋常ではない腹具合だ。これには何か原因があると見ていいだろう。
(明日は大事な戦いがあるというのに……う、ううっ!)
ビチャァッ! ビチュッ! ビチャビチャビチャビチャッッ!!
「はぁ、はぁ……」
苦しげに呼吸を繰り返し、腹を何度も撫でさすり、しかし豪快な音を立ててマファナは便意を木桶に叩きつける。脂汗が全身に浮かび、それを吸い込んだ薄着が肌に張り付く感触は、正直心地よくない。
きゅるっ、きゅううぅぅぅ――――……
「う、ま、また……」
予兆が下腹で渦を巻いた瞬間、
「う、うぅぅっ!」
ブリィィ! ビチャビチャビチャ!!
「く、はぁ……」
マファナは堪えることもできずに、排泄していた。木桶に向かって既にしゃがみこんでいる体勢だから、我慢の必要も無いのだが、いきなり感じた便意をそのまま吐き出してしまう現況は、どう考えても異常であろう。
(水に、あたってしまったのでしょうか……)
このところ喉の渇きがひどく、水を多く摂取していたのは確かだ。ラヴェッタにとがめられていたにもかかわらず、渇きに耐えかねて生水をそのまま飲んでしまったこともある。
(それとも、あの見慣れない果実でしょうか……)
野草の中で見かけた紅い実に関心を寄せ、指で砕いて果汁を少しなめてみたところ、思いがけない甘さが舌にのったので、ふた粒ばかり口にしたこともあった。
ギュルルルルル!!
「う、んぐぅっ!」
ブリュブリュブリュ! ビチィッ、ビチビチビチビチビチビチビチ!!
「―――……」
眉をゆがませるほどに下腹から苦痛がせりあがったかと思うと、それは一気に駆け下り、マファナの尻を一気呵成に飛び出していく。粘膜が裏返るほどの排泄を繰り返しているマファナの蕾は、哀れなほどに真っ赤になっていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ようやく差込が収まり、それでもマファナは荒い呼吸を繰り返す。便意に疲れ果てたようにぐったりとしながら、しかし、唸りを発し続ける下腹の違和感が治まらないため彼女は木桶から立ち上がることができない。
ぎゅるるるる!
「ひっ!」
もう、堪忍してください―――――気丈なマファナが哀願をこぼすほどの激しい腹痛は、夜が白みだすころまで治ることはなく…、
「と、とまらな――――……ん、んうっ!!」
ブリブリブリ! ビチャッ、ビチャッ、ビチャァァァァ!!
(か、神よ……神よ……お、お許しを……)
彼女は木桶にしゃがみこんだまま、戦いの朝を迎えることになってしまった。
「ミラ、ミラ、大変よっ! 大変!」
夜明け前にラヴェッタの一隊が、夜が明けてからマファナの一軍がそれぞれ砦を出発した後、寝所の掃除にいそしんでいたはずのミレが血相を変えて、兵士たちの衣服を洗濯していたミラの所へやってきた。
「どうしたのミレ」
「こ、これを――」
そういって差し出したのは、寝所にいつも置かれている木桶である。ちなみにこの木桶もまた排泄用に使われるもので、夜間にもよおした際、暗闇の中で屋外に設けられた厠へ向かわずに済むよう、寝所には必ずひとつ常備されているのだ。
「ウッ……」
その中身を確認したミラは、思わず口元を抑えてしまった。漂う悪臭が、あまりにも酷かったからである。
「こ、これは何処から?」
「マファナ様の寝所よっ! いつもの場所になかったからおかしいとおもったのだけれど、ベッドの下に隠すようにして置かれていたの!」
寝所に入るなり、凄まじい臭気を嗅ぎ取ったミレは、その源がベッドの下にある空隙にあるとすぐに見破り、奥深くにしまわれていた木桶を見つけた。
中を確認するなり、血の気が引いた。あまりにもおぞましいほどに真っ黒なヘドロが渦を巻いていたからである。可憐で凛々しいマファナが尻から吐き出したものとは、とても想像できない物体がそこにはあった。
「どう考えても、これは普通じゃないわ!」
マファナの腹具合が激しく低調であることを、この悪臭たちこめるヘドロが示している。
「とにかく、ロカに見せましょう!」
二人に出来ることといえば、それしかなかった。
「ハイン、相手の動きはどうですか?」
なだらかな丘陵の中腹辺りに陣を構え、凛々しく仁王立ちするマファナ。彼女が見つめる視線の先には、オルトリアード軍の先鋒部隊が、やはり陣立てを終えて来るべき戦いの始まりを待っている状態である。
「こちらの出方を窺っている、というところですな」
密偵の報告によれば、先陣部隊の数は三千という。マファナの部隊よりも、兵の数は多い。それでも戦いを仕掛けてこないのは、オルトリアード軍の方が、マファナの軍に比べるとかなり低地にあるからである。
「あの部隊は斥候といってもいいですな。やや、乱れた陣立てになっています。まさか我々が正面に出てくるとは、思わなかったのでしょう」
だからこそ、敵より先んじて優位な場所を制することができた。電撃戦は、マファナの得意とするところである。
「敵の兵種は?」
「報告によれば、歩兵を中心とした部隊のようです」
「兵車の数は?」
「多く見積もって、十乗」
「そうですか」
野戦において大きな力を発揮するのは、兵車である。馬に台車をつなぎ、それを駆使して戦場を駆け巡る。その兵車を扱うには、馬のことを熟知した御者も含めて、相当の鍛錬が必要であり、山岳地帯が国土の大半を占めるオルトリアードでは望んでも得難い兵種であった。
かたやハイネリアは、古くから兵車を軍隊に取り入れている。よく鍛錬された御者も多く、野戦においてはオルトリアード軍を圧倒する力を持っていた。だからこそ、“独立戦争”では勝利を収めることが出来たのだ。平原が多いハイネリアの土地柄は、それだけでオルトリアードに対する優位性を生み出している。
マファナが引き連れてきた兵車の数は、五十乗。改良に改良を重ねられた台車は、分解した状態で持ち運びが出来るようになっており、陣を構えてから時間をおかず、オルトリアード軍を圧倒できる数の兵車隊を瞬く間に編成することが出来た。
「オスカーの隊は、右翼に廻りなさい。ハインの隊は、左翼を頼みます」
「はい!」
「承知」
オスカーとハインの率いる部隊は、その兵種は主として騎馬である。兵車に比べれば戦闘力は劣るものの、小回りの利く機動性は遊撃部隊としての特徴を持たせやすい。
兵車隊で一気に相手の陣形を崩し、分断した軍を左右の遊撃隊で確固撃破していく。そうして前線隊を撃滅しつつ、敵をアルセル川の方まで引き寄せる。そうすれば、敵の補給路は間延びした状態になり、ラヴェッタの部隊は敵の援軍を恐れることも無く、それを襲撃することができる。
「騎乗です!」
まさか正面きって戦いを挑んできた部隊が陽動だとは相手も思わないだろう。シンバルの音を響かせながら、いっせいにハイネリアの旗が掲げられ、マファナ率いる兵車隊を前面に、二千の軍隊がなだらかな丘を一気に下っていった。
ガラガラガラ!
