『ハイネリア戦記』


ラヴェッタ・エルル・ベルリオルセ
 マファナの養父母の実子。故に、マファナとは姉妹同然に育ってきた。父は、ハイネリアでも“知将”と呼び声の高い将軍で、彼女にもその血流が受け継がれており、常に冷静沈着で、知性も豊かな女性。ハイネリア地方の女性には珍しいほど背が高く、武芸にも秀でている。亜麻色の髪は、宮廷にあるうちは仲間内でも羨望を注がれていたほど美しい艶と長さを持っていたが、マファナについて戦場に出るにあたり、惜しげもなく肩の所で切り落とした。18歳。


ロカ・ユリナ・アルバニッツ
マファナ専属の宮廷医であり、今は軍医の一人。クセのある赤い髪がとにかく特徴的。三つ編みにしてはいるが、うまくまとまっていない。かつて原因不明の伝染病が蔓延し、行政の判断で焼かれたファルターニャ村の出身。避難先で自分を治してくれた医者の弟子になり、厳しい修行を耐え抜いて、民間の出自ながら宮廷医に推薦されるほどになった苦労人。21歳。


ミラ
ミレ
 マファナを追いかけるように戦場にやってきた双子の侍女。貧困階層出身のためにミドルネームと氏姓は持たない。一見すると見分けがつかないが、薄茶色の髪が内向きになっているのがミラで、外向きになっているのがミレである。ともに、16歳。


マファナ・オルナ・ハイネリア
 ハイネリア公爵家の生まれであるが、生母が賎妾であったため久しく公族とは認められず、12歳になるまで臣下に預けられ、市井の中で育った。気品と聡明さを併せ持ち、また、宮廷育ちの公女たちにはない生命力に満ち溢れた魅力的な少女。絹のような長い金髪と、透き通るような蒼い瞳が特徴的である。小柄で繊細さのある外観からは想像もつかないほど芯の強さがあり、また、貴族とは思えないほど清らかな優しさを持っているので、特に階級の低い者たちからの輿望が厚い。17歳。


第2章:ラヴェッタ



 オルトリアードがフラネリアと密約を交わし、ハイネリアに侵攻を始めるまでは、公国は平和そのものであった。温暖で湿潤な気候は彩色のある季節を生み、自然を育み、そういう中で慈しまれてきた人々は、争いごとを好まぬ温和な性格を有していた。
 だが、それはそのまま国民の脆弱さを表すものではない。むしろ、農産国家であるという特質は民衆の土地への愛着を生み、そういう思いがそのまま愛国の心につながり、有事の際には強力な兵士となって、公国を支えている。
 独立にあたり、公国は宮殿をフラネリアに近い“ライヒッツ”に移した。先にも述べたとおり、ハイネリアはもともとオルトリアードの属国であったものが、フラネリアの援助を受けることで独立を成功させた経緯がある。従って、国の中枢といってよい宮殿を、同盟国の傍に寄せるのも当然といえた。
 それまで宮殿があった都市は、オルトリアードの国境に近い場所にあった。名を“ロンディア”という。宮殿が移されたこのロンディアはそれ以降、“副都”であると共に、敵対国となったオルトリアードの侵攻に備えるための“軍事都市”としての性格を有するようになった。
 アネッサの砦があるのは、このロンディアからさらにオルトリアードとの境界に近づいた所である。マファナの“入城”までは、数百の部隊が駐屯するだけの監視施設であったのだが、今やロンディアに匹敵するほどの城郭を持ち、数千の兵が駐留できるだけの兵舎や衛生施設が備えられ、屯田まで始められるほどになったのだから、ほとんど“都市”といってよいだろう。これで移民でも始まれば、アネッサは時をおかずしてマファナの“国”になることも、容易に想像が出来る。
 この時代、都市がそのまま“国”といっても良かった。城郭によって護られる中で、農工業が行われ、市民がそれぞれの生活を営んでいるのだ。
城郭とは一層だけのものではなく、まるでバウムクウヘンのような連なりを、ひとつの都市で有している。ライヒッツはあまり大きな都市ではないから、宮殿を囲む城壁と、民衆の生活範囲を外敵(盗賊や禽獣など)から守る城郭の二つがあるに過ぎないが、たとえばフラネリアの王都・ファリなどは、宮殿に向かう前に、すでに五層の城郭があるというのだから、その広大な敷地には驚くばかりである。
 ロンディアも昔の名残で二層の城郭を持つが、アネッサは一層のみだ。城郭の内側には、兵舎と将舎(将軍たちの起居する場所)が並び立ち、田畑があり、厩舎があり、武器庫があり、訓練場があり、本営がある。一層の城郭の中に、全ての環境がそろっているのだ。さぞかし、見通しも風通しも良いことであろう。事実、アネッサの強固な団結力は、そういう“風通しの良さ”にある。
ところで、ハイネリア公国には、二つの軍隊がある。公都・ライヒッツに駐屯し、ハイネリア公爵の膝元の治安を守る“近衛軍”と、副都・ロンディアを中心に組織されている“正規軍”である。近衛軍は、現代で言う所の警察を想像していただければよい。軍隊というには、いささか組織の規模も小さく、また、公都内での事態に対する出動のみにとどまっているからだ。そして、“正規軍”は自衛隊を想像してもらえれば、理解も早い。国同士の戦争となれば、その矢面に立つのは“正規軍”だ。
正規軍の将権は、名目上は公都の行政府にあるが、実質はロンディアの太守が総帥として代人となり、それを担っていた。
 ロンディアの太守は、封建制度が全盛の時代にあっては珍しく任命制度を布かれている。その交代は、太守の推薦と幕僚たちの協議によって選ばれた人物が、行政府からの承認を受け総帥に任官されることで行われるのだ。ちなみに、今はマファナの佐将として尊重されているアレッサンドロも、遡れば二代前のロンディア太守である。
本当なら、一軍を率いてアネッサを奪い返し、オルトリアードと戦っているマファナがすぐにその席に座るべきだったのであろうが、彼女の率いる軍隊は、武官の私兵と正規軍の残存兵を集めた“義勇軍”といってもよく、実は“正規軍”ではなかった。また、公女が兵権を持つというのも前例がなく、かといって彼女の戦いぶりがハイネリアの危機を救っている現状、それを詰問することなどはお門違いであるから、行政府も彼女に対する扱いについては、困惑している状況であった。
 そんな行政府の混乱に付き合っていては埒もなく、戦いにも勝てない。ラヴェッタの進言を受け、マファナはロンディアではなくアネッサを軍事の拠点と定め、アレッサンドロの援けを借りながら兵の組織を図り、彼のように私兵を連れて参陣してきた武官の歴々を将軍として幕僚に据え、軍隊を作り上げた。正式に任命されていなかった当時から、マファナが“総帥”と呼ばれていた所以はここにある。
 武器や食料などの軍需物資は、ロンディアの兵倉に充分な保管がある。ハイネリア軍自慢の兵車も、同様だ。さすがにそれを勝手に使用するわけにはいかないので、マファナは物資を任意に使用する許可を求める文書をしたためて行政府の指示を待った。難色を示すだろうと、ラヴェッタや他の幕僚たちは思っていたのだが、意外なことに送られてきたのは、マファナに将権を与え、ロンディアの太守に任命する証書と印璽であった。つまりマファナは、名目の上においても総帥として認められ、彼女が率いる軍が“正規軍”となったのである。
これによって、ロンディアの物資は太守となったマファナの随意で使用できるようになった。軍事のことになると、極端なほど判断力の落ちる行政府にしては、信じられないほどに迅速な対応であったが、“緒戦の大敗が、相当効いたのだろう”とはアレッサンドロの言である。
 太守になったとはいえ、現状はアネッサが最前線の拠点になっているので、軍の総帥でもあるマファナはロンディアには赴かず、アネッサに常駐している。代わりにロンディアには行政に心得の深いロッシュという幕将を名代として送り、都市の統治を委任していた。
ロッシュはその期待にこたえるように、見事なまでの統治手腕を発揮してロンディアを治め、もともとが潤沢であった物資を更に豊かなものにして見せた。武官でありながら軍事においては特に才覚を見せなかったロッシュではあったが、その能力を別の形で生かして見せたマファナの総帥としての資質は、これだけでも相当のものだ。その人選に関しては何もラヴェッタは進言しなかったし、正直な話、地味な存在であるロッシュという男は、その“軍師の目”には有能な将として映っていなかった。
 ロンディアが絶大な補給地となり、そういう後ろ盾を得たことでアネッサの防衛網は一層厚くなった。開戦当初はいいように攻め込まれ、切り取られていたハイネリアの辺境地域も、少しずつではあるが取り戻している。
小国であるハイネリアだから、大軍を送り込めばすぐにでも制圧できると踏んでいたオルトリアードは、しかし、密約を交わしたフラネリア王国の変心を恐れるあまり、準備の少ない進軍となった。それ故に、補給路が確保しきれていない。補給地としてあて込んでいたロンディアを陥落させることができず、さらに、アネッサに拠点を築かれたことで元々が細い補給線を分断され、アネッサ以東への撤退を余儀なくされていた。緒戦の大勝は既に過去の話となり、オルトリアードが不得手とする長期戦を強いられている。
 大軍であれば、物資の消費は凄まじく早い。それで、大掛かりな補給を本国に求めたのであるが、その情報は密偵によってラヴェッタの知る所となった。
(この輜重隊を叩けば、オルトリアードの軍は一時撤退するだろう)
 故にラヴェッタは、奇襲を画策した。この作戦さえ成功すれば、ハイネリアはとりあえずの安寧を得ることが出来る。その間に、外交で上手く立ち回れば、この戦争を勝利で終えることが出来ると、ラヴェッタはそこまで思考をめぐらせていた。


「………」
 明けをひかえた空気は、冷えを感じさせる。
アネッサを出た勇士・百名は、武力の弱い輜重隊とはいえ数十倍もの敵と戦うことになるから、皆一様に緊張した面持ちを隠せてはいなかった。
 しかしそれも、行軍に入れば徐々に薄らいだ。身体を動かせばその分、余計な考えは分散される。また、行進の中に身を置くうちに昂ぶるものが生じたものか、いつしかそれは鋭気となって、部隊の士気の高さをラヴェッタの目に映した。
(さすがは、アザル殿の部隊だ)
 百名の勇士は、そのほとんどがアザル将軍の率いる兵である。
アザルはとにかく膂力に優れた男であり、知略に秀でたものが多いハイネリアでは稀有な猛将であった。当たるを幸いに敵をなぎ倒し、猪突猛進を地で行く戦い方をする彼は、しかし、その“剛勇”が先の総帥である公族の男爵には“野蛮”に映ったらしく、見栄ばかりを重んじたその男爵が軍を率いた先の大戦では、戦陣に加えられなかった。それでもひそかに、歩卒として隠れて戦闘に参加していたというのだから、愛国の志は誰よりも強いものがある。
 そういう男に率いられる部隊は、やはりその気質が染み渡っているようで、アザルの部隊は皆が勇敢な兵であった。大軍に気後れすることもなく、我先にと敵にぶつかり、これを散々に打ち破るのである。
 いま、奇襲隊に加わっているのはその中でも選りすぐられた勇士だ。数は少ないが、一人一人が“一騎当千”の兵といってもよく、そんな強者と共に行軍しているラヴェッタは、とても心強いものを感じている。
(煌びやかに飾ることが、戦いではない)
 見栄などは、最も不要なものだ。そんなものに振り回され、戦場の露と化した父はさぞ無念であったろうと、ラヴェッタは思う。
(お父様の無念は、必ずや私が晴らしてみせる)
 表情をあまり変えないラヴェッタではあるが、オルトリアードに対する敵愾心は実は誰よりも強い。戦争に私怨を持ち込むのはタブーではあるが、やはりそういう思惟は留めて置けないのも子としての情であり、過ちと言い切るわけにもいくまい。
「軍師殿、顔がこわばっておるのぅ」
「?」
 不意に、飄々とした声がかけられた。首を動かすと、鉄製の兜から見える皺だらけだが血色の良さが窺える顔と、白く長い髭がすぐに目に入ってきた。アレッサンドロである。
「老将軍……」
「ほほ、気負っておるのか?」
 齢六十を越えているとは思えないほどの、闊達とした足取りである。長らく隠居の日々を送っていた彼だが、武人の血潮は熱さを失っていなかったようで、戦場に戻ることで更に若返ったようにも見えた。
「それとも、ご尊父のことを思っておったのか?」
「………」
 不意に、そんな老将の顔色に寂しさが宿った。
ラヴェッタの父・ヴェルエットは、アレッサンドロが軍の総帥として現役の軍人であったとき、彼が最も期待を寄せていた幕僚であった。固辞されはしたが、アレッサンドロが退官するとき、次代の将権を委ねるべきはヴェルエットしかいないとまで考えるほどにその才を愛していた。だから、先の大敗で彼が戦死したことを聞き及んだときは天を仰いで、“ハイネリアは、百年に一人の才能を失った”と嘆き、国の衰亡は間もないだろうと悲観もした。
 だから、
『ハイネリアを護るために、マファナ様がアレッサンドロ殿を必要とされています。力をお貸し願えませんか?』
と、マファナ公女の親書を携えて訪ねてきたラヴェッタに説かれるまでもなく、彼はすぐに腰を上げた。退官後、地方の領主としてわずかに土地を与えられていた彼は、その地を護るために五百の私兵を抱えていたのだが、それらを率いてマファナの下に馳せ参じ、自らその幕将として彼女に忠誠を誓った。
 マファナは忠義を捧げるに値する公女であった。どちらかというと、武官は公族に対して親しみを見せない面があり、アレッサンドロも同様であったのだが、公族ということを何もひけらかそうとはせずに膝をつき、“ハイネリアを護りたいのです”と改めてアレッサンドロに頭を下げるマファナの礼の篤さに、彼は驚いた。公臣とはいえ階位の低い武官に、公族が辞を低くして礼を尽くすことなど、あり得る話ではない。この時点で、アレッサンドロはマファナを信奉した。
 そして、アレッサンドロが更に驚きを覚えたのが、マファナとラヴェッタの軍事における造詣の深さである。二人ともうら若き乙女であるというのに、戦争の現実をしっかりと認識しており、華やかで煌びやかな戦い方しか考えない貴族のような頭の固さは微塵もなく、常に確実に、そして迅速に勝利が出来る方法を謀り続けていた。
 敵は大軍であるから、正面からぶつかるのは愚策である。数を頼み、補給線を確保しないまま進軍しているオルトリアードの部隊をまずは分断し、それぞれを各個に撃破していくゲリラ戦で勝利を重ねた。緒戦の大勝に緩んでいたオルトリアードは、各隊の連絡もあいまいなものになっており、かなりのばらつきを見せていたので、その隙を突いたのだ。
総数では大軍であっても、各隊が横の連なりを失えば、それぞれの師団は孤立した状態になり、寡兵であるマファナの軍と結局は同じ兵勢で戦うことになる。そこに士気の緩みが加われば、いくら屈強さを謳われる軍隊でも勝てる道理はない。
 マファナとラヴェッタは地味に確実にひとつひとつ勝利を重ねる戦いを続け、ついにアネッサを奪い返した。公族には考えられない、我慢強い戦いを彼女たちはこなして見せたのだ。更に、そのアネッサを堅固な城砦に構え、軍の編成を行い、緒戦の大敗で散り散りになってしまった正規軍に代わる軍隊を、瞬く間に組織したのである。驚くべき手際の良さだ。
 アレッサンドロは確かに一助を成したが、そのほとんどはラヴェッタの提言によるものだ。拠点をロンディアではなく、アネッサに定めたのも彼女である。確かにロンディアは厚い城郭を持つが、平地にあるために囲まれやすい地勢を持っており、大軍であるオルトリアードを迎え撃つにはいささか不適な地であった。一方でアネッサは、丘陵地を背中に負う形となっており、大軍で囲むことが出来ない。また、アルセル川の支流河川がロンディアから流れこむ形で砦の付近を通るので、補給の運搬も非常に容易に行うことができた。丘陵地が傍にあるので、木材や岩石などの物資も事欠かない。まさに、城砦にはうってつけの場所であった。オルトリアードの失態は、城砦としてまたとない資質を持っているアネッサを、しかし、寡兵で占領するだけに留めていたことにもある。彼らの狙いは、潤沢な物資を持っているロンディアにしか向けられていなかったのだ。
『ヴェルエットは種を残していた』
 ラヴェッタが“知将”の娘であることは既に知っていたが、実はマファナも彼の手によってしばらくは養育されていた事を知ると、アレッサンドロはますます彼女たちを援ける思いを強くした。老骨の全てが燃え尽き果てるまで、戦い抜く決意を固めている。ヴェルエットの残した種から芽吹いた良質の苗木を、戦場で枯らせることだけは絶対にさせたくない。
「老将軍、小休止を入れましょう」
「おっ、そうじゃのう」
 今度は自分が己の思考に沈んでいた。ラヴェッタの言葉で我に帰ると、アレッサンドロは自分の部下たちに伝令を与え、行進している百名の脚を止めさせて、それぞれに食事の時間を取らせることにした。


