『ハイネリア戦記』


 マリエラ・ラドマリフ
 オスカーと同腹の妹で、愛称は“マリー”。今年12歳を迎えるので、成人とみなされる“花飾りの儀”を行っておらず、ミドルネームはまだ持っていない。8歳の頃に高熱を出し、その影響を受けたものか両足が自由に動かせない。しかし、手先がとても器用で、領内の祭りや、教会の儀式で使う小物・衣類・飾りを数多く手がけている。12歳。


 オスカー・ヴァン・ラドマリフ
 辺境地・ファルカを治めるラドマリフ家の若き当主にして、マファナが率いるハイネリア正規軍の幕僚のひとり。典型的な直情型の人間で、正義感が強く、生真面目。初陣の時に兄を喪い戦いに怯えるようになるが、マファナの活躍を知り奮起する。後のアネッサ侯爵。18歳。


 リーエル・ヴァン・アルマイク
 オスカーの副官を務める将校。ロンディアの兵学校では彼と同期で、初陣のときも同じ部隊にいた。危うい所を彼に救われ、以来、オスカーに臣従している。慇懃実直がそのまま形になったような人物である。18歳。


 ソシア・リーラ・ウェインドルップ
 ラドマリフ家に仕えている侍女。マリーにとっては、母親同然の女性。両足が不自由となり、塞ぎこんでしまったマリーに手仕事の愉しみと尊さを教えた人物でもある。オスカーの兄・オリバーとは、内縁ながらも婚姻関係同然の間柄であった。29歳。



第3章 マリー



「………」
 夢の中で繰り広げられる光景は、深層意識に持っている様々な思い出が少しずつ溢れたものだ。愛する兄が戦場に出向いてからは、とにかく夢を見ることが多くなった。
(にいさま……)
 あどけない寝顔が溢す、はかない声。閉じられた瞼から滲むようにして、涙が零れ落ちている。その姿は、女子が一人の女性として認知される“花飾りの儀”を2ヵ月後に控えたとはいえ、まだまだ幼い面影を多分に残している。
 この時代は当然ながら現代のような高度の医療技術はなく、乳幼児の死亡率が著しく高いことを加味しても、人類の平均寿命は40代〜50代であった。それ故に、年齢に対する感覚というものは我々が持っているものよりも相当に下方修正する必要がある。
 現代は20代でもまだ子供扱いにされるが、この時代では12歳を越えれば既に立派な“大人”であった。農人ならば家々の畑を手伝い、商人なら見習となって交易に同行し、工人であれば徒弟として修行に励み、領主の子息・子女であれば正装をして公の場に立つこともある。個々の教育はそれに即した形で行われ、従って、その精神的自立がかなり早い段階で成り立つのも道理であった。
(オスカーにいさま……)
 オスカーのことを“にいさま”と呼んだこの少女は、当然だが彼の妹である。名前をマリエラという。オスカーを始め、ラドマリフ家の者たちからは“マリー”の愛称で呼ばれ、大事にされている娘だ。先にも触れたが、女子が12歳を迎える年度に行われる“花飾りの儀”を間近に控えている彼女は、その歳になったばかりの少女である。
「ん……」
 寝返りをうったとき、その瞳がゆっくりと開いた。まだ朝ともいえない薄闇が部屋を覆う中で、夢と現を行き来するように、マリーは愛くるしいその瞳を大きく動かしている。

 グルル……

「あっ……」
 確かな感覚が腹から起こり全身に駆け巡ると、少女の意識ははっきりと覚めたものになった。

 グルッ、キュルッ、キュルルル……

「あっ、お、おなかが……ん、んんっ……」
 幼さを残す眉がよじれ、その小さな額に滲むようにして汗が浮かびだす。かなりの苦しみが腹部に起こり、それに難渋している様子だ。
(御不浄に、いきたい……)
起きぬけだというのに、どうやら激しい便意を催しているらしい。
“トイレ”という感覚が乏しいことは既に記述したが、かといって、全てがそれに対して無頓着というわけではない。排泄にともなう悪臭や不潔感に嫌悪を抱くのは当然のことであり、従って、家の中でそれのための部屋を設けるということは、上流階層の中では主流になりつつある。ちなみに、侍従を引き連れた状態で排泄をしている公族たちも、それを行うのは専用にしつらえられた部屋の中だ。
 そして、公都での参政権を持たない武官ではあるが、公爵家の直臣であるラドマリフ家は、上流階層に位置する家格を持っている。当然、排泄のための部屋も設けられており、それは通俗において“御不浄”と呼ばれていた。
(まだ、夜明けじゃないのに………)
 この時代は、当然だが電気はない。灯りをとるには菜種から搾り出した油に火を点すか、蝋燭を使う。しかし、それを使うにはまず種火を用意しなければならず、火起しの器械が手元にない今のマリーにはできるようなことではない。
 つまり、明り取りの窓から入り込む月光を頼りにしなければならないのだが、今日は生憎と月がかけており、闇がかなり深い。“御不浄”に行くには、かなり不便が生じることであろう。