雪崩のように丘を降っていく兵車隊。地面を削る音、シンバルが何度となく叩かれる音、そして、敵を飲み込まんとする鋭気がそのまま、敵陣に突っ込んでいく。
ワアアァァァ……
五十の兵車を相手にするのは、たったの十乗である。加えて、薄く延ばした銅を表面に張りつけてあるハイネリア軍のそれに比べると、木組みだけだというオルトリアードの台車はいかにも脆く、車同士がぶつかり合った瞬間、あっという間に粉砕されていた。
「火を放て!」
追い討ちをかけるように、次から次へと油の入った壷を投げつけられ、火矢を浴びせられたオルトリアードの兵車は瞬く間に炭と化し、残る歩兵部隊は兵車隊の突進をまともに受けて、惨いほどに四散した。
「合図を!」
図ったように敵軍の中央に楔を打ち込んだマファナの部隊。すぐさま紅い旗と青い旗が同時に振られ、それを受けた左右の騎馬部隊が一気に戦局の輪を縮める動きをして見せた。ラヴェッタが思ったとおり、マファナはまるで手足のごとく、オスカーやハインの率いる部隊でさえも統率して見せていた。
ワアアァァァァ……
両側から挟撃される形となり、オルトリアードの先鋒隊は完全に混乱状態になった。そもそも、寡兵であるはずのハイネリア軍が正面から野戦に出てくることは予想もしておらず、この先鋒隊は斥候を兼ねた部隊であったから、それほどの戦闘力も士気も有してはいなかった。
「ロム! 右に廻り込むのです!」
「わかりました!」
そういう軍を相手に、マファナの乗る兵車は戦場を駆け巡る。細剣を巧みに振り、その指し示す方向へ“ロム”と名を呼ばれた御者は馬を見事なまでに操り、その強靭な車体でオルトリアードの歩兵をなぎ払った。
(いい感じです!)
手ごたえを、マファナは感じた。斥候とはいえ、相手の先鋒隊をこれほどまでに打ち崩したのだから、おそらくは本隊も何らかの動きを見せるはずだ。陽動としては、またとない効果を生み出すことになる。
「ロム! 次は……」
台車の揺れにも動じることなく、凛々しく細剣を構えていたマファナに異常が襲い掛かったのは、勝利が頭を掠めた瞬間であった。
ギュルゥ!
「!!」
水に浸した手ぬぐいを絞りひねるような震えが、マファナの下腹で響いたのだ。螺旋を巻くようにして全身にあわ立ちが生まれ、それが体中のいたるところへ苦痛を運び、マファナは一気に顔を青ざめさせた。
「マファナ様?」
“次”と言いながら、その指示をなかなか得られない御者のロムは、しかし、振り向くわけにも行かず、とにかくマファナの言葉を待つ。
「わっ!」
がくん……
「!?」
ギュルルル! ギュル、ギュル、ギュルウゥゥゥ!!
「あ、あくぅっ!」
何か石でも踏んだのか、珍しくもロムの操る台車が大きな揺れを見せると、それに反応したようにマファナの腸蠕動が、前奏は終わったとばかりに一斉にその奏楽をかき鳴らした。
(こ、こんなときに!)
無理やり押し込めていたはずの便意が、雀蜂の如き獰猛さを有して襲来してきたのである。
ギュルルッ! ギュロゴロゴロゴロ!!
(な、なんとか、おさまっていたのに……ま、また……あ、ああっ……)
昨夜、まどろみを破られるほどの下痢に苦しみ、木桶にしゃがみこんだまま夜明けを迎えたマファナだったが、まさか、“ヘドロのような糞が止まらないので、出陣を取りやめる”ということなどできるはずもなく、強固な意志の力でそれを何とか押さえ込んだ。しかし、やはり体の異常は気の持ち様だけでは払いきることは出来ず、“勝利”が頭によぎったことでかすかに緩んだ緊張が、そのまま下腹の緩みにつながってしまったのだ。
グウゥゥゥ……
「あ、ああぁ〜〜〜………」
螺旋状の刺激はそのまま先端が窄まるようになり、マファナの直腸に集中してくる。そして、宿した鋭気で内側から開門を迫り、癇癪を起こしたように激しく暴れていた。
「マファナ様!」
“早く指示を”とばかりに、手綱を握りながら叫ぶロム。その声を浴びて我に帰ったマファナだったが、じわじわと滲んでくる苦痛を逃すことが出来ず…、
ギュルギュルギュルギュルギュル!!
「ひっ、ひぃっ!」
大きな波頭を浴びた瞬間、両手で腹を抱えて蹲ってしまった。
「ど、どうなさったのですか!?」
さすがに振り向かざるを得ず、ロムは手綱を緩めて後ろを向く。そして、凛々しい声で右に左に指揮を飛ばしていた姿が嘘のような、苦痛に背を丸めている主の姿を見て、激しく狼狽した。
「う、うわぁっ!」
ガタガタ!
「………!」
正面から目を切ったことで、ロムは手綱捌きをさらに誤り、横たわる兵士の遺骸をまともに踏みつけてしまった。
「あっ……」
バランスを大きく崩したことで台車は傾きを強め、当然、その上に乗るマファナも大きく揺られてしまう。
ブッ、ブビィッ! ビチビチィッ!!
「あうっ、ううぅぅっ!」
台車の縁に手をかけて、何とか車外に飛ばされることは避けたが、体を支えるために加えてしまった“力み”は、当然のっぴきならない状態にある下腹にも過負荷をかけ、まるで鍛冶師が鞴(ふいご)に空気を吹き込んだような強烈な圧迫感が生まれた肛門は、そのまま口を開いて濁った空気を噴出してしまった。
「く、う……うぅ……」
その空気は、ぬるく湿っている。尻に張りつくかすかな違和感が、彼女をさらに絶望に追い込んでいった。
「も、申し訳ありません!」
手綱捌きを誤ったことで、マファナを危うい目に遭わせてしまった。ロムは、体中から冷や汗をほとばしらせ、なんとか車の安定に力を注ぐ。もちろん彼は、“穢れなき聖公女”と尊崇してさえいるマファナがまさか“糞を洩らしかけている”……と、いうより“少し洩らした”状態にあることなど思いもしていない。
「ロム! 動きが乱れているぞ!」
まるで見かねたように、ロムの操る兵車に駆け寄ってきた一騎があった。右翼から一直線に戦場を駆け抜け、敵陣を崩してきたオスカーである。右手に広刃の直剣を持っているが、それは敵を払ってきたことを示すように、紅いものが幾重にも散っている。
「オスカー様!」
助けを乞うように、若い騎士に声をかけた。ちなみにロムは、マファナ直属の御者ではあるが元々はハインの陪臣だった兵で、したがって、公臣であるオスカーよりも階位は遥かに低い。
「どうしたんだ?」
オスカーは兵車に並行するように手綱を微妙な力加減で捌く。年若いとはいえ、その巧みな馬術がハイネリアで高く名を轟かせている彼ならではの芸当だ。
「マファナ様の様子が、おかしいのです!」
「なんだって!?」
兵車の揺れ具合を気にしていたオスカーだったので、まさかロムが捌きを乱した原因が、マファナにあるとは思わなかった。
「そ、総帥!」
馬の脚をさらに緩め、今度は台車と並行するオスカー。もちろん、ここは戦場だから、敵兵が繰り出す槍もさばかなければならない。そういうことをまとめてやってしまえる彼は、アレッサンドロにたしなめられはしたが、若く血気盛んなだけの武将ではなかった。
「総帥!!」
台車の縁に片手を書け、すぐにでも落ちてしまいそうなほどにマファナの体は傾いている。眉を苦しげに寄せ、もう片方の手は下腹に強く押し当てられているようだ。
(矢を受けたのか!?)
初めはそう思った。しかし、彼女の体には、何処にも矢羽の存在はない。
(では、槍を?)