 軍隊の携帯食は、固パンと干し肉が主である。とにかく保存が利くことを第一に考えられているそれは、水分が極限まで抜かれ、それゆえに相当の固さになっており、かなりの咀嚼を施さなければ、飲み込むことが困難である。
 あまり食事に時間を取れない軍事活動中においては、火を焚き、水を煮る暇さえ憚られる時もあるので、このような携帯食で手短に食事を済ませることが多い。
だが、咀嚼の回数が多ければ多いほど、満腹中枢はそれだけの刺激を受ける。陽も明けきらない時分から野に出た勇士百名は、そんな携帯食でもひと心地を得られたようで、かすかに漂っていた疲労感が、一掃されていた。
(行程の、半分は来ているか)
 アザルの部隊は、健脚が多いようだ。想像以上に進軍の速度があり、空の色あいと周囲の光景を見て、時間と行程を読んでいたラヴェッタは時間に余裕が出来ていることを知り、食事の時間を設けたのである。
 しかし、それほどゆったりとしてもいられない。それぞれが食事を終えたと見るや、行軍の再開を告げると、再び草の端をリズムよく踏みしめる音が起こった。
 それから、程なくのことである。

 グル……

(うん?)
 かすかなうねりを、ラヴェッタは下腹に感じた。

 グルッ、グルッ、グルルルル……

(……っ)
 静かな流動は、間を置かずして渦潮に変化する。

 グルルルル! キュルッ、キュルッ、キュルルルルル!!

(!?)
 下腹で沸き起こる違和感が“鳴動”に変わり、その鳴動が麻縄を縒り合わせるように収束して、違和感を下へ下へと押し込んできた。

 グウゥゥゥ……

 押し寄せる違和感は、ラヴェッタの腸をうねらせながら流れるように進み、一気にその最終到達点へとたどり着いた。
(な、なんと……う、うぅ……)
 直腸のほうに溜め込まれる、違和感たち。そういう異物を感じた瞬間、ラヴェッタの身体の防衛本能が目を覚まして、脊髄を通るようにして寒いものを全身に伝わせ、“それ”の発露を強く促していた。
(なぜ、今になって……あ、あぅ……)
 “それ”とはすなわち“便意”である。

 ギュルルル……

「くっ……」
尻の中央部に切ないものがこみ上げてきたラヴェッタ。しかし、行軍の脚を止めるわけには行かないので、括約筋を絞り上げるようにして違和感も押し上げる。窄まっている出口の付近まで寄りかかってきた便意を、何とか腹の中に戻そうとした。
(場合が悪いではないか……)
 小休止のときに催したのならば、速やかにそれを解消することができたのだが、今は既に行軍が始まっている。それも、小休止の時間を与えることと、行軍の再開を伝えたのは、ラヴェッタ自身なのだ。

 グルルッ、グルッ、グルッ、グロロロロロ!!

(う、うぅっ、うくぅっ!)
 それが、“急に糞がしたくなったから”と部隊の脚を再び止めたとあれば、兵の鋭気を萎えさせることにもなりかねない。食の休憩を終え、疲労感を払って始めた行軍だ。それを進んだり止まったりと忙しない動きをさせてしまうと、彼らの緊張感は一気に緩んでしまうだろう。

 グウゥゥゥゥ……

(あ、うっ、うむぅっ……)
 そんなラヴェッタの苦悩を知る由もない廃棄物たちは、どんどんと合流を終えて彼女の直腸を膨張させている。鳴動する腹具合も、収まる様子は全く見せることもなく、むしろ悪化の一途を辿るばかりのように思えた。
(くっ、し、したい……出してしまいたい……)
 しかし、個人の都合で行軍を止めることは絶対にできない。女としての羞恥よりはむしろ、現実的な部分で彼女はそれに耐えることを決めた。
(腹が……く、うっ……は、腹がぁ……)
 じくじくと滲んでくる苦痛。それは、全身に冷えた汗を生み、とてつもない不快感を交えてラヴェッタに攻めかかる。
ラヴェッタは気力を振り絞り、括約筋も引き絞り、やや内股で歩くことで尻の圧迫感を増加させて、洩れ溢れてしまいそうになる便意を堪えることに努めた。
(なぜだ……なぜ、急に……?)
 常に冷静沈着なラヴェッタではあるが、さすがに余裕を失いかけている。無意識に足を動かしながら、思い当たる腹が急に下った原因を探り始めた。
(確かに、腹はしぶっていたが……)
 ロカに心配をされていたように、最近のラヴェッタは腹具合が良くはなかった。だが、急に腹痛が襲い掛かるとかそういう切羽詰ったものではなく、便意を感じてそれを解消したとき、固さを失ったものが木桶を満たすにとどまっていた。
 ラヴェッタは、マファナが起居しているレンガ造りの官舎の一階に部屋を持っている。だが、その隣にしつらえられたテントの中にある厠では用を足さない。ミラとミレが護っているそのテントはマファナ専用のものであり、従ってラヴェッタは便意を感じたときは、官舎の付近に用意されているそれのための小屋を他の幕僚たちと同じように使っている。また、一隊を率いて砦外を巡回している際に不意に催したときは、茂みの中に尻を沈めそれを思うままに解消していた。いわゆる“野糞”だ。
 そもそも、この時代には“トイレ”という概念があまりない。公族たちは侍従に陶器を持たせ、見られている中で用を足しているし、都市に暮らす一般の民衆たちも排泄は部屋の中で堂々と行っている。このアネッサには、それだけのために施設が設けられているが、これは衛生面での影響を考えたロカの案によるものであり、また、屯田を始めたことにより排泄物をより効率的に収集する必要もあるという理由があった。わざわざ兵舎や官舎のひとつひとつを廻りそれを集めてくるよりは、最初から同じ場所に溜め込んでおいたほうが余計な手間も省ける。
 人糞を肥料として利用している農耕地域では、木桶を満たした排泄物を集める場所がきちんと用意されているのだが、都市に暮らす人々の場合はそれがない。排泄物が木桶を満たせば、なんとそれを窓の外に放り投げて処理をするのだ。
『お気をつけください!』
 窓から顔を出した誰かがそう言ったときは、路上にある人々は一様にその軒下を避ける。なぜなら、頭上から放り投げられた排泄物がそこに撒き散らされることを知っているからだ。もちろん、放り投げる前に一声かけるのは最低限のエチケットであり、それを怠って人に害を与えた場合は、罰金を取られる。
 そういうこともあったので、実は都市の道路というのは非常に不衛生であった。垂れ流しにされた排泄物が汚泥と化し、下水などはもちろん存在しないので、雨など降ろうものならそれは瞬く間に溶け出して道を汚していた。
 だが、それを上手く活用するものがいるというのが、人の面白さだ。いつごろからかハイネリアの各地で、台車を引いて排泄物を集める業者が現れるようになった。それも、一枚の銅貨とそれを交換するのである。銅貨がもらえるという打算が働けば、排泄物を窓から垂れ流しにしようとする人たちはもちろんそれをやめ、週に三度、廻ってくる業者に銅貨と引き換えにそれを渡すようになった。
 排泄物を買い取ってまで集めている業者は、それを肥料用として使っている農地に売りさばくだけでなく、屑木と籾殻を混ぜ合わせ、乾燥させることで固形化したものを燃料として売り出した。かすかな匂いこそは残るが、薪に比べて燃焼時間が長く、安価でもあるそれは瞬く間に民衆の間に浸透し、その業者はあっという間に富を築くに至ったのである。
 話が逸れてしまうが、この業者は“アルエスト商会”という。しかも驚くべきことに、その後援者は、ハイネリアの公族であった。どの世界にも、“変わり者”というのは存在するらしい。それが民衆の中であっても、公室の間であっても、だ。
 ハイネリアは国としての歴史こそ浅いが、農業地帯としてのそれは相当に古い。従って、いかに土地を富み肥やしていくか、また、農産物の収穫によって生まれた使いようのない部分をそれでもいかに活用していけるか、常に研究していく素地があった。刈り取った麦やモロコシで、食用にならない茎や葉の部分を泥に混ぜて、これで家の壁を作ってみたところ、レンガに匹敵するほど強固な土塀が出来上がったというのは特に有名な話だ。それが発展して、都市の最も外郭を成す部分は、その土塀が多く使用されるようになっている。
 ……さて、ラヴェッタである。

 グロロロロ! ゴロッ、ギュルルルルル!!

「うっ!?」
感じた便意を堪えると決心したのはいいが、その決意を翻させるような激しい腸鳴りが起こった。思わず右手で下腹を抑え、ふきこぼれを防ぐために臀部で挟み込むようにして出口を窄めるという、“我慢する”動きをしてしまう。
「どうしたのじゃ?」
 隣を歩くアレッサンドロは、もちろんラヴェッタの様子に気がついた。それまで、テンポの良い足取りであったものが、急に速度を緩めたのだから当然である。
「い、いえ。少し、石に脚を取られただけです」
「大丈夫かの?」
「え、ええ」
 さしものラヴェッタも、事実を伏せてしまった。“便意のために腹が痛くなり、足並が乱れた”のだとおおっぴらにはどうしても言えなかった。
 自らが一隊を率いて巡回をしているときに催したときは、それほど気兼ねすることもなく“少し、ここで待て”と兵に告げ、茂みの中で思うままに便意を解消していたが、今は選りすぐられた奇襲隊の一員となっているのだ。武勇に秀でた兵士ばかりであるとはいえ、皆が抱いている緊張の度合いは哨戒の時などは比べ物にならないほど大きいだろう。

 グルル……グルッ、グルッ……キュウゥゥ―――

(く、し、鎮まれ……鎮まってくれ……う、うくぅ……)
 その緊張を、自分の都合でゆすぶるようなことはしたくなかった。
 もしも軍の脚を止めたとすれば、
『さっき食休みを入れたばかりだというのに、どうしたんだ?』
 という、不審がまずは広がりを見せるはずであり、
『誰かが、用を足しているんだとよ。まったく、休みのときにしておけよなぁ』
 その理由を窺い知れば、個人的な理由で脚を停められたことに苛立ちを覚えるはずだ。それはそのまま、兵士の士気に影響することは間違いない。
『どうやら、軍師らしいぞ。呆れたことに、戦上手なはずの軍師がご自分の都合で軍の脚を停めて、野糞をしておられるんだと!』
 それが、指揮を取る立場の自分だとわかれば、これまでの信頼を全て失い、誰もが命令に従わなくなってしまうと、ラヴェッタは予測した。多分に悲観的過ぎるきらいはあるが、それは、“戦局を眺めるには常に最悪の状態から思考を進めなければならない”と、父に教えられてきたからであろう。
(なんとか、我慢を―――)
 目的地に着くまで堪えるしかないと、決意を新たにした瞬間であった。

 ギュルルルルルルッッ!