 グルルッ、グルッ、グロロロ……

「ああ、い、痛い……お、おなか……くるしい……」
 寝床の中でマリーは下腹を抱えながら、その小さな体を“くの字”に折り曲げた。収縮し、蠕動する消化器官を必死で宥めようとするが、それは気休めにもならない。
(寝る前に、ちょっとだけしたのに……)
 込み上げてくる便意を、奥歯をかみ締めて堪えるマリー。今更ながら、すぐに下ってしまう自分の腹具合に、恨み言は募るばかりであった。

 グルッ、グルッ、グルルル……

「く、あ、んぅ…で、出ちゃう……きたないの、出ちゃう……」
 いくら闇が深いとはいえ、手探りでも“ご不浄”の場に行くことは可能である。しかし、彼女は寝床の上で何度も身をよじりながら、必死に我慢をするだけだ。本当の安寧は、腹の中で暴れているモノを、“ご不浄”に用意されている肥桶の中に叩きつけることでしか手に入れられないはずなのに…。それに、この部屋にも夜間用に致すための“木桶”は用意されている。

 グルルルッ、グルルッ、ギュロロロロロ!

「ん、んぅっ!」
 しかし、どれだけ切羽詰った状況になってもマリーは起き上がろうともせずに、蠕動を繰り返す下腹を抑えながら悶絶するばかりであった。
(あ、朝まで……ソシアが来るまで……我慢……できるかな……)
 はぁ、はぁ、とあらぶる便意に呼吸を乱しながら、健気にも耐えるマリー。それでも彼女がこの場を動かないのには、理由があった。
 “動けない”のである。なぜなら、マリーは、幼い頃の高熱が原因で両足を自由に動かせないからだ。太腿なら何とか、その場からずらす程度には動かせるが、膝から下になると、感覚は完全に死んでしまっている。当然、一人の力では立つことも侭ならない。
(ソシア……ソシア……)
 自分の身の回りを親身になって世話してくれる侍女の名を紡ぎながら、必死に我慢を重ねるマリー。排泄をする場合、彼女に体を抱えてもらうか、尻の下に桶を捧げ持ってもらうなどしてその処理をするのだが、まさか夜までそれにつきあわせるわけにはいかない。
 夜間に催すことがないように、かすかなものでもそれを感じた場合は、寝る前に済ませるようにしていた。しかし、自分の思い通りにいかないのが生理現象であり、深夜に催してしまうことはこれまでにも何度もあった。

 グルルッ、グルルッ、グルルルルルル! ブピッ、プッ、ブプッ!

「あ、や……い、いやっ……で、出ちゃ……う、うっ!」

 ブリブリブリィッ、ブバッ、ブバブバブバァァッ!!

「あ、ああぁ――――………」
 強烈な便意が幼い窄まりに押し寄せたとき、それに抗うことも出来ずにマリーはいとも簡単に脱糞してしまった。熱病の後遺症が残した影響で、そのあたりの筋肉を制御する神経線維は著しく鈍っている。程度を遥かに越えた便意に対し、それを押し留めようと思っても容易に出来ない結果が、この無残な脱糞であった。