腹に受けてしまったのか―――致命傷にも匹敵するその想像に、己が血を寒くしたオスカーだったが、腹を押さえる彼女の手には血糊が一滴もこぼれていないことを見つけて、その点に関しては安堵した。
「マファナ様!」
「総帥!」
オスカーとロムの必死の叫びは、マファナには届いていない。何しろ彼女がいま、懸命に考えていることとすれば…、
(あ、ああ……だ、だめ……もう……出る……はしたないものが……出て……出て、しまう……)
洩れ溢れてしまいそうになるものへの、頑迷な抵抗心だけであった。
ここは戦場である。国家の存亡と生命を賭けて刃を交わしているところだ。
(そ、そのような場所で……)
“糞を洩らした公女”……おそらくその一事は、これまでのマファナの事績を大きく覆し、世界で広く吟遊されていくであろう。
聖女は剣を腰に履き
愛する者を守らんと
兵を従え 敵を討ち
野に果て 糞を撒き散らす……
(そんなことは、いや……です……)
“戦場で糞を洩らした公女”……宮廷にいる、マファナを快く思っていない公女たちは揃ってその出来事をあげつらうはずだ。
『おほほほ! さすがは野蛮な娘ですこと!』
『こともあろうに、神聖な戦いの場所で粗相をいたしてしまうとは、おお、なんとはしたない!』
『まさに、ハイネリアの恥ですことよ! 敵の前で臭い臭い粗相をいたしてしまうのですから! おお、なんとはしたない!!』
若い男に陶器を持たせ、その目の前で野太いモノをブリブリとひりだしている輩に、そういうふうにいわれるのは心外この上ないことだ。にわかに湧いた自尊心が、一瞬だけ彼女に大きな忍耐力を生みはしたが…、
ギュルギュルギュルッ!!
「あっ、ああぁぁぁッッ!」
それは、蝋燭の炎が消える間際に見せる瞬きに過ぎなかった。
「だ、だめですっ! も、もう、だめぇぇぇぇぇ―――………ッッッ!!」
ブリィッ! ビチビチビチ!! ビチャビチャビチャビチャアァァァァ!!!
「―――………!!!」
敵軍に向かってマファナの部隊が丘を駆け下ったような勢いそのままに、襲い掛かってきた便意の凄まじさ。
(で、出て……しまいました……)
オルトリアードの兵たちがそうであったように抵抗さえ出来ず、鉄製の腰当も、絹の下布も外せないまま、マファナは脱糞をしてしまった。
ブチュッ……ブプッ、ブピッ、ビチュッ……
「あ、あぁ……」
じわじわと尻の間に広がっていく不快感。押し窄めようとしても、その意思を反映してくれない体は、絶える様子も見せずに尻の部位を薄茶色に染め上げていった。
「総帥……?」
オスカーの問いにも答えずに、俯いたまま、肩を震わせ続けるマファナ。
ブビッ、ブブッ、ブチュブチュブチュ………
その震えに同調するようにして、彼女は尻から便意を激しくほとばしらせている。
「うっ…?」
オスカーの若く鋭敏な感覚が、耳と鼻と目でその異常を感じ取った。“ブブッ”という奇妙な音の響き、蓄豚が屯する小屋の不衛生な臭気、そして…、
ポタッ、ポタッ……
と、垂れていく茶色の雫。その源は、マファナの尻にあるということは、すぐに気がついた。
(まさか、総帥!?)
事ここにいたれば、直情型のオスカーも事態を把握できるというものだ。
(そ、粗相を……なさったというのか!!)
そしてそれは、とても信じられないことであった。
現公爵の実の姉でありながら、自ら剣を手に取り、侵略者に立ち向かっていったマファナ。年齢は自分と変わらない少女だというのに、オスカーはそんなマファナをまるで“聖女”のように仰ぎ、これまで信奉してきた。
オスカーは、大敗した緒戦に参加していた。それも、初陣だった。その戦いで木っ端微塵にこれまでの自信を打ち砕かれ、尊敬していた兄さえも喪って、全てに絶望を抱いた。
そんな時に、“聖公女”マファナの快挙を知った。だからこそ、燃えつきかけた勇気の炎をもう一度くゆらせ、今度は己の命が尽き果てるまで彼女のために戦い抜こうと意を決し、兄の軍を集めてアネッサに馳せ参じたのだ。
(総帥が、そんな……)
戦場の中で見るマファナは、伝説に出てくる“戦いの女神”そのものであった。男でさえ重さに弱音を吐く鋼鉄の鎧を纏いながら、常に凛々しく、高潔な姿勢を崩さない。
『ハイネリアのために!』
兵を指揮し、鼓舞し続けてきた清らかさのある声は、枯れることのない旋律を戦場の中で幾度も奏でてきた。その姿に、オスカーのマファナに対する尊崇の度合いは深まるばかりであったのだ。
「う、うぅ……うっ……ぐすっ……」
(はっ)
か細く、頼りない嗚咽が、オスカーの耳に入った。俯き、蹲ったままのマファナが、己の失態に耐え切れなくなったものか、泣き出してしまっているのだ。
(………)
その弱さに触れた瞬間、オスカーは我に帰った。
(総帥も……)
人なのだ。感情を、いくつも持っている人間なのだ。そして、年若い乙女なのだ。乙女であるならば、まるで童女のように“糞を洩らした”というその羞恥に、耐えられるものではない。
彼には妹がいて、故あってそんな場面に数多く遭遇してきたから、マファナが抱える羞恥と絶望の激しさは、人事ではなかった。
(苦しませてはおけない!)
オスカーの顔に、義侠の輝きが宿った。それは、男子としての矜持でもあった。
「ロム! 車を、あの茂みに寄せるんだ!」
「オスカー様!?」
ふいに馬首を並べてきたオスカーが、剣の先で背の高い草が茂る場所を指す。瞬間、怪訝な表情を浮かべたロムではあったが、自分よりも遥かに階位の高い騎士の言葉は絶対であり、手綱を操って兵車の方向を変え、指し示された茂みに向かって車を走らせた。
「伏せ手があるかもしれない。僕が、先に突っ込む」
いうやオスカーは馬の腹を蹴りはさみ、一気に突進していった。
「大丈夫だ! そのまま、兵車を入れてくれ!」
「は、はい!」
言われるままに、ロムは兵車を茂みの中へと突っ込ませる。
バサ、バサバサバサ!