「う、うぁっ!」
 うねりというよりは、痙攣というべき下腹の震えがラヴェッタに襲い掛かった。まるで駆け下るような勢いで、便意が外窓を内側から無理やり抉じ開けようとしている。

 ゴロロロッ! ギュルッ、ギュルッ、ギュルルゥゥゥ!!

(く、苦しい……も、洩れて……しまう……う、うぅぅ!!)
 暴発してしまいそうな内圧に苛まれて、ついにラヴェッタはその脚を停めた。張りのある瑞々しい内腿をぴたりと締め付け、尻の間にある扉を臀部の肉によってしっかりと施錠し、緩い中身の漏出をなんとかして防ぎにかかったのである。
 もちろん、そんな様子は皆の目には奇異なものとして映った。まさか、女の身でありながら凛々しくも自分たち兵卒を指揮している彼女が、“糞を洩らしそうに”なっているなど想像もつかないだろう。
「軍師殿、いったいどうしたというのじゃ?」
そんな兵卒たちの怪訝な表情を受けつつも、洩れ溢れてしまいそうな狂気をどうすることもできず脚を停めるばかりであったラヴェッタの傍には、当然ながらアレッサンドロが寄ってきた。
「先ほどから、足並が乱れるばかりではないか」
 言葉尻に少し非難の色が篭っているのは、この部隊が背負う重責を誰よりもラヴェッタが知っているはずなのに、それを彼女が自ら乱していることへの不審であろう。
「す、すみません……くっ」

 グウゥゥゥ……

(う、む、くはぁ……)
 アレッサンドロの軽い叱責を受けたラヴェッタは、気力と括約筋を振り絞って糞気を押さえ込んだ。普通ならば、もう洩らしていてもおかしくないほど、内圧は高まりを見せているのだが、それでも堪え続けていられるその気力は、瞠目に値しよう。そこには、皆の前で洩らすわけにはいかないという、女の意地も含まれている。

 キュッ―――……

(あ……)
 幸いにも、宿主がその開放を望んでいないことを知ったように、便意が少し収まった。意思などもち得ない存在ではあるが、彼らが“遠慮”をしてくれたことにラヴェッタは感謝の念すら抱く。
「よ、よしっ」
 その足取りに、快活さが戻った。下腹と直腸に重い存在感は残るが、それを意識してしまうと便意の蠕動が再び起こるような気がしたので、ラヴェッタは無理やりにでもそれを忘れることにして、脚を動かすことにした。



「ミレ、ミレ、大変よ大変!!」
 マファナの排泄物が入った木桶をロカに届けて廊下に出たミレは、やはり同じような木桶を両手に持って駆けてきたミラの姿に、数刻前の己の姿を思った。
「どうしたの、ミラ」
「こ、これを―――」
 そう言ってミラが差し出した木桶は、マファナの部屋にあったものと全く同じものである。つまりは、夜間に催したときに使われる排泄用のものだ。
「ウッ……」
その中身を確認したミレは、思わず目を背けてしまった。その中で渦を巻いている真っ黒な汚泥が、あまりにもおぞましかったからだ。
「こ、これを何処から?」
「ラヴェッタの寝所よっ! 部屋からひどい匂いがしたから変だと思ったのだけれども、扉の脇にこれが置かれていたの!」
 普通、夜間に排泄を行った後、その木桶は匂いが部屋中に満たないように蓋をして、扉の傍に置いておく。それを、ミラとミレが掃除の際に持ち運んでいくのだが、ラヴェッタのモノの場合はロカのところへは持っていかず、そのまま肥料用として農地にある“肥桶”に入れられる。その後、空になった木桶を丁寧に洗い、それを部屋に戻しておくことで処理は全て終わるのだが、中に入っているモノの状態が明らかに“異常”を訴えていたので、ミラは血相を変えてロカのところに持ってきたのだ。
「どう考えても、これも普通じゃないわ!」
 マファナと同様に、ラヴェッタの腹具合も相当に低調であるらしい。ロカに言われて、ラヴェッタの排泄物の状態をよく観察していたミラとミレだが、これまでのものに比べて目にしているものは最悪な状態である。
「は、はやくロカに見せましょう!」
 マファナの排泄物が満ちた木桶を届け終え、ロカの部屋から出たばかりのミレだったが、すぐにミラを伴って部屋の中に戻った。
「ウ、ウプッ……」
 中に篭る臭気に、思わずミラが咽る。
「バタバタして、どうした?」
 それを聞きつけて、口元を厚い麻布で覆っているロカが振り向いた。職務を終えて、部屋を出たはずのミレが、ミラと共に再び部屋に入ってきたから、あまり感情を露にしないロカも、不審がそこに張り付いている。
「ロカ、これはラヴェッタのものなのだけど……ウ、ウッ、ウェッ……」
 いくら排泄の臭気に慣れているとはいえ、二人分のものが篭っている部屋の中は、凄まじい空気の状態である。木桶を両手に持っているので口元を押さえることが出来ないミラは、こみ上げそうになる吐き気を必死に喉元で押さえながら、手にしているものをロカに差し出した。
「これもひどいな……」
 覗きこむようにして、その状態を確かめるロカ。
(ラヴェッタめ……無理をしたのは、きみの方か)
 そして、持っていた陶製の棒で桶の中で渦巻く汚泥をかき混ぜると、その中にモロコシの粒が大量に残っているのを発見し、彼女は深く嘆息した。消化が出来ていないということは、それだけ器官が荒れてしまっているということだ。
 マファナのものは、確かに固さを微塵も感じさせないヘドロ状の物体ではあったが、よく観察してみれば消化はしっかりとできていた。おそらくは、もともとが過敏で繊細な彼女の消化器官が、戦を間近に控えたという緊張感と合わさることで相乗の反応を起こし、消化によって生じた廃棄物の水分を抜き取る間もなくそれを下してしまったのだろう。
 比して、ラヴェッタのものは明らかに異常だ。なにしろ、掻きまわせば掻きまわすほど、未消化の穀物が顔を出してくる。確かに、モロコシは粒の外皮が固く、消化をしにくいものであることは認めるが、それにしては残っている数が多すぎるのだ。
e(薬を渡しておいて、よかった)
 ラヴェッタに渡した薬は、非常に苦いが下痢止めの作用として効果のある樫の木根を粉末状にして、消化不良を改善する効果を持つ薬草“フェルミア”を練りこむことで丸薬にしたものだ。匂いともども刺激の強い薬なのだが、自分の身体で効果を試したところ非常に良い結果を得られたので、腹を下した兵士に良く使う処方箋である。
 だが、胃腸の弱いものが使用すると逆に下痢が止まらなくなるという副作用が出るので、マファナには使えない。もちろん、兵士たちに渡す際にもそのことは厳に注意を与えている。ちなみにその副作用は、マファナより更に消化器官が強靭ではないミレにその薬を処方した所、彼女は激しい下痢に苦しんで、一昼夜、木桶から尻をあげられなかったというロカにとっても苦い過去の失敗例から判明したものだ。
『マ、マファナ様がこうなる前にわかって、よかった……』
 ありとあらゆる内容物と水分を尻からひりだし木桶に叩きつけ、見るからに衰弱してしまったミレだが、その時は健気にもそう言ったのである。侍従の鏡である。
「ラヴェッタには薬を渡してある」
「あ、あの薬?」
「ああ」
 しかし、生涯の中でこれ以上ないほどの苦しみを味わったのだから、ミレには例の薬に対する恐怖感が強い。裾の布で口元を押さえ、部屋中に篭る臭いを直接吸い込まないようにしながら、恐れおののいた表情をしていた。
「ウッ……グプッ……」
 話に落ち着きが出てきた所で不意に、奇妙なうめきが聞こえた。ミラである。
「?」
顔を見合わせていたロカとミレは、そのうめきを発したミラに視線を寄せた。そして、二人とも表情を凍りつかせた。
「グブッ、ウ、ウウッ……」
 もともと丸みのある頬が、まるでリスがひまわりの種を口いっぱいに頬張っているように更に膨らんでいたのである。
「ミラっ!」
「臭気に中ったのか。かまわないから、これを使うといい」
「グッ……ウブッ……!」
 ロカの許しを得るとミラは、彼女が持っていたラヴェッタの排泄物が満ちている木桶を抱えたまま二人に背を向ける。
「オエッ、ゲッ、ゲエエェェェェェ!!」
 瞬間、清楚なミラからは想像もつかないほど、醜く空気を震わせる音が響いた。嘔吐したのである。背を向けたのは、口中に既に嘔吐物が満ちていた彼女にできる精一杯の気配りだったのだろう。まさか、吐き戻す瞬間を二人に見せるわけには行かないと…。
「ゲェェ、オゲェッ、オエェェ……」
 そんなミラの口内を蹂躙しながら、ボタボタと黄土にも似た吐瀉物が木桶の中にこぼれ落ちていく。
「ウプッ……オ、オエッ……ゲエエェェェ……」
上下に出てくる汚物で満たされたその中身の惨状を目の当たりにしているミラだ。更にこみ上げてきたものを防ぐ手立てもなく、口から吐き出して木桶に叩きつけた。
「ミラ、大丈夫……?」
 双子の姉の、急な嘔吐に呆然としていたミレではあったが、すぐに気を取り直すと、背中を優しくなでさすり労わる。一度、吐いてしまったのだ。それならば全てを吐瀉させなければ、回復はあり得ない。
「ミレ、ミラを早く部屋の外に」
「は、はい」
 ミラが嘔吐してしまった原因は、この部屋に満ちている排泄物の臭気をまともに吸い続けてしまったからだ。とにかく、新鮮な空気を吸わせるよりない。
「そ、それじゃあロカ……さ、ミラ、行きましょう」
「はぁ……はぁ………ご、ごめんなさい……う、うぷっ……ウッ、グブッ!」

 びちゃびちゃびちゃっ!

「………」
 三度、木桶に向かって嘔吐物を口から溢れさせたミラ。その肩を優しく支えながら、ミレは部屋を出た。空いている手が常に口元にあったのは、やむを得ないところであろう。
(久しぶりに、フルコースで来たな)
 食あたりや水あたりを起こし、下痢や嘔吐に苦しみながら運び込まれる兵士たちを何人も診察してきたロカなので、そういうものには慣れてしまっている。排泄物と吐瀉物を同時に観察するとき、いつのまにか“フルコース”という表現を彼女は使っていた。
 それにしても、いくら厚い布で口元を覆っているとはいえ、ミラの嘔吐によって混じったこの世ならざる臭気が立ち込める部屋に、彼女はよくも耐えられるものである。
(お師匠は、“頭から浴びても平気になれ”と言っていたからな。実際に、浴びせられもした……何度吐いたか、覚えがない)
 それはやはり、厳しい修行の賜物であり、そういうものを乗り越えてきたロカの精神力と胆力は、いくら武芸に通じていないとはいえ、この砦を強く護っている“力”のひとつなのである。



(くぅ……はぁ……)
 行軍は続いている。ラヴェッタは、一時ほどの切羽詰った苦痛がなくなったとはいえ、重みのある違和感を下腹に抱えながら、脚を動かしていた。

 グルッ……グルッ……グゥゥゥ……

(む、むぅっ)
 周期的にやってくる、窄まりへの強い圧迫。それを感じるたびに括約筋をきつく絞り、便意を直腸の奥のほうへと押し上げることで、ラヴェッタは堪え続けている。
 尻の中央部に力を込めているので、必然、内股になる。グラマラスなヒップの彼女であるから、そのラインが強調される歩き方は、彼女の後ろで行進している兵士たちの目には悩ましげなものに映った。いくら軍紀が統制された兵士たちであっても、長らく禁欲の生活を送っているわけだから、鎧に身を包んでいるとはいえラヴェッタの見せる“女としての艶”に反応してしまうのは、仕方ないだろう。
(ラヴェッタ様……?)
 影に徹し、常にラヴェッタに近似しているカゲロウだが、今はその兵士の中に紛れている。彼女の背中を護る隊の中にいるから、当然、注視しているラヴェッタの様子がいささか変調を見せているのは気がついていた。
(歩き方が、いささかぎこちないが……)
だが、まさか彼も、自分にとっては直接の主君である彼女が“糞をしたくてたまらない”状態にあるとは想像もつかない。

 グルル……

(くっ、か、間隔が……)
 そんなカゲロウの心配には気づかず、小康を保っていた腹具合の悪化にラヴェッタは苦しみだした。寄せては返す便意をさえぎり続けてきた窄まりと、締め上げてきた括約筋の感覚には痺れも生じている。
(出したい……くっ……してしまいたい……)
 戦場を目指す行軍の中にありながら、彼女の思考は自分を苦しめているモノで直腸ともども満たされていた。

 グヌヌヌ……

(!?)
 大きな質量が、一気に腹を下ってきた。小休止の際に摂った食料が、体内での精製作業を終えて腸内に流れ込み、不純物をさらに搾り取られて末端器官へと押し出されてきたのだろう。そして、変調をきたしているラヴェッタの器官はそれを固形化することも出来ず、流れるままに廃棄物を直腸に注いでしまっている。

 ギュルルルル! ギュル!! ギュロロロロロロロ!!!