 ブボッ、ブブッ、ブブブッ、ブチュブチュブチュゥゥゥ……

「うっ、ぐすっ……きたないの、いっぱい出ちゃった……おしり、気持ちわるい……」
 我慢しようと考えていたのが嘘のように、窄まりの口を広げて排泄物が次々とマリーの下布を満たしていく。すぐに一杯になったそれは、マリーの臀部を覆うように広がり、ドロドロした不快な感覚を肌に残した。
「ぐすっ、ぐすっ……うっ、うっ……」
 夢の中で兄のオスカーが戦場に出てしまう場面に涙していたマリーは、今度は尻を覆うヘドロの不快さに嗚咽を溢している。
「また……また、しちゃった……赤ちゃんみたいに、しちゃった……」
 寝床に横になったまま排便をしてしまうというのは、やむをえない事情があるとはいえ乙女にはとてつもない羞恥だ。夜尿ということならむしろ可愛いものもあるかもしれないが、マリーがしてしまったのはいわゆる“寝糞”であり、少女がするものにしてはいささか衝撃が大きすぎる。また、尿と糞とでは、汚れる度合いも比べ物にならない。
「うっ、うっ……にいさま……ソシア……うっ、うっ……」
 尻から迸った不快感に苛まれ、嗚咽が止まらないマリー。

 こん、こん……

「えっ……」
 そんな彼女を救うように、慎ましやかなノックの音が部屋に響いた。
『マリー様……』
「ソシア……なの?」
『はい。……お部屋の前を通りかかったのですが、お泣きになっておられる声が聞こえたので……中に入っても、よろしいでしょうか?』
「う、うん……」
 がちゃり、と静かに開けられた扉に身を入れたのは、就寝用の肌着に身を包み、夜の冷気から体が冷えるのを守るため、丈の長いショールを肩から被っている女性であった。
「ソシア……」
 その手には燭を持っている。柔らかな灯火に浮かぶソシアの顔もまた、いつもと変わらぬ穏やかな微笑が浮かんでいて、それを目にしたマリーは、胸の中で渦を巻いていた負の感情が和らいだ気がした。
「あ……」
 ソシアはすぐに、部屋の中に漂う臭気に気がついた。
その顔色がわずかに変わったことに、マリーは“気づかれた”ことを察して、夜具の端で顔を覆い隠し恥ずかしさから逃れようとした。
「大丈夫ですよ。すぐ、綺麗にする用意をしてきますから、お待ちになって」
「うん……」
 優しい言葉づかいで諭され、マリーは素直に従う。夜具の中に隠していた顔を再びソシアに見せて、すがるような視線を彼女に向けていた。恥ずかしいが、やはりおしりの気持ち悪さには耐えられないのだろう。
そんなマリーに微笑を残してからソシアは部屋を出ると、内側から湯気の立つ木桶と数枚の布地を抱え、すぐに戻ってきた。
「さ、マリー様」
 洩らしてしまった糞が圧迫されないよう、マリーは尻を浮かせるため右半身を下にして横になっている。おしりが寝床につかないように注意しながらソシアは、まずはマリーの体をゆっくりと仰向けにした。
「腰を、浮かせられますか?」
「うん……やってみる……」
 力の入らない太腿に、それでもなんとか意識を伝播させる。震えるように膝頭が浮き上がっていくと、ソシアはそれを助けるように体を脚の間に入れて、踝を自らの両肩に置かせた。
「裾を、あげますよ」
「………」
 ワンピースの肌着の裾に手をかけると、それをマリーの腰まで押し上げる。すぐに、赤子にあてる“おしめ”を思わせるほど厳重に巻かれた下布が顕になった。
(まぁ……)
 そのおしりにあたる部分には、広い範囲で薄く茶色い沁みが出来ていた。布地から滲むようにして浮き上がっているだけなので他の部分を特に汚してはいないが、一般の下布では考えられないほどマリーのそれは厚く巻かれていることを考えれば、中で充満しているものの状態がかなりの惨状であることは容易に想像がついた。
 しかし、ソシアはそれを気にするそぶりも見せずに、穏やかな微笑を浮かべたまま作業を続けている。臍下のあたりにある帯をまずは手早く解き、マリーの股間を覆う形で巻かれている下布を、尻の部分を抑えながらゆっくりと剥がしていった。