草の穂を顔に浴びながら、車体が完全に茂みの中に隠れる所までロムは兵車を進めた。
「オスカー様?」
「ロム、敵が茂みを囲まないか、見張っているんだ!」
「わ、わかりました!」
小脇にしている槍を手に持つと、茂みに身を潜ませる形で周囲に注意を払う。自然、彼の意識は台車に座っているはずのマファナから外れ、敵兵の足音や影に対するものへと移った。
「………」
「総帥…」
オスカーは既に馬から降りている。台車の中で蹲ったまま、顔をあげようともしないマファナの傍に、静かに寄り添った。
「うっ、うっ……」
彼女は、オスカーに気づいているはずだ。しかし、嗚咽を止めることもせず、かすかに浮かせた状態の尻から、茶色の雫を滴らせている。
「総帥、さあ、早く……」
いつまでも、彼女をこのままにしておくわけにはいかない。オスカーは意を決して、その腕に手を触れた。
「………」
何も言わず、しかし、オスカーにすがるようにしてマファナはとりあえず立ち上がる。沁みが垂れるだけでなく、尻の中央部に出来上がっていた盛り上がりも、まるで何かが蠢いたかのように“ぐにゃり”と形を変えた。
「よっ……と」
マファナの胴回りを抱えると、持ち前の腕力で、そのまま彼女を台車から下ろした。床に浮かぶ丸い染みが、その場で起こったことが事実だということをオスカーに伝えていた。金色の水溜りは、おそらく彼女が失禁もしていたことを物語っている。
「し、しばらく、背を向いておりますゆえ……」
華奢な体を地に下ろしてから、すぐにオスカーはマファナに背を向けた。まさか、粗相の後始末まで自分が介入するわけにはいかないだろう。
妹が粗相をしたときは、下布の履き換えや、汚れた臀部の後始末も全て彼が行ってきたが、相手は公族のしかも“聖公女”と讃えられている少女なのだ。本来なら、触れるだけでも畏れ多いことである。
「ごめんなさい、オスカー……」
いつもの凛々しさが嘘のような、儚くか細い声である。しかし、やがて聞こえてきた衣擦れの音を耳で捉えると、それが罪悪なものに感じてオスカーは両手で耳を塞いでしまった。
「………」
マファナは、腰を守っていた防具を取り外すと、まるで重しが載っているかのような下布の紐を解く。
べちゃり…
と、何かが尻の間から剥がれ落ちて、地面にこぼれた。間違いなく、自らが洩らし吐き出してしまった汚泥である。あれだけ下していたにもかかわらず、意外なほどに形が残っていた。
「う、うぅ……」
尻の間にある不快感は、想像を絶するものである。鎧を身に着けるとき、下布は何かの拍子に外れてしまわないよう、きつく股に密着させるから、余裕の無い空間でぶちまけてしまった汚物はその圧迫を受けることで、尻の肌を広範囲に渡って汚していた。
「あっ……」
その汚れをどうにかしたいが、先立つものが無い。
「あ、あの、オスカー……」
救いを求めるように、若い騎士を呼ぶマファナ。その声は、耳を塞いでいるはずのオスカーにしっかりと届く。
「ど、どうなさいましたか?」
まさか振り向くわけにも行かないから、オスカーは背を向けたまま返事をした。
「なにか……布を、もっておりませんか……?」
「布、ですか……?」
“何に使うのですか”とは聞かない。わかっている。着衣したまま脱糞すれば、その結果がどのようになるかは、熟知しているオスカーである。
「生憎と持ち合わせが……あ、いや……しばし、お待ちを」
ふいに考えが閃いたオスカーは、茂みの外へ顔を出す。ここは戦場からかなり離れてしまった場所のようで、兵たちが行き交う粉塵は、遠い所で巻き上がっていた。
「………」
それでも、戦いは近くで行われたらしい。散らばる武器や、倒れた兵士がまばらに横たわっており、
「うん。これだ」
その中に、探しているものもあった。軍旗である。
(オルトリアードのものだな。都合が、いい)
汚れがないか確認をすると、思いのほか状態が良かったのでオスカーは満足した。
「総帥……」
茂みの中に戻り、マファナの方を見ないようにして後ろ手に、拾ってきた軍旗を差し出すオスカー。
「オスカー、ありがとう……」
かすかな逡巡を背中の空気に感じたが、するりと手の中から旗は流れていった。
「………」
オスカーが持ってきてくれた軍旗を、マファナは両手で捧げ持っている。
軍旗といえば、その軍隊の“誇り”といってもよい存在だ。敵方の紋章が縫いこまれているとはいえ、自らの汚物をそれで拭うにはためらいも感じてしまう。彼らの誇りを“糞まみれ”にしてしまうのだから…。もしもそんなことを自国の旗にされたとしたら、当然だが許せるものではない。
(ご、ごめんなさい!)
だが、今は事情が事情だ。ためらいも束の間にして、マファナはオルトリアードの軍旗を尻のほうに持っていった。
ごそ、ごそ……
端の方から順に、布地を尻に押し当てる。そうして丹念に、尻の肌にへばりついていた不快感を拭い取っていく。どちらかというと藍色に近いその重みのある下地の色は、しかし、べっとりとマファナが洩らした糞にまみれ、重厚な装いを無残にも汚されていた。
(なんということを、してしまったのでしょうか……)
軍旗だけでなく、戦いの場をも汚したような気がする。何度も軍旗に脱糞の名残りをなすりつけ、ようやく肌に清浄な風を感じるようになったマファナは、だからこそ冷静な思考の中で自分が犯した失態の重さを量れるようになっていた。
(何が、“聖公女”でしょう……)
戦の最中に糞を洩らし、戦いの指揮さえも放り出し、しかも、敵方のものとはいえその軍旗を汚す行いをしている。およそ“聖なる者”の行状ではない。
「うっ、うっ……」
情けなさに、涙が込み上げてきた。あれほど自分を苦しめ、辱めた便意は既に彼方へ去ったものの、彼らはとてつもなく大事な何かを奪い取ってしまった。
それは、“誇り”である。
(わたしは……わたしは、穢れてしまった……)
戦の最中に、下布から染み出てしまうほど糞を洩らしたのだ。文字通り、穢れている。侵略者に対し、ハイネリアの自然と民を守ろうとして剣を手にしていた時のマファナの自尊は、ただ一度の失態によって、完全に崩れ去っていた。
(このまま、消えてしまいたい……)
そんな彼女ではあるが、残酷な事態がさらに迫る。
「オスカー様! 兵の流れが、近づいています!」
「なに!」
マファナの着替えをどうするべきか思案していたオスカーだったが、ロムの叫びが届いたことでその考えを別の方向に向けた。
「オルトリアードの旗です!」
「後発の部隊かっ!」
苦戦している先鋒隊を援護しようと、本陣から部隊を送りだしてきたのだろう。この時点で、陽動は成功したのである。
だが、皮肉なことにそれは彼らに危機を運んだ。
「兵車隊です!」
斥候隊とも言うべき先発隊に比して、迫っているのはかなり戦闘力がある部隊なのだろう。
最悪の状況が迫っていることを知り、ロムの叫びが悲鳴に変わっていた。もう猶予はしていられない。
「ロム、車は捨てるんだ!」
「は、はい!」
オスカーが言うまでもなく、馬と台車をつなげている留め具を、ロムは取り外していた。その辺りは、彼もまだ冷静さを保っていた。
「馬は乗れるな?」
「だ、大丈夫です」
御者の訓練には、当然だが乗馬もある。
「総帥!」
場合が場合なので、オスカーはマファナのところへすぐに足を運んだ。粗相の後始末が何処まで終わっているのか、考慮している暇はもう無い。
「うおっ……」
そんなオスカーを、とてつもない光景が待っていた。瑞々しさを詰め込んだ彼女の真っ白な臀部が、まるで差し出されるように眼前に現れたのだ。その傍らにある例の軍旗に散らばっている、無残な汚れも目に入った。
「オ、オスカー!」
絶望に打ちひしがれていたマファナではあったが、羞恥はまだ残っている。ぺろりと晒していた尻を両手で隠しながら、非難をこめて騎士の名を呼び、その頬は真っ赤に染め上がった。
「も、申し訳ありません! しかし、時もありません!!」
「な、なにを……」
「失礼致します!」
「あっ、きゃぁっ!」
オスカーは、下半身が完全に剥き出しのままのマファナを腕に抱えると、茂みの脇に控えていた愛馬の轡を取り、
「早く、お乗りください!」
まずはマファナを馬上に乗せた。
(い、痛いっ)
剥き出しになったままの尻の肌が、固い鞍に押し付けられるが、ささくれ立った部分が尻の肌にちくりと刺さって、マファナは悲鳴をあげそうになった。
「命に代えても、そのお背中をお守りします!」
言うや、鮮やかな身のこなしでオスカーもまた馬上の人になった。
「マファナ様! オスカー様!!」
既に馬の手綱を引いているロムが、背後に迫っている砂塵を見やりながらやはり悲鳴をあげている。向かってくる手勢は少数ではあるが、かなりの鋭気を持っているように見えたのだ。
「ロム、行くぞ!」
「は、はい!!」
圧勝に躍った心は既に冷え、とにかく背後から迫ってくる鋭気から逃れることを必死に思い、馬に鞭を当てるオスカーとロムであった。
ガカッ、ガカッ、ガカッ……
馬の蹄が激しく土を削り、二騎はとにかく野を駆ける。目指すのは、丘陵に構えをとってある味方の陣だ。先鋒隊を切り崩したら、まずは帰陣して相手の出方を窺うということは、軍議の中で定まっていたことでもあった。
「………」
揺れの中にあるマファナは静かにしているが、しかし、揺れるたびに尻肉の肌が鞍に直接こすりつけられてしまうので、その苦痛を堪えるのに必死であった。
ちくりっ!