「う、うぅぅっ!?」
 鈍い違和感が、その先端を鋭角化させてラヴェッタの本能を刺激してきた。窄まりと括約筋によって防がれている氾濫は、さらに大きなうねりを加え、ラヴェッタの持っている有機的な容量を超越した。それは、激しく鈍い音を立てた下腹が全てを物語っている。
(今の音は、なんだ?)
 特殊な訓練によって驚異的な聴覚を得たカゲロウは、草の根を踏みしめる音に紛れて響いた鈍いうなりを聴き取った。彼の注意は全てラヴェッタに向けられているので、ことさらにその音が耳に入ってきたといえる。
(ラヴェッタ様は、もしや……)
 低くくぐもった、空気を捻るような音。そして、しおらしい足の運び。それらを推量に重ね合わせることで、彼女が今どういう状態にあるか、カゲロウもようやくひとつの答えを導き出すことができた。
(催された、というのか!?)
 “糞を我慢している”のだということに…。

 ギュルルル……ギュルッ……ギュウゥゥゥゥ――――

(音が、またしても……これは間違いない)
 ラヴェッタの腸鳴りが、今度ははっきりとカゲロウの耳に届いた。“そういう状態である”と推量の中で認識していた彼の正しさを証明するように。
(むっ、うっ……く、くそぉ……)
 一方でラヴェッタは珍しくも感情を乱れさせ、自分を苦しめる悪意たちを呪っていた。一歩一歩を踏みしめるごとに、こみあげてくる便意が窄まりの内側を猛烈に叩き、その開放を訴えている。

 グルルルルッ!!

(な、なにっ、う、うぐぅっ!)
 とうとう、氾濫を起こしていたナレノハテたちが実力行使に出た。一気呵成に勢いを集め、抵抗を続けているラヴェッタの理性に押し寄せてきたのだ。

 ブビィィッ!

「!?」
 その余りの尖鋭さに、理性は押し流された。激しい腹痛を逃がすには、窄まりを広げて違和感を排出するよりほかにないと判断した体の器官が、理性を押しのけてその機能を忠実に全うしたのである。
(う、くっ、し、しまった―――)
 自分の意思を越えた身体の反応は、ラヴェッタの精神に水を浴びせた。熱い湿りを帯びた空気が、きつく締められている下布の尻の部分に充満し、そのぬくみが尻の肌にはっきりとした感覚を生み出している。
(ラ、ラヴェッタ様!?)
 もちろん、下腹のうねりよりもはっきりとしたその放屁の音は、カゲロウの耳にも届いている。
「おいおい、誰だ? また豪快に“ブリッ”としたモンだ」
 だが、空気を激しく振るわせたその放屁の音は、他の兵士たちにも聞こえていたらしい。誰かがそれを指摘するや、緊張に顔を強張らせていた彼らの顔には一様に苦笑が浮かんだ。どうやら、同じ事を皆は考えていたのだろう。“こういう状況で屁をするとは、肝の太いものがいるものだ”と…。
(くっ……)
 罵られているわけではないが、自分が致した放屁を話題にされていてはさすがにラヴェッタも激しい恥辱を感じる。便意が運ぶ冷たい刺激の中に、羞恥によって生まれた火照りも混じった。
「ははっ、しかし、でっかい音だったなぁ」
「なんというか、糞ごと出ちまったような音だぜ」
「おいおい、それぐらいにしておけよ」
「わかってるよ」
しかし、それ以上の詮索に至らなかったのは、軍中での余計な私語を慎んだからであり、そういう意味ではこの部隊はよく訓練がなされている。かすかに生まれたさざめきはすぐに沈静し、進軍に集中するようになった。
(………)
 放屁をしたのがラヴェッタであると気づいているカゲロウは、彼女が尻に手を伸ばしたのも見逃さなかった。腰当を直す振りをしていた手が、尻の中央部でなにやらごそごそとしているのも、全て目の当たりにしていた。
(粗相をされたのか……?)
 下布は腰当の下に隠れているので、粗相をしたとしても、浮かんでくるはずの茶色い沁みは確認できない。こればかりは、ラヴェッタの様子を窺うことで推量するよりないのだが…。
(大丈夫、のようだ…)
 その背中に安堵の空気を見たカゲロウは、最悪の事態は免れていたのだと判断した。
(洩れては……いない……)
 押し寄せてきた便意に抗いきれず放屁をしてしまったラヴェッタだが、今回の放屁はぬくみのある空気を排出するにとどまり、質量のあるものはなにひとつ排泄されなかったことは、下布に冷たい感触が残っていないことでわかった。つまりは、“洩らさなかった”ということだ。
(あ、危なかった……)
 安堵のため息を、かすかにこぼす。充満していたナレノハテたちの憤懣も、空気だけとはいえその一部が開放されたことによってわずかに溜飲を下げたようで、周期の波は穏やかなものに変化していた。
(なんとか、この間に……)
 目的地にたどりつくことができれば、排泄のためにしばらく部隊を離れても問題はない。腹具合の現状維持を祈りながら、ラヴェッタはその脚を動かしていた。
「申し上げます!」
 やがて、隊の前方から駆け足で一人の兵士がラヴェッタとアレッサンドロの前に現れ、膝をついた。アザルが率いる“前軍”に所属している兵だ。
「先頭は目的の場所にたどりつきました」
「そうか!」
 その言葉に思いのほか喜色を顕にしたラヴェッタ。普段はあまり表情を変えない彼女の、思いがけない色のある表情に触れたアレッサンドロだが、まさかその喜びの出所が“これで思うままに糞が出来る”ということにあるとは知る由もないので、怪訝に思いはしたが何も言わなかった。
「アザル殿に、斥候を出すよう伝えてくれ。相手の輜重隊の動きは、逐一、こちらに報告を廻すように、と」
「御意!」
 兵士は瞬く間に、先頭の部隊へと駆け戻っていった。さすが、“質実剛健”を謳うアザルの部隊に所属しているだけのことはあり、その一挙一動には覇気がある。
「老将軍、我らの部隊はこの場でとりあえず待機です」
「うむ、そう伝えよう」
 ラヴェッタの言葉を受けたアレッサンドロは、行軍の停止を伝令として部隊に廻し、それが行き届いた兵たちの脚は一斉に留まりを見せた。

 グギュルルルッッ!!

「!?」
 これからの行動について考えをめぐらせていたラヴェッタに、強い便意の周期が襲い掛かってきた。

 ゴロッ、ゴロッ、ゴルルルルル!!

「う、くあっ!」
 安寧がすぐ傍にあることを意識した体の油断をつくように、彼らは一斉にラヴェッタの理性を襲撃してきたのである。これから行おうとする“奇襲攻撃”を、まさか先だって受けることになるとは皮肉なものである。
(も、もう我慢できぬ……)
 猶予はないが、部隊は既に脚が止まっている。糞をするためだけに行軍を停めるという事態は発生しないから、その生理現象は速やかに解消できる状況ではあるのだ。
「ろ、老将軍……」
 しかし、誰にも何も告げずに草むらの中に入り、糞をするわけには行かない。少なくとも一時は部隊を離れるのだから、その理由と行き場所については誰かに言い残しておかなければ不都合は必ず生じてくるだろう。
「どうしたのじゃ、軍師殿?」
 それを告げるべき相手は、アレッサンドロをおいて他にはいなかった。
「その……少しばかり……」
「?」
「腹の具合が急に……。よ、用を足してまいりますゆえ、しばらく場を離れます。あちらの陰にいますので、アザル殿からの伝令がその間にやってくるようでしたら構わず伝えに来てください」
「おお、わかったぞ」
 軍事活動中の排泄行為は、速やかに行われるべきだ。アレッサンドロはそれを良く知っているので、余計な詮索は何もしなかった。ただ、ラヴェッタにそれを聞いた瞬間、
『軍師殿の足並が乱れていたのは、“それ”でじゃな』
 と、これまでの不審が全て解けた思いを抱き、妙に心晴れた心地にもなっていた。
「むっ?」
 そのラヴェッタの背中が、既に彼女が指し示していた草むらのほうへ消えていた。余程に切羽詰っていたのであろう。
(いかん。護衛をつけねば……)
 敵と対峙していないとはいえ、排泄行為の最中は人間が最も無防備になる瞬間だ。不測の事態がラヴェッタを陥れないよう、誰かに護らせる必要がある。
 実は、ラヴェッタが草むらに向かって早足で駆け出した瞬間、兵士の中に紛れているカゲロウが主君の排泄の護衛をするべく風の如き俊敏さでその背を追いかけていたのだが、彼はまるで影のように己の存在感をその場に居ながら誰の目にも触れないように消すことが出来るので、さしものアレッサンドロにもカゲロウは“見えて”いなかった。
「ヴェスバル殿」
 そこでアレッサンドロは、客分として自分の私兵団に引き入れていた若い傭兵の名を呼び、伝えるべきことを伝えその任務を与えることにした。元々が用心棒で生計を立てていた若者なので、護衛を命ずるにはまたとない人物でもあった。



「はぁ……はぁ……はぁ……」
 ラヴェッタは草むらを掻き分けるように歩を進めている。もう隠す必要もないので、窄まりが不意に口を開かないように明らかな内股で小走りをしながら、器用にも腰当のベルトを緩めにかかっていた。
(こ、このあたりでいいだろう。あまり、離れすぎてもまずいからな…)
 報告があったとき、アレッサンドロや他の兵士が自分の姿をすぐに確認できるようにはしておかなくてはならない。視界で人影が見えるあたりで脚を止めると、緩めておいたベルトを完全に外し、浮き上がった腰当をそのまま自重に任せ足元に落とした。草むらに落ちたから、というのもあるだろうが、それほど甲高い音を発てなかったのは、その防具が革で出来ているからである。

 ギュルルルルッッッ―――――!!!

「うっ!?」
 ベルトの圧迫がなくなった瞬間、ラヴェッタの下腹が苦しみを交えた激しい鳴動を再開させた。腹筋の強張りが薄くなり、押し留められていた便意が強烈な自我を取り戻して、本能の命ずるまま一気に駆け下ってきたらしい。
(く、苦しいっ……は、腹がっ……あ、あぁっ―――!!)

 ブッ、ブビッ、ブビビビッ!!

(!?)
 充満した苦痛に抗うため、緩んでしまった腹筋に少しばかり“力み”を与えたのだが、それが逆効果になった。駆け下ってきたものにさらに勢いを与えることになり、これまでも汚泥の噴出をかろうじて遮っていた窄まりが、許容量を遥かに越えた圧力に抵抗することが出来ず、一瞬とはいえその口を開いてしまったのだ。
(な、なんということ……)
 防具は既に外したが、まだ下布は残っている。しかも、腰当と同じようにきつく肌に密着させた状態で結い合わせているから、尻から吐き出した空気のぬくみがはっきりとラヴェッタにはわかった。それも、かすかな湿りを帯びている。
(は、はやく、帯を解かねば……)
 もう猶予はない。押し寄せてくる便意は凶暴さを隠さずに窄まりを責め続けており、耐久力がぎりぎりまですり減らされている括約筋と理性ではそれをもう抑えきれない。ラヴェッタに許された安息を得るための手段は、開放を求める彼らの要求を全て呑みこむことであった。
「くっ……」
 だが、物事には順序がある。開放を認めたとはいえ、今この状況でそれを許せば、ラヴェッタの下布と尻は溢れた汚物にまみれてしまい、後始末に困ることになる。
(ほ、ほどけてくれっ、は、はやくっ!)
 生理現象が限界を迎えている現状、ラヴェッタは完全に冷静さを失っていた。下布の結び目を解こうとする指使いが震えてしまい、思うように動いてくれないのだ。

 ギュッ……

「し、しまった!?」
 その指がこともあろうに解き方を誤った。解くことが不可能なぐらいに、結び目を固く締め上げしまったのだ。

 グリュルルルルルルルル!!

「ま、まだっ、で、出るなっ、出っ―――………!!」
 業を煮やした便意が一気にラヴェッタの肛門で最後の解放運動を起こす。括約筋も理性も、既に己の任務を遂行できないほど疲労しきっていたため、

 ブリブリブリッッ!! ブッ、ブバッ、ブバァァァ!!

「ああぁあぁぁっっっ!!」
 ナレノハテたちの要求に屈する形で、全てを開け放してしまった。もちろん、下布がラヴェッタの尻を覆ったままで…。

 ブブゥッ! ブバババッ!! ブリッ、ブバッ、ブボッ、ブボッッ!!!

「―――………」
 中腰になり、尻を突き出す格好をして下布の中で汚物を弾けさせる。薄く黄色の着色が施されているその下布の、窄まりに中る部分に茶色く丸い沁みが浮き上がったかと思えば、それは瞬く間に面積を広げ、そして、くぐもった音を響かせながら内側からムクムクと何かが膨張してきた。
(や、やって……しまった……)
 ラヴェッタは聡明だ。自分が“糞を洩らした”ということは、状況の中で既に理解できている。
(くっ……なんたる……こと……)
下布を無残に汚した汚物が肌にべっとりと張り付いている感触に震えながら、完全に草むらの中に尻の先を沈める。排泄するにおいて理想的な体勢になったことを喜ぶように、ラヴェッタの中で渦を巻いていた便意たちは一斉に全開状態になった窄まりをさらに抉じ開けるようにして、我先にと飛び出そうとした。
(………)
 だが、ここですぐに冷静さを取り戻すのがラヴェッタの凄みである。これ以上、下布の中で汚物を排泄するわけにはいかないので、彼女は汚れているのも気にすることもなく尻にあたっている布地を指でつかんで大きくずらすと、茶色く汚れた窄まりとその部分を空気中に晒し、
「む、うっ……」

 ブリブリブリッ! ビチッ、ビチッ、ビチャァァァ!!