 もわ…

 と、臭気が込み上げてきて、ソシアの嗅覚を刺激する。
(ああ、こんなにも……おいたわしいこと……)
股間から外された下布の内側は、想像したとおりの状態であった。硬さをほとんど感じさせない排泄物がべっとりとぶちまけられており、それはもちろんマリーの小さく愛らしいおしりにも、名残を大量に張り付かせていた。
「お腹の調子が……よろしくなかったのですか?」
「う、うん……急におなか、くるしくなったの……」
「このところ夜は冷えますから、あたってしまったのでしょうか……。これからはお腹に厚布をあてたほうがよろしいですわね。用意しておきますわ」
「ありがとう……」
 汚れが撒かれている部分をマリーの体から離し、白い部分が残る所に一度、彼女の浮かせた尻を落ち着かせ、脇に置いていた白布を湯の満ちた桶の中に浸した後で水気を切り、ソシアはそれを汚物でドロドロになっている小ぶりな臀部に押し当てた。
「ん……」
「熱くはないですか?」
「だいじょうぶ……ちょうどよくって、気持ちいい……」
 そのまま、撫でるように優しく汚れを拭っていく。外側から窄まりの中央に向かうように、円運動を描いて白布を動かし、まずは大まかに汚物を取り除いた。

 じゃぷ……じゃぷ……

 茶色い汚れが伝染した白布を湯の中ですすぎ、もう一度水気をよく切ってから、今度は丁寧にマリーのおしりを拭いた。窄まりの部分は特に念入りに、中まで指を入れて綺麗にする。しばらくとはいえ、排泄物がその部分を侵し尽くしていたのだから、敏感な粘膜で出来ている部分が雑菌に負けて、腫れてしまわないように気をつけたのだ。汚れの原点といってよいこの窄まりの内側は、慣れていない者ならば見落としてしまう場所である。
「いつも……ごめんね、ソシア……」
 しかし、ソシアはそういう疎漏を決してしない。なぜなら、マリーの粗相を綺麗にすることは、彼女にとっては日常の中の大事な仕事のひとつであるからだ。
「謝ることなど、なにもございませんのよ。さぁ、これで綺麗になりましたね」
新しい下布をマリーの股間に当て、それを何枚も厚く重ねてから帯で結びつけ、捲り上げていた肌着を元に戻してから、肩にかけさせていた脚を寝床に下ろした。
「お腹の具合は、どうですか?」
「いっぱい出たから、もう大丈夫……」
「そうですか。念のために、夜が明けたらカレリアさんを呼びますね」
「うん……」
 尻に充満していた不快感が一掃され、洩らしたとはいえ腹痛の根源となっていたモノを出し切ったマリーは、かなりの爽快感に包まれていた。もし、ソシアが部屋の前を通りかかってくれなければ、夜が明けるまでそのおしりは汚物に蹂躙された状態のままだったわけであり、その気持ち悪さに辟易としながら時を過ごさなければならなかったところだ。
「ソシアは、なにをしていたの?」
 汚物を拭ったことですっかり色の変わった白布を桶の中に集め、それを抱えて立ち上がったソシアに、マリーは問う。この家に仕えている女たちが仕事を始めるのは夜明けからだが、まだ時間が相当にあるこの時分に彼女が邸宅の中を行き来していることがマリーは不思議だった。
「わたくしも、ちょっとお腹を……御不浄です」
「あ、そ、そうなんだ……大丈夫なの……?」
「はい」
 夜に宅内を歩き回る用事といえば、それは最たるものだろう。穏やかな笑みを崩さずに、なんでもない風に後始末をしてくれたソシアが、まさか腹痛に苦しんで起きだしていたとは思いもしなかった。
「まだ夜明けまでしばらくありますわ。ゆっくり、お休みになってくださいね」
「ありがとう、ソシア」
 夜具を優しくかけてくれた“母”とも慕う侍女に、マリーはようやく一杯の笑顔を見せることができた。
(………)
 このまばゆいばかりに愛らしい笑顔に触れることが、ソシアにとっては何よりの報酬である。誰もが厭うはずの“排泄の世話”に、ソシアが何ひとつ抵抗感を持たないのは、そのためだ。ソシアにとっては、マリーはまさに“娘”そのものであった。
(オリバー様が、大事にしていた方ですもの……)
 今は亡き愛しい人が残した思いを、ソシアは誰に言われるまでもなく、自ら受け継いでいたのである。



 ―――同じ頃、オスカーもまた夢を見ていた。

『……

 グルルッ、グルッ、ゴロゴロゴロ……

「にいさま……おなか、いたいよ……も、もう、出ちゃう……出ちゃう……」
「もうちょっとだぞ、マリー。もうちょっとだから……」

 ギュルロロロ……グルルルッ! ブッ、ブピッ―――

「あ、だ、だめっ……も、もうだめっ、に、にいさまぁ!」

 ブリブリブリッ、ビチャァッ、ビチャッ、ビチャビチャッ!!