(痛っ!)
もっと悪いのは、どこかにささくれが立っていることで、それが容赦なく尻の肌を何度も突いてくるものだから、その度にマファナは飛び上がるほどの激痛を感じるのだ。
(か、神よ……)
もう、マファナには祈ることしかできない。自分の身に次々と襲い掛かる試練は、まるで神がそれを望んでいるとしか思えないほど、苛烈なものであった。
きゅるっ……
(えっ……)
揺れの中で感じた、下腹のかすかな違和感。
(そ、そんな、まさか――――………)
散々苦しめられた予兆を再び感じ、寒いものが背筋に走った。
その、瞬間である。
グルッ、グルッ、ギュルルゥゥ!!
「う、うううぅぅぅ!!」
激しく引き絞ったうねりが、マファナの中で起こったのだ。
(か、神は、いないのですか!)
苦しみが増幅していく中で、呪いの言葉をマファナは心中で吐き捨てた。
「ひっ!」
ギュルルルルルルルル! グルッ、グルッ!! ゴリュゴリュゴリュゴリュ!!!
「あ、ああぁ〜〜〜〜………」
神を呪ったマファナではあるが、まるでその神から裁かれるように、激しい雷を下腹に浴びせられた。これまでの敬虔な祈りも無視して、神はたった一度の過ちにさえ許しを与えずに、マファナを苛烈に辱めている。
(苦しい! 苦しい、苦しい、苦しい!!)
落馬しないように鞍の縁を両手でつかみ締めているから、不気味に唸り続けている下腹を撫でさすることも出来ず、何かが吹き零れてしまいそうな尻を押さえることも出来ない。ただ自分の意思だけで括約筋を締め、こみあげてくる狂気を必死に宥めることしか出来なかった。
「総帥、もうすぐです!」
(!?)
俯いて前を見ていなかったマファナは、オスカーの声に顔をあげると、味方の旗が幾重にもはためいている丘の陣地を見た。
(ああ、神様……)
どうやら、神はすんでのところで救いを残しておいてくれたらしい。思うよりも早く、帰陣が出来そうだから…。
(はやく、はやく、陣へ……)
とにかく早く“糞がしたい”。この狂おしい便意をたっぷりと、どこかに叩きつけたくてたまらない。
およそ聖女らしからぬ考えに全てを支配されているマファナではあるが、本能がまだまだ支配の領域を全て理性に許していない人間ならば、当然の感覚であろう。排泄欲は、生命活動に直結するものなのだ。
(はやく……はやく……)
下半身が剥き身であることや、オスカーの馬に乗せられている状況を、皆にどう見られるかなど彼女は考えていない。とにかく陣へ戻り、どこでもいいから、腹の中で狂おしくも暴れているモノを思う存分にぶちまけたくて仕方が無かった。
グリュッ、グリュッ、グルルル……
「くっ、うっ……ううっ……」
きりきりと奥歯をかみ締め、鞍の縁を握り締め、全身の硬直を括約筋に集め、すぐにでも弾けそうになる便意を堪えるマファナ。
まだ距離があるとはいえ、目の前に陣を見ているのだ。脱糞してしまった状態をオスカーに見られはしたが、“洩らす”その瞬間まで彼に晒すわけにはいかない。もしもこの状態で脱糞をしてしまえば、その一部始終は彼の目の前でなされることになる。
(そ、そんなことになったら、もう……)
慮外のやさしさを見せてくれたオスカーだったが、さすがに二度目となる“聖女の脱糞”には失望を覚えるだろう。
『こんな糞まみれの臭い女に、つきあっていられない』
とでも吐き捨てて、マファナの下を離れてしまうのは確かなはずだ。勇敢で心やさしく、武芸にも秀でた若い騎士が自分から離れていくことは、ハイネリアにとってもマファナにとっても大きな痛手になる。
キュルッ、キュルッ、キュウウゥゥゥ――――――
(う、ううっ!)
だから、マファナは必死に耐えた。一度は敗北した身だが、だからといってそう易々と何度も敗れ去るわけにはいかない。
「総帥! あと少しですから!!」
背中からオスカーの声が響いた。その声はまるで陽光のような安らぎを、本能と戦い続けるマファナの胸に宿してくれた。
「むっ……」
オスカーが不意に、進行方向にある窪みを見つけた。普通ならば、迂回して通らなければならないほどに大きなものだ。
「ハァッ!」
先を行くロムは、しかし、手綱を見事に操って馬を跳躍させ、その窪みを飛び越えた。御者にしておくのは惜しい、なかなかの馬さばきである。
「総帥、つかまっていてください! 歯も、食いしばって! 舌を噛みますから!」
「えっ…」
「跳びますよっ!」
ロムが見せた意外に練達な騎乗ぶりに刺激を受けたからではなく、とにかく早くマファナを安全な場所に落ち着かせたいという想いから、迂回する時間を惜しんだオスカー。彼もまた、手綱を巧みに操り、馬の脚を華麗に宙に躍らせていた。
「あっ―――」
瞬時に起こる、浮遊感。奇妙なほどゆっくりとした静寂な時間がマファナの中で流れていき、揺り椅子で転寝をしているときの心地よささえ、彼女は感じていた。
(わたし、空を……)
馬に乗って、宙を舞うという経験は初めてだ。状況が状況だというのに、体感したことのない心地よさに、マファナは時も場合も忘れていた。
ガクンッ!
「!」
馬の四肢が地面に着き、凄まじい衝撃が身体を走るまでは―――……。
「あ、あっ、あっ……」
ギュルギュルギュルギュルギュル!! グルルルルルルルルル!!!
「う、ううあぁあぁぁ!!」
衝撃というものは、かならず何処かに影響を与える。風化して脆くなっているレンガ造りの家は、強い地震が起これば真っ先に崩れ落ちてしまうものだ。
いま騎上にあって、最も“脆さ”を有しているもの。それは、間違いなくマファナの括約筋であった。
ブビィィッ!!
「!!」
衝撃を浴びたことで一瞬緩んだ、その緊張。もちろん、理性を失った狂気がそれを見過ごすはずはなく、一気呵成に緩んだ括約筋を襲撃して、それが必死に守っている城門を、あっという間にこじ開けさせていた。
「あ、だ、だめっ……オ、オスカー!!」
“お願い、降ろして!!”
――その言葉は、既に間に合わない響きであった。
「い、いやっ……あ、や……いやああぁっ!」
ブリィィ! ビチビチビチビチ!! ビチャッ、ビチャッ、ビチャァァァ!!!