「くっ、ふぅ、う、うぅっ……ん、んぅっ!!」

 ビチャッ、ビチャッ、ビチビチビビチャビチャビチャァァァァァ!!

「はぁ、く、うぅ、はぁ、はぁ……」
 野草に向かって突き出した尻の中央から、土砂崩れを起こしたような凄まじい汚泥を噴出させた。
「む、うぅ、く、う、うぅっ!」

 ブリュゥ! ビチャッ、ビチャッ、ビチ、ブチュ、ブリュ……

「く、う、うっ……」
 隠密行動を必要とされる部隊にある彼女は、いつも身にまとう鉄製の鎧ではなく、なめし革を表面に張り付けた木板を何十も重ねた防具、いわゆる“スケイルメイル”に身を包んでいる。見た目がまるで麟(スケイル)のようだから、そういう名前が付いているのだが、革と木で出来ているその鎧は鉄製のものに比べると非常に軽く、また音も響きにくいので、隠密行動には非常に適している。
「はぁ、はぁ、はぁ……あ、く、くっ!」

 ブリブリブリ!! ボトッ、ボトッ、ビチャッ、ボトッ……

 そのスケイルメイルの腰当の部分を取り外したものの、下布を完全に解くことができないまま、ラヴェッタは排泄に及んでしまった。確かに指で布地をずらすことで、下布の中で直接汚泥が弾けるということはなくなったが、明らかに固さを失っている排泄物は、盛り上がった窄まりから四方八方に散らばるように噴出してくるので、その近場にある指や布にも飛沫を浴びせている。
(………)
 その噴出がある程度の収まりを見せると、差込が滲む下腹をさすってみた。
(こんなときに……なんということ……)
実は、出陣する前にも強烈な便意を催してしまい、寝床に常備されている木桶を一杯にするほどの排泄をしていた。その時、ロカにもらった薬を飲んで、確かに腹の具合は沈静したのだが、まさかその効果がこうも簡単に切れてしまうとは思わなかった。
(やってしまったのは、やむをえない……)
 今はとにかく、現状をなんとかしなければならないだろう。
噴出した水溶性の高い排泄物によって下布を汚してしまったが、これを穿いたままで腰当を再び身につけるわけにもいかない。それに、まだ腹具合が心もとない。
ラヴェッタは腰に下げてある巾着の中から、一粒の丸薬を取り出し、それを口に含むと、奥歯で強くかみ締めた。水を持っていないから、薬を奥歯で唾液と共にすりつぶし一気に飲み込む。
「っ」
 あまりの苦さが口に広がり、ラヴェッタは顔をしかめた。しかし、時間が短かったとはいえその効果は良く知っている。

 ごくり……

 苦いものが喉下を通り過ぎ、胃袋に染み渡っていく。不思議なもので、じくじくと沁みるような痛みが薄れていくように思った。“薬を飲んだ”という意識も、鎮痛効果をもたらしたのであろう。
「……ラヴェッタ様」
 まるでそれを待っていたかのように、ラヴェッタの眼前にばさりと何かが落ちてきた。それは、干草の塊である。
「カ、カゲロウか……すまない……面倒をかける」
 汚いものを大量に吐き出した尻の周囲は、おそらく無残に汚れているだろう。それを拭うために用意された干草が、目の前に差し出されるようにして捧げられたのだ。
 ラヴェッタが排泄に及ぼうと部隊を離れたとき、カゲロウもすぐにその背中を追いかけてきた。彼は常に影のごとくラヴェッタに近侍しているから、当然の行動でもある。
「大丈夫でございますか?」
 そして、影であるが故に姿はラヴェッタにも見せていない。彼の声のみが、ラヴェッタには聞こえている。おそらくは、洩らす瞬間も彼に見られていたのであろうが、不思議と恥じらいは生まれてこなかった。それもまた、カゲロウの持つ“異能”のひとつなのだろう。
「う、うむ。腹は、もう治まったよ……だが……」
 そのカゲロウが用意してくれた干草を手に掴みながら、しかし、ラヴェッタは動きを止める。
「………」
 その理由は、カゲロウもよくわかっていた。“洩らした”ことにより、下布がひどい状態になっているからだ。なにしろ、音が響き、沁みが広がり、盛り上がってくる所までしっかりと見ていたのだから。そしてその後の、彼女の尻の下に広がる汚泥の沼が出来上がっていく一部始終も…。
 本当ならば、目を伏せるべき場面ではあった。しかし彼は、軍事行動中であるという点に順じた。たとえ一瞬でも目を離したことで、彼女の身に取り返しのつかない事態が起こったとしたら、それは大恩ある先の主人の遺訓に背くことになる。
「これは、脱ぎ捨てるよりほかにないな……」
 汚してしまった下布は、洗えばまだ使えるのだろうが、それにふさわしい水場もなければそんな余裕もない。ラヴェッタは懐剣を取り出すと、きつく締めてしまった結び目を切り落とし、それを足元に落とした。

 ベチャッ……

 と、音を残して下布は汚泥の沼地と一体化した。もともと汚れてしまっているものだから、ラヴェッタも呵責がない。
「カゲロウ、何か代わりになるものはないだろうか?」
 飛沫が散らばる窄まりの周辺を干草で綺麗にしながら、ラヴェッタは問う。姿は見えないが、カゲロウが間近に居ることはわかっていた。
「生憎と……申し訳ありません」
「いや、いい。……そのまま、腰当を付ければいいだけのことだ」
「………」
 鉄製のものとは違い、今回の作戦で彼女が身につけてきた防具は革で出来ている。下布というクッションがなくなることで、おそらくは相当な違和を感じるであろうが、鉄のような冷たさや固さに肌が負けて、その痛みに悩まされることはないだろう。
 そうと決めてしまえば、行動は早い。“糞を洩らした”という乙女にとっては凄まじい出来事もまるで意に介さないように、ラヴェッタは粗相の後始末を終えて身支度を整えると、経過に問題はあったものの、便意を解消したことで凛々しい足取りを取り戻し、汚泥の渦と糞にまみれた下布を残してその場を後にした。
「よう、軍師さん」
「ヴェスバル殿?」
 そんなラヴェッタを待っていたのは、風変わりな軍装をしていることでアネッサでも有名になっている、アレッサンドロの下にいるはずの傭兵・ヴェスバルであった。
「御隠居に言われてね。護衛をさせてもらっていたよ」
「そ、そうか……礼を言う」
 無防備になってしまう“用足し”において、護衛の存在は絶対である。例えラヴェッタが女性であったとしても、戦場にある以上、例外はない。
「剣豪と名高い貴君に、このようなことをさせて申し訳ない……」
「何をおっしゃる。これは大事なことですよ、軍師さん。史上の名将といわれた“ベルフェリウス”の悲惨な最期はご存知でしょう?」
「そ、そうだな」
 ベルフェリウスとは、先に諸国間で起こった大戦の中で、最も知勇に優れた名将と謳われていた、アンティリア王国の将軍である。彼の率いる部隊は無類の強さを誇っていたが、そのベルフェリウスが戦闘中に起こった急な腹痛に耐えかねて、単騎で用足しに及んでいた所、折悪しく敵部隊に遭遇してしまい、あえなく落命した話はあまりにも有名だ。ちなみに、無双の将軍を失ったアンティリア王国はその大戦で滅び、オルトリアードの版図に組み込まれている。
「ヴェスバル殿が護っていれば、その名将も命を落とさずにすんだろうにな」
「20年前の話です。俺は、物心もついてないですよ」
「例え話だよ」
 珍しくラヴェッタの口が軽くなっていた。腹の重みがなくなったこともあるだろうし、“洩らして”しまったことを気づかれないためでもあるだろう。もしくは、“洩らした”という一事で動揺した気持ちを、落ち着かせるためだったかもしれない。
 さて、ヴェスバルという男についてだが…。それを語るには、彼の軍装について触れたほうが早いだろう。
 彼が背に負い、愛用している長さと反りがある剣は、“刀”という東洋渡りの武器だ。黒塗りの鞘に収まっている刀身は、それを見た鍛冶師の誰もが恍惚とするほど繊細な煌きをもち、鞘から抜き放たれるだけで異様な緊張感を生み出す。ハイネリアはおろか、諸国でもこのような武器を使っている兵士はいない。
 そして彼は、身体全体を厚く覆う灰色のローブを身に纏っているが、その下には重々しい鎧を身につけてはいない。近隣では珍しい竹板を寄り合わせた、帷子のようなものを身につけており、一般の兵士に比べるとかなりの軽装である。
 だが、軽装であるが故に、ヴェスバルは戦場において疾風となる。背に負った刀を抜き、敵陣の真っ只中に踊り出ると、手にした槍で直線的に迫る敵に対して、彼の剣戟はまるで円を描くようにそれを切り払う。“まるで演舞のようだ”とは、彼の雇い主であるアレッサンドロの言葉だ。
(聞かれただろうか……)
 男子も顔負けの凛々しさを崩さないラヴェッタではあるが、やはり女性である。洩らしただけでは飽きたらず、その後も随分と派手な音を出して糞をひりだしてしまったから、彼の耳にもその汚らしい響きが届いている可能性もある。いや、おそらくは間違いなく届いているだろう。目の届く範囲に対象を捉えていずに、護衛などできるはずもないからだ。
「さ、戻りましょうか」
 しかし、ヴェスバルは何も詮索をせずに、涼しい顔をしていた。
干戈を交える戦場においては修羅のごとく相手を切り倒すヴェスバルではあるが、それから離れると気さくで陽気な男だ。刀一本で世を渡ってきたという“血生臭さ”は、彼の飄々とした風貌からは感じられない。
 傭兵ではあるが、アレッサンドロに賓客にも等しい待遇を彼は受けている。しかし、それを鼻にかけることもせず、好んで兵士たちと酒を酌み交わし、談笑している所をラヴェッタも良く見かけることがあった。
 異性にはほとんど関心を寄せないラヴェッタではあるが、ヴェスバルに対する好感はほかの者と同様だ。彼が、貴族たちが蔑む“傭兵”だということには、当然だが頓着してはいない。
 そんなヴェスバルに、自分の排泄の音を聞かれ続けたのだとしたら……。少しだけ、頬に熱いものを感じつつ、ラヴェッタはヴェスバルを従えながら隊に戻った。
「おお、済んだのか」
「え、ええ……すみません、老将軍」
「いやいや。さすがに、皆も緊張しておるようでな。ひっきりなしに木陰を行ったり来たりしとる」
「そう、ですか……」
 いくら勇士といえど、命のやり取りを目前に控えれば、身体は正直な反応を示すものだ。戦闘がはじまる前にかすかであろうと催したものは開放しておこうと、組になってそれぞれが木陰に行き、各々に生理現象を解消していた。
「もうすぐかのう」
「そうですね」
 出すものを出し、身軽になったラヴェッタはアレッサンドロの脇に腰を落ち着ける。ヴェスバルはそんな二人を護るように、傍に立っていた。
 カゲロウから報告のあった、オルトリアードの輜重隊が通るであろう峠道には既に到達している。後は、何も知らない輜重隊がやってきたという報告を待つだけなのだが、待ち伏せる側としては、その緊張はやはり大きなものだ。
老練なアレッサンドロも、それがかすかに顔に出ているのだから、戦場はやはり相当の重圧を兵士たちに与えるものだということが、ラヴェッタにはよくわかった。



「将軍! 輜重隊が見えました!」
「おう、きやがったか!」
 斥候がアザルの所へ駆け込んできたとき、既に彼の目にも輜重隊が運ぶ物資を載せた台車が起こす土煙が見えていた。
「軍師に報告だ!」
「御意!」
 足の速い部下に伝令を与えると、アザルは傍らに立てかけていた鉄製の棍棒を持ち上げる。頭の部分は球状になっており、さらに、刺が何本となく突き出ていた。膂力に優れたアザルにふさわしい武器である。
「おーおー、随分と慌てたように走ってやがるな」
 足元の峠道に入ってきた輜重隊は、かなりの速度で行軍している。それを率いる士官は馬上にあるが、それ以外の兵士はみな歩卒であり、しかも、山道にはいっているため台車の回転力が鈍っているのか、輜重の後ろに何人も張り付いてそれを必死に押し込んでいた。
「あいつらの尻が切れるまで、どれぐらいだ」
「およそ、千乗」
「こりゃまた大部隊だな。まさかハイネリアで、冬越えでもしようってのか。遠慮のねえやつらだぜ」
 そんなことはさせねえ、と投げつけるように言い放つとアザルは愛用の鉄坤を軽々と肩に担ぎ上げた。
先にも述べたが、彼の愛国心は相当に強い。猛る魂は、その全てがハイネリアを護るために注がれており、それ故にハイネリアを蹂躙しようとする敵と対峙するときは、さらに無類の強さを見せるのだ。大敗した緒戦では存分に発揮されなかったその武力は、マファナが総帥になることで大きな翼を得た。“鉄坤のアザル”という通り名が巡り始め、吟遊されるようになるほど、彼は勇名を挙げている。
「申し上げます!」
「おう!」
「輜重隊の“中軍”に、攻撃をしかけるようにとの仰せでございます!」
「真ん中をぼっきりやっちまおうってわけだな。よっしゃ!」
 千乗の台車があるというのなら、それを運ぶ兵士は少なくとも三倍の数字を有しているはずである。つまりは、三千の部隊とこれから百人で当たろうというのだから、それをまずは分断するというのは当たり前だが正しい戦い方であろう。
「将軍!」
 部隊の目になっている兵士が、アザルを呼んだ。それが合図である。
「よっしゃ、かかるぜ!!」

 オオォォォォォ!!