「ま、また……またしちゃった……ぐすっ……」
「マリー……」
 邸宅にある“御不浄”にたどり着かせる前に妹のマリーが、催した便意に我慢をしきれず途中で洩らしてしまうことは、オスカーにとっては茶飯事である。腕に抱えている妹のおしりの部分から凄まじい爆音が響き、何かが沁みと同時に盛り上がって臭い立ってくるその経過もまた、彼には慣れた出来事になっている。
「ぐすっ、ぐすっ……うっ、うっ……」

 ブジュブブブッ……ブボッ、ブジュ、ブジュ……

 布地から染み出るように、ポタポタと床に垂れ落ちるマリーの粗相。可哀想にもすぐにお腹を下してしまう妹は、もともとが我慢の利きにくい体質であるということもあいまって、脚が不自由になってからは毎日のように洩らしてしまうようになっていた。
「ぐすっ、ぐすっ、ぐすっ……」
 今日も、夜半になって急に催したらしく、それなら早く隣のベッドで寝ていた自分に知らせてくれれば、すぐにでも“御不浄”へ連れて行ったのだが、自分を起こすことをためらったのか、彼女は朝まで我慢をしようとしてしまった。その結果が、途中での粗相になってしまったのである。
「ごめんなさい、にいさま……ごめんなさい……」
 腕の中で忍び泣くマリー。熱病にかかり両足の自由を失うまでは、家の外をはしゃいで飛んで遊び回る活発な女の子であったのに、今ではその時の元気はほとんど失われ、それがオスカーには不憫でならなかった。
「心配はないよ、マリー。こんなことで、僕がマリーのこと嫌いになったりするもんか」
「にいさま……」
「大丈夫だ。早く、綺麗にしような」
「うん……」
 そのままオスカーは、マリーを連れてラドマリフ家自慢の湯場へと向かった。この地に湧き出す温泉の一部が邸宅の敷地内にあり、それを囲む形で湯場を設えているのだ。
「まぁ、オスカー様、マリー様」
 夜も明けないうちに、その湯場で色々と仕事に立ち回っていたのは、ラドマリフ家に仕えるようになってから間もないソシアであった。彼女のウェインドルップ家と、ラドマリフ家は祖父の代から交流があり、それもあって、ソシアとは幼い頃から互いを良く知っている関係である。
 その彼女が、侍女としてラドマリフ家に入ったのは将来的なことを睨んでのことだ。オリバーとソシアはほとんど許婚の関係にあり、その話がいよいよ現実に向かったのである。
「相変わらず早いね、ソシア。ちょうどよかった。手伝って欲しいんだ」
「わかりましたわ。さ、マリー様……」
「ぐすっ……ん、うん……」
家格で言えば、地方の商家に過ぎないウェインドルップ家は、公爵家の直臣であるラドマリフ家には及びもしない。主従関係にあるといっても、良い。故に、いずれは“ラドマリフ夫人”となるはずのソシアも、オスカーやマリーに対しては腰がかなり低いものになっている。
 だが、オスカーもマリーも、立場で言えば侍女の一人であるはずのソシアには、肉親へのそれに等しい信愛を持っていた。早くに母親を亡くし、正規軍の幕僚として多忙を極める父と兄はほとんど家を空けているから、この兄妹にとっては、幼い頃からいろいろ世話になっていたこのソシアは“家族”も同然の女性だったのだ。
「さ、こちらにマリー様を」
 そのソシアが、床に白布を数枚敷き、マリーを抱えているオスカーを促す。導かれるようにしてオスカーは、幼い妹の体を布の上に横にすると、汚れが充満しているおしりの部分が地面に着かないように浮かせた状態で支えていた。
「ソシア、裾をあげてくれるかい?」
「はい」
「………」
 ソシアは裾の部分に手を伸ばすと、それを腰のところまで引上げた。
この時代、下着というものには二種類あって、ひとつは“下布”といって帯状の布をあてるようにして股間を覆うものであり、もうひとつは“下裳”という、穿くようにして両脚を通し、それを身につける衣類であった。ちなみに、現代で言う女性の下着に近いのは“下布”である。“下裳”は股間だけではなく太腿のあたりまで覆うから、モモヒキに似た衣類であると想像していただければ、形も見えてくるのではないだろうか。
 マリーの下半身を覆っていたのは、“下裳”であった。浮かせたおしりの部分にははっきりと茶色い影が丸く象られており、その中心からにじみ出るようにして滴りが、白布に点々と溢れ落ちていった。
 ソシアは下裳に手をかけると、それをゆっくりと脱がせた。すぐに、べっとりと洩らした糞で汚れてしまった小さなおしりが顕になる。
「〜〜〜」
 いくらシモの世話を何度もしてくれた相手とはいえ、自分がしてしまった粗相を見られる羞恥には慣れない。マリーは真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら、しかし、何も言うことをせずに、二人が真摯に行ってくれている排泄の処置を黙って受けていた。