「あ、ああぁあぁぁぁ!!!」
尻からこみ上げるままに噴出していく、質量のある狂気。跨っている鞍の上に汚物が惨たらしく跳ね飛んで、太腿の裏や臀部に飛び散ってくるのがよくわかった。
「そ、総帥……?」
オスカーの、“信じられない”という色を含んだ呟き。
ビチビチビチビチ! ブッ、ブブッ!! ブリブリ、ブバッ、ブバアァァァ!!!
「う、ううぅぅ………」
それに答える術も見出せず、マファナは鞍上で排泄を繰り返していた。もちろん、オスカーの目の前で…。
(な、なんと……)
そのオスカーだが、真下で繰り広げられている想像を絶する光景に、時を失っていた。
ヘドロのようなものが、可憐なマファナの尻の下から夥しく溢れ、ドバッ、と鞍の上に散らばっていく。もちろん、曲線を描く鞍の上にそのヘドロが溜まるはずもなく、吐き出されたものは直ぐに左右に散って、糸を引くように後ろに向かって垂れていった。
“垂れ流し”……まさに、そういう状態になっていたのである。
ブリブリブリブリ! ビチッ!! ビチャビチャビチャッ!!!
「ご、ごめんなさい……」
一度堰を失った排泄欲を、理性の力で留めることは不可能に近い。というより、不可能だ。マファナの身体は、既に己の意思とは違う所で反応を起こしており、これでもかというほどに凄まじい脱糞を繰り返していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……う、うう……ごめんなさい……」
尻からほとばしる跳ね返りは、容赦なくオスカーの鎧も汚す。勇猛さを謳われ、“ハイネリアの剣”と誉れが高かった亡兄から引き継いだ、輝きの美しい鎧だ。それが、マファナが叩きつける汚物の跳ねを浴び、ところどころに散らせている。
「わ、わたし……なんということを……ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………」
それがよくわかるマファナだから、まるで幼女のように、謝罪を繰り返していた。
(………)
いくら聖女のものとはいえ、雑食である故に人間の汚物は凄まじい臭気を放つ。さらに、便の様子でよくわかるのだが、マファナは相当の下痢症に苦しんでいたようだ。その相乗といってよいほどの悪臭が、オスカーの鼻腔を痺れさせた。
(………)
だが、オスカーはマファナのことを“穢れたもの”とは思っていない。もちろん、汚物を浴びせかけられたことへの不快感も、抱いてはいなかった。
“そういう趣味がある”ということではない。確かに排泄物の扱いに関しては、故あって慣れた経験を持つ彼ではあるが、それは別の話だ。
一度や二度、見るも無残な粗相をしたからといって、マファナの全てを否定してしまうことなどありえない。むしろ、そういう羞恥に沈む彼女を救いたい気持ちが、オスカーの胸には湧き上がっている。
(誰だって、洩らすことはあるさ……)
現に、大敗した緒戦では、汚物を垂れ流しながら逃げてゆく自軍の兵士を何人も見た。情けないことだが、瀕死の兄を抱えながら戦場を後にした自身も、失禁して股間を濡らしていたことは後になって気がついた。
生と死が隣り合わせになっている場所だ。気持ちを張り詰めていなければ、普通の精神状態ではいられないところだ。だから、戦いに緊張するあまり兵が失禁・脱糞しようとも、それを嘲笑する者は戦場においてほとんどいない。
戦いの歴史や英雄の伝説は、確かに煌びやかな雰囲気で戦場の様子を伝えてくるが、現実はとてもではないがそんな光景とはかけ離れている。血飛沫が飛び、肉片が散らばり、汚物があたりかまわずぶちまけられている、まさにこの世で最も醜悪なものが集まっている場所なのだ。それを、初陣の中で彼は思い知った。
ブジュッ、ブブッ、ブジュ、ブジュ……ブチュリ……
「う、ううっ……」
鞍の上にべっとりと穢れを振りまいた奔流は直ぐに途切れ、そのうえにマファナがまるで力の抜けたように座り込んでしまう。尻の肉と、鞍の間に挟みこまれた軟質の汚物が形を変えながら、やはり脇のほうへ垂れ落ちていった。
ショロッ、ショロッ、ジョオオォォォォ………
「………」
汚物にまみれた鞍の上を洗うように、水流が迸る。それを生み出しているのはやはり、マファナの股間であった。完全に自制を失った彼女は、再び失禁をしてしまったのである。
「わたしは……わたしは……う、ううっ、うっ……」
その肩が、震えていた。排泄をしているときに起こる体の反応と、惨めさに耐えかねた彼女の精神が折り重なって、激しい揺れに変化したのだ。
「ウッ、ウッ……グスッ、ウウッ……」
そして、嗚咽が洩れ始める。オスカーは、そんなマファナが不憫でならなかった。
(このまま、陣へ駆け込むわけにはいかない……)
“聖公女”として兵士に崇められているマファナだ。それがまさか、下半身を晒して、鞍上をドロドロに汚すほどの粗相をしているということは、いかに戦場での失禁・脱糞を嘲笑しない不文律があるといっても、相当な落胆を彼らに与えるはずである。
『な、なんだ、マファナ様は、馬上で糞を垂れたのか?』
『う、うわっ、く、臭い! 鞍もドロドロじゃないか!』
その神聖性が、薄れてしまうことをオスカーは恐れた。それはすなわち、士気の低下にもつながってしまう。
『戦闘の最中に、糞を洩らした公女』
『馬上にあって、糞にまみれた公女』
『糞を洩らした――』
『糞にまみれた――』
そもそも、飛び交う侮蔑はそれだけで、マファナを絶望の底に叩き込むだろう。
オスカーは、馬の首を別の方向へ向けた。背後に迫っていたオルトリアードの後発隊は、既に振り切っている。まさか相手も、敵の陣地を目の前にしつこく追いかけてくることはあるまい。それに、強行軍ということなら、休息も必要になるはずだ。
(ロム、すまない)
先を懸命に駆けるロムに声をかけることもできず、オスカーは呆然としたまま崩れ落ちそうになるマファナの身体を支えつつ、陣地から少し離れたところにある小さな泉へと馬を走らせた。周囲の哨戒をしているときに、見つけたのだ。泉というよりは、水溜りに近いものがあったので、水場としては使えないと見切っていたのだが…。
戦場において、最重要なのは水場の確保である。飢えは凌げても、渇きはどうすることもできない。幸い、二つの大河に挟まれ、緑地が国土の多くを占めるハイネリアの地質は潤沢なもので、支流河川や湧水泉は、ここかしこに存在しているから、水場を見つけることにはそう多くの苦労も強いられることはなかった。