「シンバルを鳴らせ! あいつらの度肝を抜かすように、叩き鳴らせ!」
「御意!!」

 ジャアン、ジャアン、ジャアン!!

「攻撃開始だぜ!!」
 アザルが斜面を一気に駆け下りていった。それに続くように、勇敢な彼の部下たちがそれぞれの武器を抱えながらつき従っていく。ひとつの弾丸と化したその部隊は、重い台車に辟易しながら、疲れ切った表情を隠せないでいるオルトリアードの輜重隊には、非常に不気味なものに見えた。
「て、敵か!?」
「くらいやがれ!」

 ぶんっ―――

「!」
 アザルが乾坤一擲に放った鉄坤の一撃が、馬上で狼狽したように動きを止めていた士官の顔面に直撃した。顔がつぶれ、頭蓋骨が割られ、脳漿が惨いほどに散華する。
「た、隊長!?」
 その惨劇に、歩卒たちは一気に顔を凍りつかせた。
「敵をまとめさせるな!」
 アザルの鉄坤は、間を置く暇もなく二人目の士官を粉砕し、次の獲物を探すように振り回されている。瞬く間に将官を二人も失った兵卒たちは、手にしている槍を構えることも出来ず、次々とアザルが率いる精兵たちに討ち倒されていった。
「うろたえるな! 相手は寡兵だぞ!」
「次はお前だ!!」

 ぶんっ――――

「ぐおっ」
 あっという間に劣勢に陥った部隊を立て直そうとする、気骨のありそうな士官だったが、その“骨”をアザルの一撃によって砕かれて、落馬したまま動かなくなった。

 ワアァァァァ……

 壊乱状態になった中軍は、物資の乗せられた台車を省みることもなく前後に散ってゆく。山がちな地形なので足をもつれさせ、そのままどこかへ転げ落ちてしまう兵士も多かった。山岳に慣れているオルトリアードの軍隊では、考えられないほどの乱れ方だ。
「物資で道を塞ぎ、火をかけろ!」
 中軍の兵士をあらかた蹂躙してからアザルは、置き去りにされた台車でもともとが狭い峠道を封鎖し、さらに火をかけた。これで、後軍の輜重部隊はこの道を通れなくなり、物資の運搬は不可能になった。
「よしっ! 前軍を挟み撃ちにするぜ!」
 そうして、アレッサンドロとラヴェッタの部隊が仕掛けたであろう前軍を後方から撃滅するべく部隊をまとめ、またしても一個の弾丸と化したその兵勢をオルトリアードの輜重隊にぶつけ、これを散々に打ちのめしにかかったのである。



「アザル将軍が攻撃を仕掛けました!」
「よしっ、こちらも撃って出る! 合図を!」

 ジャアン、ジャアン、ジャアン!

 ラヴェッタの号令に従い、シンバルを手にしていた兵士たちが一斉にそれを叩き鳴らした。金属同士が打ち合う音というのは、高く遠くまで響く効果があるので、戦場においてシンバルは良く使われる。
「ヴェスバル殿は、軍師殿を護るのじゃ」
「ご隠居は?」
「わしを誰じゃと思っておる!」
 アレッサンドロは他の兵士よりも先んじて、丘を一気に駆け下り、輜重隊の真っ只中に切り込んでいった。とても六十を越える老齢とは思えない奮迅ぶりである。
「我こそは“薙槍”のアレッサンドロ! 薙ぎ払われたくないものは、道をあけい!」

 ブォンッ!

 と、アレッサンドロは彼の身長よりもわずかに背のある大槍を軽々と振り回して見せた。槍の先端部分には、研ぎ澄まされた刃がついており、刺すだけではなくその刃で敵を切り裂くこともできる。“戦槍(ハルバード)”と呼ばれる武器で、複合的な要素を持っているだけに扱いの難しい槍ではあるのだが、50年以上もそんな大槍と付き合ってきた彼はまるで刃先にまで神経が通っているように、練達にそれを振るうことが出来た。
「「「「ぎゃぁっ!」」」」
 その一振りで、斬撃を浴びた兵士たちが放射状に弾き飛ばされた。
(やれやれ、血が鎮まらない御仁ではあるよ)
 雇い主が若返って見えたヴェスバルは、思わず苦笑する。
「老将軍に続け!」

 オオォォォォ!

 “薙槍”の異名どおり、振り回す大槍で陣列を乱した敵方の部隊に、ラヴェッタは味方を鼓舞するように腰の小剣を抜き放ち、駆け出した。平坦な地での戦闘では主に槍を使う彼女だが、入り組んだ足場ではむしろ小剣の方が扱いやすい。
(!)
 吼えるような声をあげ、数倍の敵に向かっていく兵士たち。その先頭にたつラヴェッタの雄姿を追いかけて、“疾風”と仲間内で呼ばれるようになっているヴェスバルは、まさに風のように一気に駆け出した。
「ハァッ!」
 背中の剣を抜き、それを一閃する。瞬間、ラヴェッタたちを狙って放たれていた無数の矢が割り裂かれ、勢いをなくして落下した。
「弓兵がいる!」
「やつらは、まかせろ!」
 がっ、と固いブーツの底を響かせてヴェスバルが翔ける。物資を乗せた台車の影に隠れながら弓銃を構えていた部隊の中に一気に切り込んで、無尽に操った刀でその全てを切り伏せた。
(見事な…)
 初めて目の当たりにしたその剣技。なるほど、“演舞”のようである。
「輜重隊といってもこいつらは前軍だ! 油断はするな!」
 ヴェスバルの喝が飛んだ。思ったより兵の鋭気があることを、伝えたかったのである。
 普通、部隊を編成する場合、敵の先鋒にあたる“前軍”と、将官たちが戦況を見つめる“中軍”と、後方にあり不測の事態に備える“後軍”の三種をまずは整える。もちろん、敵と切り結ぶ可能性が最も高い前軍は、それだけに強力な兵士たちを揃える必要があるから、輜重隊の中でも武に優れたものが配置されていることは間違いないだろう。

 キィンッ!

「くっ」
 ラヴェッタに剣戟を浴びせてきた兵士の一撃は、確かになかなか鋭いものがあった。小剣でそれを受け止めたラヴェッタは、女性の中では稀有なほどの腕力を持つが、それでも潜在的な力強さは成年男子には敵わない。
「ぐおっ……」
 あまり得手としない力比べに入りかけていたが、その兵士が不意に身体をのけぞらせ、崩れるように地面に倒れた。見れば、その首には小刀が突き立っている。
(カゲロウか)
 戦場の中にあっても彼は常に影となり、ラヴェッタを護っていた。
「オオオォォ!」
「!」

 スバッ!

「……っ」
 大斧を高々と振り回し迫ってきた敵兵。だが、威力があるとはいえ大ぶりなその一撃を小さな身のこなしだけで避けると、隙の出来た敵の頸部をラヴェッタは小剣の刃で切り裂いた。力は男に劣っても、俊敏さと剣技にかけて彼女は誰にも負けないほどの実力を持っている。
「やるねえ、軍師さん!」
 弓兵の部隊を薙ぎ払ってからは、アレッサンドロの言葉に従うようにラヴェッタの脇を離れず刀を振り続けているヴェスバルだが、その必要もないほどのラヴェッタの技量に舌を巻いた。この奇襲隊を自ら率いてきた彼女は、なるほど知略だけの人ではない。
「敵は小勢だ! 体勢を立て直して、一斉にかからんか!」
 馬上にあるのは隊長クラスの士官であろう。アレッサンドロの“薙槍”によって乱れてしまった部隊の収拾に奔走しているが、確かに彼のいうとおり、部隊を落ち着かせ数を恃んで撃滅にかかれば、あっという間に奇襲隊は壊滅していてもおかしくない。事実、ようやくにして落ち着きを取り戻してきた兵勢が相手の攻撃にさがる足を留め、押し返し始めるようにもなってきた。
 そのときであった。
「た、隊長!」
「なにごとだ!」
「ちゅ、中軍がこちらに逃走してきます!」
「ハァ!?」
 前軍に向かって、中軍がやってくるということを“逃走”というのはおかしいことだ。“何を混乱しているか”と、一喝しようとした彼の目に、その“逃走”してくる自軍の兵士たちの、哀れなほどに足並を乱した様子が入ってきた。
「挟撃したのか!」
 小勢と小勢で、前軍と中軍を挟み込み袋詰にしてしまう。この狭隘な戦地でなければ、とてもではないが出来ない芸当だ。そして、地勢にも熟知していなければ―――。
(敵地での戦いは、これだから!)
 その隊長は舌を噛む。前軍と中軍だけの部隊でも二千を越えているはずの兵勢は、挟み撃ちにされたことに混乱を極め、明らかにわずかだけな兵力である奇襲隊の実態を掴むことも出来ずに、右往左往して散り散りになっていた。
「ちっ、これでは馬は邪魔だ!」
 兵士たちの流れが馬の脚を封じている。これだけ乱れた戦場において足をとめることは、死を意味することであり、気骨のあるその隊長はすぐに馬から降りて、兵に囲まれない場所を選びながら形勢を立て直そうとした。
「後軍はどうした!」
「道を塞がれたようであります!」
「チィッ!」
 挟まれた状態で、戦いを続けなくてはならないらしい。前後に敵を迎えた状態で戦うことほど、難しいことはない。
(そもそも、敵地に入るまで本陣の援軍が見えないというのはどういうことだっ!)
 確かに大勢が通れない峠道を選んだが、それにしても輜重隊を迎えるための一軍を出してきてもいいはずだ。もっとも、それがないのはハイネリアの陽動隊と一戦を交えているからであり、まさか数で大きく劣るハイネリア軍が、奇襲隊を組織して輜重隊を襲撃するとは露ほども考えていなかったのだろう。大軍ゆえの、思考の荒さが出てしまっている。
「ええい! 退却だ!」
 事態は悪化の一途だ。これを静めるには、敵の居ない場所にいくしかない。
「ど、何処へ逃げるというんですか!?」
 狭隘な地形で挟み撃ちになっているのだから、まるで悲鳴のような声をあげた兵士の批難も無理からぬ所であろう。
「何処でもいい! 敵の一角を崩して、本陣へかけこめ!」
「物資は、どうするんですか!?」
「捨て置け! 今は己の命を考えろ!」
 もはや部隊としての体裁を、この輜重隊は有していなかった。
(乱れたな……よし)
 それは、ラヴェッタの思う通りであった。
 輜重隊は武力が弱いとはいえ、数は多い。だから、まずはその分断を考えた。百名の奇襲隊といっても、やはりラヴェッタはこれを“前軍”と“後軍”の二つに分けた。前軍はアザルに指揮をとらせ、後軍は自分とアレッサンドロが率いることにしたのだ。敵の前軍に対して、こちらも前軍を当てるというのは戦場における常識である。強い敵なのだから、強い力をぶつけなければならないということは、赤子でもわかる論理だ。
 だが、ラヴェッタはその常識を捨てて事にかかった。猛将であるアザルの率いる前軍を、敵の中軍にあたる部隊にあたらせたのである。もちろん、武力の差は歴然としているから、敵の中軍はあっという間に打ち砕かれて、退路を失っていたから前軍を目指して“逃走”してきた。
 ラヴェッタとアレッサンドロが率いている“後軍”も、決して弱い部隊ではない。しかし、数が少ない。それで相手の前軍に当たろうというのだから正面での戦いはいつしかこちらが押されるようになることは、予測していた。
 だから、アザルの部隊が敵の中軍を壊滅させ、これを追いかける形で前軍の後方を襲撃するという作戦をとったのだ。アザルがどれだけ俊敏に中軍を撃滅させるかが鍵となっていた作戦だが、彼は見事なまでにそれをやってのけてくれた。また、捨て置かれた台車が敵の後軍を遮る壁になることも、計算の中に入っていた。
挟撃ほど、敵の鋭意を萎えさせるものはない。体勢を整えかけた前軍は挟撃を受けることによって再び壊乱し、ついに部隊としての体裁を失った。あとは、各個にこれを撃滅していけばよいのである。
(よし、いける―――)
 見事なまでに作戦があたった。勝利を確信し始めたラヴェッタに想像もつかない異変が襲い掛かったのは、その瞬間であった。

 ギュルルルルルッ!!

「うっ!?」
 足並を乱して、混乱した精神状態のまま剣を突き出してくる兵士を迎え撃とうと、剣を構えて一歩を踏み出したときに、下腹が強烈なうねりを発したのである。
「はっ!」

 キィン!

 絞り上げ、捻られるような苦痛に気を取られていたラヴェッタだが、迫ってきた剣戟にすぐに気がついて剣把でそれを受け止める。

 ギュルッ、グルッ、グルルルルルルル!!