オスカーの馬は、陣地からわずかに離れた木立に入った。そのまま馬の脚を緩め、進んでいくと、まるで用意されていたかのように小さな水溜まりが彼らを待っていた。
「さ、総帥……」
馬の脚を止め、先に鞍から身を下ろし、なかなか動きを見せないマファナに手を差し伸べる。何も語らず俯いたまま、しかしマファナがその華奢な指先をオスカーに向けると、彼はそれを掴まえて、彼女が馬から降りる支えとなった。
べちょり……
と、糸を引くように、マファナの臀部にまとわりついていた汚物が垂れる。改めて、鞍の上に視線を置いたオスカーは、その惨状を見てかすかに眉をひそませた。
「あ、あの……そんなに、見ないでください……」
「も、申し訳ありません!」
自分がひりだした汚物の名残を見られることは、乙女ならば恥辱このうえないだろう。故意ではないといえ、騎士としてあるまじき行為をしてしまったことに、オスカーは自らを嫌悪した。
目をぎゅっと固く瞑り、マファナに背を向けるオスカー。そんな彼を残して、マファナは泉に向かって歩を進めた。
湧き水というものではなく、どうやら窪地に水が溜まったものらしい。それでも底が見えるほど澄んだ趣を見せているのは、出来上がって間が無いからだろうか。
じゃぷ……
と、踝を泉に浸す。木陰の中にあるそれは、少しばかり冷たい肌触りである。
「………」
だがそれを気にすることもなく、泉の中ほど辺りまでマファナは進んでいく。中央の窪地は以外に深みがあるようで、膝の上辺りまで水の中に入ることが出来た。
パチャ、パチャ、パチャ……
手のひらに水をすくうと、汚れてしまった肌を素手で拭っていく。ドロドロしたものが剥がされて、水の中をゆらゆらと漂いながら沈んでいった。流れが無いので、そういうものは全て淀みに変わるだろうから、清涼な水面は時をおかずして泥水に変容するに違いない。
(わたしは、なんと罪深いことを……)
免罪の祈りを捧げつつ、汚いものを大量に吐き出してしまった窄みの周辺を何度も洗い、丹念に汚物にまみれた部分を清める。体内に溜まりこみ、腐敗にも似た穢れと化して排出されたものだから、そういう汚物に長く触れていた肌は、すこしだけ爛れたようにひりついた。肛門の周囲は、特に敏感な粘膜だから、そういうことにもなる。
股間の貝殻にも似た膨らみも、ヘドロのような汚物にまみれていた。その外陰唇に護られている内側の聖なる部分はかろうじて無事ではあったが、そこも念入りにマファナは手で洗い、全ての汚物が綺麗に剥がされると、ようやく清浄な気持ちを取り戻すことが出来たのだった。
(………)
現実が一気に、マファナに押し寄せる。戦闘の最中に、まずは兵車の上で糞を洩らし、さらにそれを救ってくれたオスカーの目の前で、粗相をしてしまった。
(神よ……)
もしも短剣を手にしていたら、彼女はためらいもなくそれを喉につきたて、自害して果てていたであろう。だが、幸か不幸か、彼女は刃を持つ武器を何ひとつ手にしてはいない。愛用していた細剣も、初めの粗相の後始末をした茂みの中に置き去りにしてきてしまった。
(このまま、水の中で……それとも、舌を噛んで……)
命を露と化そうか―――。そう考えたマファナの脳裏に浮かんだのは、ラヴェッタの顔であり、アネッサに残るミラやミレ、ロカの顔であり、そして、二度も自分を助けてくれたオスカーの顔であった。
(死は、全てを終わりにしてしまう……わたしは、死ぬわけにはいかない……)
恥辱にまみれたことは間違いないが、それで死を選ぶというのはあまりにも短慮であり、そして、ハイネリアを守るために兵を挙げた本人としても無責任だ。
(とにかく、死ぬのはいけません……)
かろうじて残った意思の強さが、マファナの命を繋ぎとめた。彼女は水の中を出ると、背中を見せているオスカーに、
「ごめんなさい、オスカー……もう、大丈夫です」
と、声をかける。
「そ、そちらを窺っても……よろしいのですか?」
「ええ……」
許しを得たので、オスカーは振り向いた。視線を空に向けているのは、覆い隠すものが無いはずのマファナの下半身を、視界に入れないためだ。
「早く、戻らなければなりませんね……」
わずかにではあるが、マファナの声音には凛としたものが戻っている。その響きを感じ取ることが出来たので、オスカーは安堵を抱いた。
(この一件は、自分の胸のうちに留め置けば、それでいいことだ)
おそらく、ロムには彼女のとてつもない事態を把握できていなかったであろう。粗相が床に散った兵車は戦場に捨て置いてきたから、物証もなくなっている。
(あとは……)
剥き身のままになっている下半身をどうすべきか。なにか布でもあれば、それを巻きつけてもらうのだが、生憎とそういうものは何ひとつ手にしていない。
「オスカー、わたしは、大丈夫ですから……」
「総帥?」
「とにかく、早く陣へ戻りましょう。ハインも、他の兵士たちも、帰陣している頃です」
「………」
健気なほどに、気丈である。
「わかりました」
オスカーは抱いていた躊躇いを、マファナの排泄によってドロドロになってしまった鞍もろとも捨て去り、彼女を馬上に押し上げると自らも騎乗して、陣に向かって蹄を響かせたのであった。
マファナの帰りが遅かったことと、なぜか兵車ではなくオスカーと共に馬上にあったことは、少なからず陣中において不審を生んだ。更に言うなら、マファナの瑞々しい太腿が、鎧に覆われていなかったことも、それに拍車をかけていた。
「ご無事だった!」
「よかった!」
「よかった!」
しかし、それ以上に安堵の空気が陣の中に生まれ、指揮官を二人も見失うことで浮き足立っていた兵士たちの心地が、収まりを見せたのも事実であった。
「総帥が戻られた? オスカーも?」
指揮官を見失い、勝ち戦でありながら足並を乱してしまった兵をまとめ、先に帰陣していたハインは、二人が幕舎にいるという報告を受けると、少しばかり不快な表情を浮かべつつそこに足を運び、入るなりオスカーに詰問を始めた。
「将たるものが、部隊を放って何をしていた?」
アネッサ砦の中にあり、アレッサンドロに次いで年長であるハインは、将軍の中でも最年少となるオスカーの資質に良いものがあることを見出しており、これからのハイネリア軍を担う人材として期待もしている。
「貴様の行動が、どれだけ味方を危機に晒したか、わかっているのか?」
それだけに、彼に対しては厳しさを隠さない。普段の冷静さが嘘のように、その言葉尻には激情がこもっていた。
「申し訳ありません……」
「愚か者! それで済むと、思っているのか!!」
バシッ!
「!」
手にしていた杖で、オスカーの肩を打った。ちなみに、ハインは戦場での負傷が原因で左脚に不自由を持っているため、常に杖を手にしている。騎乗しているときはその不自由さを微塵も見せないのだが、それは彼の努力の賜物である。
「ハイン、待ってください!」
二撃目を与えようと振り上げた杖をさえぎったのは、マファナである。
「総帥」
マファナにも問いたいことはある。いくら尊奉している公女でも、過ちに対しては遠慮を見せないハインは、オスカーに対するものと等しい厳しさを、その表情に込めていた。
確かに緒戦は完勝に終わった。しかし、マファナとオスカーの姿が消えたことに端を発する指揮系統の乱れと、それによる困惑が陣中には渦巻いていて、戦においては怜悧冷徹な思考を研ぎ澄ませているハインには心地が良くなかった。それが、冷えた視線になっている。
「すべては、わたしの至らなさのせいなのです……オスカーを、責めないでくれますか」
「………」
だが、マファナの澄んだ蒼い瞳に射抜かれると、不思議なことにそういう負の感情は洗われてしまった。湧き上がっていた激情が鎮まっていくのが、自分でもよくわかる。これが、マファナの持っている大きな力なのだと、ハインは既に知っていた。
「理由を、窺ってもよろしいでしょうか?」
しかし、戦いの最中に姿を消したこと……その理由は、はっきりさせておきたい。
「………」
一瞬、躊躇いの中で沈黙したマファナではあったが、
「その……用を、足していたのです……」
覚悟を決めたように、ハインに全てを晒した。
(なんと……)
さすがにハインは絶句した。それもそうであろう。まさか、戦地から俄かに姿を消した理由が、シモに関することだとは思わなかった。
「どうしても、我慢が利かずに……わ、わたしは……」
「よろしいです、総帥。申し訳ありません」
主君と仰ぐようになった乙女を、これ以上の恥辱にまみれさせるわけにはいかない。その辺りの分別は、充分すぎるほどハインは持っている。直ぐに膝をつき、頭を垂れて、自らの非礼を詫びた。
次いで彼は、肩を打たれ、俯いたまま小さくなっているオスカーの方を向いた。
「貴君は、それを護っていたのだな?」
戦いの最中に用を足すと言うのは、はっきりいえば自殺行為である。なにしろ、無防備この上ない状態を自ら創りあげているのだから。しかし、人間である以上は、生理現象などは自在に操れるはずも無く、また、その生理現象が戦いに支障をきたすというのであれば速やかに解消しなければならない。従って、戦中における排泄は、必ず誰かがその護衛をするというのが、常識になっていた。
マファナが帰陣した際、オスカーの馬上にあったと報告にはあった。おそらくは、行動を共にしていたのであろう。そうすると、催してしまったマファナの護衛をしていたのは、やはりオスカーということになる。御者のロムが、顔を真っ青にして“マファナ様とオスカー様を、置き去りにしてしまった”と崩れたように慟哭していたのを、いろいろと事情を聞いたうえで慰めていたのは他ならぬハインであったから、マファナにその原因を聞かされると全ての事象のつながりを、彼はすぐに纏め上げることが出来た。
(そうか……)
おそらくマファナは、“用を足した”というより“洩らした”のであろう。そのことは、ロムから聞いた“戦闘の最中に、具合を悪くされたのです”という言葉を連想に絡めると成り立ってくる。そうすると、帰陣してきたときに、下半身が無防備だったということも理解が出来る。鎧や下布を着続けていられないほどに、マファナは衣服を自らの粗相で汚してしまったに違いない。
そして、そんなマファナを護り続けていたのが、オスカーだったのだろう。
「すまんな、オスカー。私が浅慮であった」
「ハイン様……」
オスカーは終生の秘事にしておこうと決めていた事実を、マファナがまさか自ら告白するとは思っていなかった。ハインに責められることは既に覚悟していたから、その非を全て自らが受けようとも考えていたのだ。マファナを護るためとはいえ、自らが率いていた部隊を放り出していたのは、事実なのだから。
「事情はわかりました。総帥がお戻りになられたことで、兵士たちも落ち着きを取り戻しておりますゆえ、この件はこれまでにいたしましょう」
今は何より、陽動の作戦が残っている。
「緒戦で敵は十分に叩くことができました。後発の部隊が、先遣隊に合流しているという報告もあります。あとは、これをゆるゆるとひきつけながら、砦に帰還いたしましょう」
敵をひきつければひきつけるほど、陽動の効果はあがる。付かず離れずを繰り返しながら陣を徐々に後退させるのだ。
「総帥はお身体の具合が心もとないようなので、後は私にお任せください。護衛を伴い、一足早く、アネッサにお戻りを」
「そういうわけには……」
「お話を窺ったからというわけではありませんが、今も少し、顔色がよろしくありません」
「………」
ハインの言うことは、事実である。あれだけ腹を下し、中身をひり出しぶちまけたというのに、かすかなしぶりが残っている。すぐにでも、悲鳴をあげてしまいそうなほど不安定な腹具合だ。
「わかりました…」
ハインの説得というよりは、その腹具合がマファナに決意を促した。また戦中で同じようなことになるのを、マファナはひどく恐れた。
「オスカー。八百の兵とともに、総帥の護衛にあたってくれ」
「よろしいのですか? それでは、部隊はほとんど半数になりますが……」
「むしろその方が、小回りが利いて都合がいい。干戈を交えぬように戦うことが、これからは大事になるからな」
「わかりました」
「総帥を、頼むぞ」
「はい!」
こうして、マファナはオスカーとともにアネッサに引き返した。
陽動の指揮を引き継いだハインだが、彼は智謀において先の戦いで散ったヴェルエットに比肩されていた人物だ。半減した兵数をそれと悟らせず、偽兵の計や偽りの炊煙などを巧みに操り、後発隊が合流したオルトリアードの先遣部隊を翻弄し尽くし疲れ果てさせてから、軽い一撃で痛い目にあわせた後、悠々とアネッサに引き揚げてきた。
陽動は成功した。その結果は、夕暮れ時に帰還してきたラヴェッタの部隊に、戦死者が誰一人としていなかったことからも、よくわかった。さらにいうなら、敵方の補給物資の一部を持ち帰ってきたというのだから、奇襲は大成功だったと言える。
しかし、である。
「え?」
ロカに処方された薬湯を飲み、下してしまった腹を宥めるために特別に作られた食事を摂った後、横になって養生していたマファナのところへ水を運んできたミレから、思いがけないことを聞いた。
「ラヴェッタも……?」
酷い下痢に苦しんでいたようで、帰還して戦果の報告を済ませると、そのまま厠のあるテントに篭りっきりになってしまったという。もっとも、ロカから渡すように言われた薬によって、今はすっかり復調したということらしいが。
「………」
まさか自分と同じ苦しみが、ラヴェッタの身に降りかかっていたとは予想もつかないマファナである。
(ラヴェッタは、どうやって乗り切ったのかしら……)
彼女がおもむいた戦場は、マファナのそれよりも過酷であったはずだ。そんな状況で、崩れ落ちそうになる腹具合を抱えながら、それでも無事に皆と帰還してきたラヴェッタ……。枕頭で報告を聞いているときも彼女は普段どおりで、まさか自分と同じように腹具合を悪くしているなど思いもしなかった。
(ラヴェッタ……)
唐突ではあるが、その物語は次の章に委ねることにしよう。
―続―
解説 其の壱
みなさま、はじめまして。自称“流れのエロWEB作家”まきわりと申します。
同じ嗜好の小説をお書きになっておられるメルティさんの作品に刺激を受け、今回の起筆と相成りましたが、かねてから関心のあった“水洗トイレのない時代を舞台にしたOMO”をどのように表現していこうか、ある意味でこの小説は自分に対する“挑戦”といってよいかもしれません。
また、国の興亡をめぐる“軍記物語”もいつかは書きたいと思っておりまして、この「ハイネリア戦記」の概観は、構想ノートに10年ほど仕舞い込まれていたものを引っ張り出してきました。10年前は、書き始めるなり筆が止まり、執筆をあきらめていたのですが、OMOを加えると嘘の様に筆が進んで第1章が仕上がってしまいました。これはもう己の“業”としかいいようがないです。
そんな“業”が満ちた物語ではありますが、掲載を快くお許しいただいたメルティさんには本当に感謝しております。また、お読みくださった皆様にも感謝を申し上げます。
遅筆を自認しておりますので、第2章がいつになるかはわかりませんが、なにとぞ末永くお付き合いいただきたく思います。
それでは、第2章でお会いいたしましょう。
まきわり、でございました。
メルティより
と、いうわけで初投稿作品「ハイネリア戦記」第1章をいただくことができました。しかも、「聖少女の汚れ」に刺激を受けてとのことで、このHPを開設して本当によかったと実感しております。
構想10年の名に恥じぬ、微に入り細に渡る時代設定の数々も圧巻ですが、それに排泄が絡むとあっては期待は膨らむばかりです。今回もテントでの排泄、干草での後始末、宮廷医による排泄管理など、オリジナリティあふれる描写を見ることができました。次回以降が楽しみでなりません。
ぜひお読みになったみなさんの意見もお聞かせください。特に第1話とあって、反応が気になるところでしょうから。掲示板に書いていただいてもかまいませんし、私宛に送っていただければ必ずお届けいたします。
この作品を読んで、読者としてももちろん刺激を受けましたが、書き手としても今まで以上のものを作りたいと意を新たにいたしました。一層努力して、このサイト、ひいてはこのジャンル全体を盛り上げられるよう頑張りたいと思います。