「う、あ、ああぁ―――………!」
 受け止めた剣に力を込めた瞬間、下腹も本格的な鳴動を開始していた。
(な、なぜこんなときにっ!)
 場合が悪すぎる。戦闘の真っ最中に催した強烈な“便意”を、ラヴェッタは本気で呪った。
「!」
 狂ったように剣戟を繰り返す兵士。

 ギュルッ、ギュルッ、ゴロッ、ゴロロ……

(く、う……あ、う、うぁ……)
 死地を逃れようとするその必死な攻撃を、ラヴェッタは崩れ落ちそうな腹具合を抱えつつ受け止めているのだ。普段の彼女ならば、“必死さ”はあるものの明らかに弱々しい兵士の太刀筋を簡単に見切って、切り伏せていただろうが、今はとてつもない内憂を抱えてしまっている。
(出る……くっ……出てしまう……)
 それは容赦もなく窄まりの内側に押し寄せて、宿主の状況を省みることもせずに開放を訴えかけてきた。
(カ、カゲロウは、カゲロウはどうしたのだ!?)
 ラヴェッタの危機を幾度も救ってきた密偵は今、別の方角から彼女を狙ってきた複数の兵士たちと切り結んでいる。さすがに相手が多勢であるから、全ての目配りがラヴェッタに行き届くというわけにはいかなかった。
(ヴ、ヴェスバル殿は……?)
 もはや猶予もなく駆け下るものを直腸で感じるラヴェッタ。護衛として身近にいてくれた剣士に求めた救いだが、やはり彼もまた兵士たちを複数相手にしていたためそれは届きそうになかった。
(くっ……)

 グウゥゥゥ……

(は、腹が……もう……)
 剣把で押し合うということは、力の全てを互いにぶつけあうということだ。当然、便意が溢れそうになっている窄まりにその一部を廻すことなどしようものなら、相手の剣戟を身に浴びて、命を落としてしまうことになる。

 グヌヌヌヌ……

(だ、だめ………で、出る……も、洩れてしまう……)
 従って、抵抗力のほとんどを失っている窄まりは、込み上げてくる便意を遮る能力は何ひとつとして有してはいなかった。

 ブリィッ、ビチビチビチィッ!

「あっ、ああっ、ああぁぁぁぁ!!!」
 最初の脱糞で汚した下布は既にラヴェッタの股から脱ぎ捨てられている。

 ビチビチ、ブブ、ブブッ、ブボッ、ボボッ……

そのため、革の腰当を直接身につけている状態になっているのだが、ラヴェッタの尻から響いた爆裂音はすぐにくぐもったものに変わった。ほとんど肌に密着しているといってもよく、また革がその水分を吸い込むはずもなく、中で溢れた内容物はすぐに尻の脇からはみ出して、どろりと腿を伝っていった。
「こいつ、糞を垂れやがった!」
 もちろん、その様子は、最も間近い所に居る敵兵にも見られている。命の押し合いをしている中で、脱糞したことにより相手には大きな隙が出来たことも見逃しはしなかった。

 ガキン!

「あ、あ……」
 急激な便意の襲来に、それに抗うことも出来ず脱糞してしまったラヴェッタは、当然だが意識を乱したままである。その乱れを突くように振られた敵の一撃が、彼女の手から小剣を弾き飛ばした。
「死ねっ、糞ッ垂れ!」
(やられる――)
 剣先が、やけに緩やかに喉元に迫っているように見えた。それが、喉笛を突き貫く光景を、ラヴェッタの意識は先送りで彼女の脳裏に見せていた。
「ぎゃあっ!」
 しかし、それはあくまで幻想に終わった。
「無事か、軍師さん!」
ヴェスバルが間に入るようにして割り込み、目にもとまらぬ瞬剣を見舞って腕ごと切り落としたのだ。鮮血を噴き出しながらその兵士は苦しみ悶え、それを見かねたヴェスバルは首の急所を刀で突いて、楽にしてやった。
「ヴェスバル……」
 己の死を間近に見たラヴェッタは、さすがに全身の力が萎えて、その場に尻餅をついてしまった。当然、排泄物で満ち溢れた臀部を地面に押し付けたのだから、その圧迫で汚物が潰されて、言いようのない不快感がラヴェッタの身体を震わせた。

 グルルルル……

「あっ……」
 さらに追い討ちをかける、下腹の鳴動。
「ま、またっ……あ、あ、あっ……」

 ブブブッ、ブビッ、ブビッ、ブボボボッ!!

「―――………」
ラヴェッタの身体はは既に自制を失っており、駆け下ってきた便意をそのまま尻から吐き出して、洩らした糞の量をさらに増やしてしまった。
「軍師さん?」
 明らかに異常な様子のラヴェッタ。腰が抜けたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「如何したのです?」
と、聞くより早く、その無残な状態に気がついた。尻餅をついている彼女の尻の下に、なにか得体の知れないドロドロした物体が溢れていたからだ。
(も、洩らしたのか?)
 戦場で兵士が脱糞するというのは、珍しい話ではない。だが、相手は自軍の要というべき軍師の立場にある、それも麗女だ。鎧に身を包み、剣を振るうその姿は男も顔負けの凛々しさを見せているが、女性としての麗しさは何ひとつ失われていない。
「………」
 そんな彼女が、まるで童女のように糞を洩らし、尻餅をついたまま呆然としている。
(腹の具合が、よくなかったのだろうな……あの時も、ひどい音だったから……)
戦いを始める前、アレッサンドロに“軍師殿が用足しにゆかれたので、それを護っていただけまいか?”と頼まれ、排泄に及んでいるであろう彼女の背中を、遠巻きに見守っていた。そのとき、空気を汚らしく震わせて水溶性の高いものを叩きつけている音は、しっかりと彼の耳に届いていたのだ。
「剣士殿!」
 戦場で立ち止まることほど、危険な行為はない。いつのまにか槍を構えた兵士が、自分を突き殺さんとして迫っていることに、誰かに呼ばれることで気づいた。
「!」
 我に帰るや、ヴェスバルは刀を一閃する。その煌きが襲ってきた兵士の身体をすり抜けたとき、鮮血が空中に飛び散って、体を切り裂かれた男はすぐに絶命した。
「す、すまない。助かった」
「礼には及びませぬ」
 ヴェスバルを救ったのは、カゲロウである。ようやく敵兵を払い、主君の下へ戻ってきたのだ。ちなみに、カゲロウは歩卒の格好をしているから、ヴェスバルの目には彼が“味方の兵士のひとり”としてのみ映っている。
「手を貸してくれるか?」
「わかっております」
 相変わらず呆然としたままのラヴェッタを二人で脇から支えるように抱えると、槍と槍がぶつかりあっている音が響く戦場から少し離れた位置に下がっていった。
「………」
 二人の男に抱えられているラヴェッタは、自分が抱えてしまった現実を把握しきれていない。ただ、尻にある不快な存在感と、下腹に残っている苦しみに呆然とするだけであった。

 ブチュッ、ブチュ、ブブッ、ブッ……

(とまら、ない……)
 苦しみが駆け下り、感じた便意をそのまま垂れ流すラヴェッタ。腰当の尻の部分からさらにはみでた汚物は踝の所まで垂れ落ちて、足元にも点々と名残を置き去りにしていった。
「とにかく、敵の居ない場所に……」
 脱糞の後始末は、相当に時間と神経を使うはずだ。くわえて、完全な無防備状態にもなってしまう。乱戦となっている今、そういう場所がどうにも思い浮かばないヴェスバルは、ラヴェッタの身体を支えながら必死になって足を動かしていた。
「……あっ」
 しばらく経って、ようやくラヴェッタは現実を見る余裕を持ち直した。洩らすだけ洩らし、下腹の苦しみが治まったというのも、それを援けている。
「ヴェスバル殿……」
 そして、脱糞で汚れてしまった自分を護るためにこの剣士ともう一人の兵士(カゲロウ)が必死になっている様子も、彼女にはようやく認識の中に入れることが出来た。
「軍師さん、すぐに休ませられそうな場所を見つけてやるから」
「いや……その必要は、ない」
「軍師さん?」
 ヴェスバルはハイネリアでも五指に入る武力を持っている。その力を、自分の都合に付き合わせ、部隊の戦力から外しているような状態は極めてまずい。
「すっかり、出てしまったからな。もう、腹は治まった。それよりも今は、戦の方が重要だ」
「な、なにいってる? そんな格好のままで戦いを続けるおつもりか?」
「問題はない」
「も、問題って……そんなに、尻がベトベトじゃあ……」
 洩らした糞の名残が散らばる彼女の尻の部分と両脚の裏側は凄まじい状態になっている。おそらくそれを目の当たりにした誰もが、“脱糞している”とわかるだろう。
「怪我をしたわけではない。こんなものにいつまでも気を取られていては、完全な勝機を逃してしまうぞ」
 それは自分に対する一喝でもあった。たとえ一瞬とはいえ、糞を洩らしたことに意識の全てを奪われて、戦場にあることを忘れた自分を戒めたのだ。
「ありがとう。きみも、戦場に戻ってくれ」
「御意」
 歩卒の格好をしていたため、自分の脇を護ってくれていた兵士をついにカゲロウとは気づかなかった。
「あの将を討ち取れば、戦いはとりあえず終わるはずだ」
 明らかな劣勢に陥りながら、それでも“負けじ”と声を嗄らして槍を振るい、味方を鼓舞している敵兵がいる。おそらくは、輜重隊でもかなりの責任を負っている将官なのだろう。彼の放つ気合に引きずられるようにして、勝敗の大勢が決した戦いは続いている。
「よし……すぐに終わらせてやるよ!」
 ヴェスバルはラヴェッタの脇を離れると、背に収めていた刀を抜き放って、疾風を巻き起こした。
(早く、楽にさせてやりたい)
 おそらく、洩らしたことで感じる不快感は相当のものであろう。それに、その状態のまま戦が長引けば、興奮状態にある味方の兵士たちのほとんどが“軍師の脱糞姿”に気づくに違いない。いくら、戦場での粗相は指摘しない不文律があろうと、それに対して注がれる奇異の眼差しは避けられないはずだ。
 ヴェスバルの目に、侠気の輝きが宿った。
「おらあぁぁぁ!」

 シュッ!

 一閃である。それで、決した。疾風がその敵兵の傍を通り抜けた後、湯水のように鮮血を飛ばしながら、ゆっくりと倒れていった敵兵の胴体が残るだけだった。首は既に、あらぬ方向へと斬り飛ばされている。
「そ、総隊長!」
「うわあああぁあぁ!」
「こ、降伏します! 命だけは、たすけて!」
 これで完全に敵兵は崩れ落ちた。我先にと降伏・逃亡をはじめ、足を滑らせて崖の下に転げ落ちていくものも多かった。数千の輜重隊が、たった百名の奇襲部隊によってあっという間に壊滅させられたのである。
「降伏した兵士は、両腕を縛ってから解き放て! 背に負える分の物資だけ持ち運び、後は燃やし尽くすのだ!」
 戦闘の終わりを確認したラヴェッタは、すぐに指示を出す。中軍を壊滅させたアザルの部隊も合流しており、百人の兵士はあらかじめ用意しておいた背負いの袋に物資のいくばくかを次々と詰め込み始めた。
(お、おい……見たか? 軍師様の、その、尻のところ……)
(あ、ああ……あれは泥の汚れじゃないぞ……た、多分……)
「おい貴様ら! 死にたくなければさっさと手を動かせ!」
「「あ、は、はい! 申し訳ありません、アザル将軍!」」
「………」
 指示を出しているラヴェッタは、百名の兵士の間を行ったり来たりしている。当然、尻の状態は洩らしたときのままだ。
(自分のことより、任務のことを最優先にするとは……さすがだぜ)
 言うなれば、脱糞した姿を晒し続けているのである。しかし、そういうことを微塵も感じさせないで指揮官としての行動を続ける彼女の姿に、とてつもない凄みを感じるアザルであった。
「軍師さん……」
「………」
 ヴェスバルも、アレッサンドロも、そういう状態のままで指揮を執り続けているラヴェッタに驚かされている。
(あんた、女なんだぜ。それが、洩らしたままの格好をみんなに見られて、何ともないって言うのか……)
 いや、とヴェスバルは自分で自分の問いと答えに首を振った。
(今、何を最も優先にしなきゃいかんか、それだけを考えているんだ……)
 物資の確保と退却に、全ての意識を注いでいるのだ。オルトリアードの前線から援軍がやってくるよりも早く、それらの全てを終わらせなければならないと。
(ラヴェッタ様……)
 尻の部分を汚しきったまま、それでも凛々しさを失わないラヴェッタ。カゲロウはそんな主君の後ろ姿に、汚物にまみれているとは思えないほど神々しいものを感じていた。



 奇襲は大成功であった。百人の部隊は誰一人として戦死者を出さず、それぞれが背に戦利品を背負って、砦に帰還してきた。
 既に、陽動作戦にあたっていた部隊も戻っている。アネッサは二つの勝利に湧きあがり、これまでにないほどの士気の高まりを見せていた。
「軍師殿、後は我らにまかせればよい」
「老将軍……お願いします」
 結局、ラヴェッタは砦に戻るまで尻を汚したままであった。オルトリアードの追撃を振り切るために、休みを入れないでここまで来たのだ。そんな余裕はなかったし、彼女自身もそれのためだけに時間を取ることは考えもしなかった。
「………」
 ラヴェッタは兵舎の脇に構えられている厠には向かわずに、屯田の用水路に流れ込む川の支流へ足を運んだ。膝の下まであるその支流に入ると、腰のベルトを緩めて腰当をゆっくりと取り外した。

 ベチョ……トプン、トプッ、トプッ……

 押し付けられたまま時間を置かれていた排泄物は、排出された分が寄り集まり、圧迫を受けることで大きな塊になっていた。それが、尻の溝を埋めるように張り付いていたのだが、重しを失うことで尻から剥がれ落ちて、支流の中に落ちて霧散していった。
「………」
 腰当の裏側は、ぶちまけられた糞にまみれ、ひどいことになっている。少し見ただけでラヴェッタはすぐに目をそらし、それを水の中に沈めて漱いだ。へばりついていた糞が水によって溶かされて、靄のように水の中で散り散りになるが、その支流は洗濯場として使用されているから、そういう汚物が混じっても問題は起こらない。
「ラヴェッタ様」
「カゲロウ」
「着替えをお持ちしました」
「……そこに、置いてくれるか?」
「はい」
 カゲロウは既に歩卒の姿から、彼にとっての正装である黒い装束に身を包んでいる。そして、両手に捧げ持っていた衣類一式を丁寧に傍に置くと、後始末の邪魔をしないようにその場から風のごとく消え去った。
「はは、ひどいなこれは……」
 次いで、無残なほどに汚れが散っている尻と太腿の裏を水に浸し、手で擦って汚物をそそぎ落とす。腰当を水中で洗っていたときよりも大きな靄が発生し、凄まじい汚れ具合であったことをラヴェッタは確認することが出来た。
(ふふふっ……みな、さぞや驚いたであろうな……粗相をしたまま、指揮を執っていたのだから……)
 その呟きには、自嘲的なものが含まれている。あの時は特に感じなかった恥じらいが、今になって湧き上がってきた。
(二度も、洩らして……)
 最初は下布を取りきる事が出来ないままその中に排泄し、二度目は敵と干戈を交えている最中に腰当を身につけたまま脱糞した。当然だが、そういう経験はこれまでにはない。戦場で便意を催して、護衛をつけながら排泄したことはあるが、洩らしてしまうことは一度もなかった。
「くっ……うっ……」
 情けなさに、瞼の奥が滲んだ。抑えていたものが溢れるように、彼女は忍ぶような嗚咽を溢し始めていた。
(………)
 その嗚咽を影で聞いている者がいた。ヴェスバルである。もちろん、後始末をしている一部始終を見るわけにはいかないので、洗濯物を干すために設けられている柱に背をもたれさせながら、彼はそこにいた。
(………)
ちなみに、カゲロウも近くにいて、そして、その視線はヴェスバルに向かっている。もしも、この傭兵がラヴェッタの裸体を覗く行為に走れば、容赦なく手にした小刀で首を掻き切るつもりでいた。
(思い違いか……なるほど、皆が言うように仁のある男ではある)
しかし、そんな様子を一向にみせないので、自分と同じように純粋に彼女を心配しているのだと悟り、カゲロウは小刀を収めた。
「うっ、ううっ……くっ、うくっ……ううぅぅっ」
 そんな二人がいるとは気づく様子もなく、一度、惨めな気持ちに支配されてしまったラヴェッタの嗚咽は止まる様子を見せなかった。汚れを全て洗い落とし、カゲロウが用意した衣服を身に着けてからも、しばらく彼女はその場に蹲って動こうとはしなかった。
(無理をしていたんだな、やっぱり……)
 しかしヴェスバルは、彼女にかけるべき慰めの言葉を持ち得なかった。おそらく、それは、彼女も望んでいないに違いない。そうでなければこのように、人目を忍ぶようにして涙を流したりはしないだろう。
「グスッ……んっ……い、いかんな……そろそろ、総帥に報告にいかねば……」
 ひとしきり嗚咽を溢してから、ようやくラヴェッタは腰をあげる。
「………」
「………」
官舎の方へと歩みだしたその後ろ姿を、相通ずる思いを抱きながらヴェスバルとカゲロウはいつまでも見守っていた。



 ラヴェッタはその後も腹痛と下痢に苦しんだ。
やはりひどい下痢を起こしたために臥せっていたマファナの枕頭で、戦いの報告を済ませると、しばらくは彼女の看病をするつもりでその場に留まっていたのだが、最中に強烈な便意を催してしまい、慌てたようにその場を辞して、一目散に厠を目指した。
 しかし、外に出るやそれは一気に限界を迎え、歩くことさえ出来なくなってその場に蹲ってしまった。洩らすしかない状況であったのだが、マファナの厠番をしていたミレが、そのテントをラヴェッタに使わせるという機転を利かせてくれたので、一日で三度目になってしまう脱糞だけは免れることができた。“マファナ様も、きっと同じ事をするわ”とは、ミレの言葉である。
 普段の彼女であれば、“マファナ様の場所をお借りすることなど……”といって、おそらくはミレの申し出を断ったであろう。だが、崩れ落ちそうになる腹具合と、戦場で二度も洩らしてしまった屈辱の記憶が、そういう遠慮を全て放り出させていた。
 テントの中に入り、木桶を跨いで晒した尻を沈めた瞬間、凄まじい音を立てて土砂のような糞が底に叩きつけられた。あまりの音の激しさに、外にいたミレが思わず耳を塞いでしまったほど、衝撃的な排泄であった。
 その後も、何度となく噴出音が響き続け、ラヴェッタの排泄は収まる様子を一向に見せない。
『ラヴェッタが、ひどいことになってるの!』
折よく、ロカがマファナの様子を見にやってきたので、ミレがその異常を伝えた。
『あの薬が、きみの身体に合わなくなったのかもしれないな』
 即効性はあるが人によっては激しい副作用が襲う“例の薬”以外に、ラヴェッタの変調の原因は考えられない。なぜなら、かつてミレが苦しんだ症状と全く同じものであったからだ。
『同じ過ちを犯すとは……』
 そんな悔いに唇をかみながら、ロカはすぐにその配合の利率を変えた緩やかな薬を調合し、ラヴェッタに飲ませた。この薬が効いたのか、ようやくラヴェッタの腹痛と下痢は治まりを見せ、回復の様子を見せはじめた。
「オルトリアードが、撤退しました」
 度重なる下痢ですっかり体力を奪われ、夜が明けても身を横にしていたラヴェッタだったが、カゲロウからその報告を受けるや、その不調を忘れたように一気に夜具を払っていた。
「輜重隊が壊滅し、あてにしていた物資が届かなくなったことが影響したようです」
「やはり、敵地で越年できるほどの力は残っていなかったのだな」
 とりあえず、オルトリアードの侵攻をこれで防ぎきったことになる。緒戦の大敗によって亡国の危機に陥ったハイネリアだが、なんとか踏みとどまることが出来た。
「とりあえず、ひと時の安寧を得られたな。この好機を、生かさなければならない」
「やはり、まだオルトリアードは来ますか?」
「来るさ。山道の雪が解ければ、必ずな……」
 下痢の苦しみによって色を失っていた彼女の顔に、生気が蘇ってきた。
「次はやつらも、油断はすまい。……外交が、これから重要になってくる」
 ハイネリア単独だけでは、オルトリアードに勝てる可能性は限りなく低い。やはり、他国との外交によって、オルトリアードの侵攻が道義に反するものだという世論を手にいれ、それによってフラネリアか他の国を動かす必要が生じてくる。
「その前に……マファナ様には、休養が必要だ」
「ラヴェッタ様も、です」
「………」
 おそらく二人が起こした体調不良は、疲労が重なったものであろう。ラヴェッタは薬の副作用という副次的な要因があったが、もともと強靭ではないマファナの消化器官は、彼女が知らず抱えてきたストレスによって、明らかに限界を迎えている。それを伝えるためのシグナルが、このところ続いた下痢症だったのだろう。
オルトリアードが撤退した今、アネッサには必要程度の軍隊を残しておけば問題はない。それ故に、長期の保養期間をマファナに取らせることが出来る。
(だが、ライヒッツに戻っても、マファナ様の心は、安らぎはしないだろう)
 マファナは公族であるから、故郷はライヒッツの宮殿ということになるのであろうが、あの場所に親しみを見せていない彼女にとっては、公都への帰還と滞在はむしろストレスを抱えるだけになる。
(そうだ。オスカー殿の故郷には、体を芯から温めてくれる非常に良い温泉があると聞いたことがある)
 それならばむしろ、確実にマファナの体と心を癒す場所に連れて行ったほうが、効果的だ。彼女はとても入浴を好むから、温泉という場所はこれ以上ない保養地にもなるだろう。
(オスカー殿も、随分と休暇を取っていない。確か、妹がおられるといっていたな。きっと、帰りを待ちわびているはずだ)
 ラヴェッタの思考は次々と廻った。
 オスカーは若さを恃むように、休暇を取ろうともしないでアネッサに駐屯し続けている。それは悪いことだとは言わないが、何処かで張り詰めたものを解きほぐす機会を設けなければ、いつか弊害が出るのも確かだ。
(マファナ様の護衛ということにすれば、彼も従うだろう。それに、歳も同じ程だから、マファナ様も道中は気兼ねをせずに済む)
 いよいよ以って、自分の考えが確かな彩りを持ち始めたラヴェッタであった。

『うむ、それは良い考えだ』
まずはハインにそれを図ってみたのだが、ことのほか色の良い返事を聞くことが出来たので、改めてこの件を軍議の中に出した。
「オルトリアード軍が撤退をしたとはいえ、そのようなこと……」
 始めは難色を示したマファナではあったが、幕僚たちの説得を受ける形で最後はそれを認めた。もちろん、マファナが認めた時点でオスカーもその提言に従う意を示した。休暇を与えることに説得が必要になるというのおかしな話だが、それだけ生真面目な二人だということだ。
「軍師殿も、彼の地にてゆっくりとされるがよかろう」
「わ、私もですか?」
「そうだぜ、軍師さん。あんたにも休養が必要だ。砦は俺たちに任せてくれよ」
 アレッサンドロとアザルの思いがけない提案であった。ハインは何も言わなかったが、二人の考えを支持するように深い頷きを見せ、
「決まりですな」
 と、ラヴェッタに反論を許さないために話を締めくくった。
「………」
 事ここに至れば、ラヴェッタももう何も言えない。この時点で、マファナ、ラヴェッタ、オスカーの休暇が決まったことになった。
「みなさん、ありがとう。オスカー、よろしく案内してくださいね」
「は、はいっ! 命に代えても!」
「おい、オスカー。お前、戦いにでも行くつもりかよ」
「ほっほっほっほ。そんなに肩に力が入っておるようでは、休養などできんぞオスカー」
「はっははははは、確かにそうだな!」
 あのハインが、隠すこともなく笑声を挙げている。これほどに和やかな軍議というのは、ラヴェッタにとっても初めてであった。
(ふふ……これも、よいものだ)
久しくそんな空気を忘れていたラヴェッタは、取り戻したように穏やかな微笑をその顔に浮かべて、心のゆとりを思い出していた



 ―続―


 解 説

 みなさま、こんばんは。まきわり、でございます。『ハイネリア戦記』の第2章は副題の通り、ラヴェッタが主役の物語でございました。
今回のテーマは、“クールビューティーのOMO”と自分で銘打っていたのですが、なかなか苦労しました。苦しみの言葉をたっぷりと口にさせてしまうと“クール”にはなりませんし、かといっていつまでも冷静なままだと“苦しんだ末にあえなく……”という、OMOの魅力が半減してしまいます。羞恥・恥辱・苦痛……そして、安らぎ。それら全てが折り重なってこそ“OMO”だと考えていますので、今回は難しかったです。
ミラの“別の粗相”は完全に構想外でしたが(実は僕自身、あまり“これ”に対する耐性がありません)、流れるままに書いてしまいました。
 本当はもう少し、砦に帰ってからもラヴェッタには別のシチュエーションで苦しんでもらいたかったのですが、そこに至るまでにかなりの容量とエネルギーを使ってしまったので、そのあたりの描写がダイジェストになったのはいささか心残りです。今後の反省材料ということにします。
と、いうわけで第2章でございました。お読みいただき、ありがとうございます。
第3章は、名前も出ていないのにメルティさんや他の読者さまから登場の希望が続出していた、オスカーの妹が出てくる予定です。

 それでは、第3章でお逢いしましょう。
 まきわり、でございました。


メルティより

 前回に続いていただきましたハイネリア戦記2話。間隔10日で、純テキスト量80kBはつぼみシリーズ平均の2倍ですから、そのスピードがどれほど早いことか。爪の垢を煎じて飲ませていただかなければ。
 さて、今回はクールな女性・ラヴェッタのおもらしとのことですが、今回は2つのシーンがあまりにも衝撃的でした。一つは「切り結んでいる最中の便意」で、絶望感を出すには最高の演出なんですが、どうその場を切り抜けるか考えるのが難しく、なかなか実際に書くのは難しい場面です。これをこの話では、存在感すら漂わせぬカゲロウと疾風の剣士ヴェスバルの護衛によって乗り切っています。そしてこの二人はラヴェッタのおもらしの目撃者になるという、一粒で二度美味しい使い方です。

 そして2つ目は、「おもらししたままでの陣頭指揮」です。このシーンこそ、どんな言葉よりも雄弁に彼女の人間性を語っていると言っていいでしょう。
 おもらしした女性・女の子が取る態度は様々です。放心する、泣き出す、慌ててパニックになる、必死に隠そうとする、などなど……。ですがどれも、おもらしした姿を誰にも見られたくないという思いは共通のはずです。
 にもかかわらず、ラヴェッタは何事もなかったかのようにその姿を衆目にさらし、頬を赤らめることも尻を隠すこともせず、ひたすら任務に集中する。
 それはおもらしの身体的嫌悪感を抑えるだけの理性の現れであり、戦況把握ができている、すなわちどんな事態に直面しても冷静さを失わないという精神的強さの現れであり、自分のことより部隊全体のことを考える自己犠牲の現れであります。
 何事にも動じず、部隊全体のために尽くすその姿には、カゲロウならずとも神々しさを感じることでしょう。その強さと、後始末の場面で見せる涙があいまって、彼女の魅力は倍増以上になっていると言えます。
 書きにくいシーンを見事に書ききったまきわりさんの筆力に、今回はもう感服するしかありません。

 そして次回はいよいよオスカー妹の登場ですね。おもらしの場面に事欠かなかったという彼女、どれほどの排泄シーンを見せてくれるのか、今からもう楽しみでなりません。
 次回も目一杯、期待させていただきますね。


戻る