 ごそ、ごそ……ボトッ―――

 マリーの脚から、下裳が完全に取り払われた。そのままソシアは、中で充満している水溶性の高い汚物がこぼれてしまわないようにそれを丸くして、用意していた木桶の中にゆっくりと置いた。
「おしりを拭きますね」
「うん……」
 今度は、茶色いものが一面にこびりついているマリーのおしりに、湯に浸して水気を与えた布をあてる。それを絶妙な力加減で動かすと、瞬く間にマリーのつるつるした愛らしいおしりの肌は、綺麗な艶と質感を取り戻していた。
(すごいな……)
 オスカーは、手際の良いソシアに感心している。
(こんなに、早く……)
マリーの脚が不自由になってから、妹の排泄の世話は自分もこれまで何度となく行ってきたが、彼女のようにはなかなか素早くできない。汚れを拭うために使った白布も、自分に比べればソシアのそれは範囲が少なく、より効率の良い使い方をしていることがわかった。
「せっかくだから、マリーに湯浴みをさせるよ」
「わかりましたわ。新しいお召し物を、ご用意します」
「頼むよ、ありがとう」
 オスカーはそのままマリーの衣服を脱がせると、その幼い身体を優しく抱きかかえ、浴室の中に入っていった。腕の中にあるマリーは、兄に全ての信頼をゆだねた表情をしており、裸のままで抱えられている羞恥は、洩らしてしまった後のおしりを見られるときよりも、感じてはいないようであった。……』



「………」
 マリーを抱え、靄の浮かぶ湯場に入った瞬間、オスカーは目が覚めた。霞のかかった脳内はその夢を何度も反芻してから、聴こえる小鳥のさえずりに導かれるように現実へと回帰する。
「マリー……」
 夢に出てきた妹は、確か8歳の頃であろう。両足が不自由になって間もない時だから、本人も周囲もその状況に慣れてはおらず、いろいろな所で不憫な思いをさせることが多かった。
「………」
 その最たるものが、排泄である。自分で自由に動けないために、マリーの排泄は必ず誰かの補助を必要としたが、それはいつしかオスカーが自ら引き受けるようになっていた。
始めの頃、どうしてもマリーは、付き従っていた中年の侍女に“お腹が痛い”と言い出せなかったらしく、洩らしてしまうことがほとんどだった。後始末をする度にその侍女が、不快な表情を隠さないことに幼いマリーは耐えられなくなったようで、それを泣きながら相談されたオスカーが自ら妹の世話をすることにしたのだ。ちなみに、妹を辱めた侍女は暇を出され、ラドマリフ家からは放逐された。家族を辱められたことに感情的になるのは、分別のあるラドマリフ家でも例外ではないということである。
 最初のうちは、信愛する兄に対してもマリーはなかなか便意を伝えられなかった。限界になってようやくそのことを告げるのだがそのときはもう遅く、御不浄にたどりつくまえに、その股間が汚液と汚物で無残な状態になってしまうのは茶飯事であった。
 もちろんオスカーは、汚物にまみれた妹の姿になにも厭うことはなく、進んでその後始末をした。慣れないうちは指先を汚物まみれにするばかりであったが頓着はせず、真摯に妹の排泄の世話をし続けていた。そんな兄の優しさに触れるうちにようやくマリーも、感じた便意はすぐに伝えることができるようになった。
 マリーを結果的に辱めた侍女を放逐した後、ラドマリフ家にやってきた新しい侍女は、懇意にしていたウェインドルップ家の令嬢・ソシアであった。商家とはいえ、この地方では盛名のある家の令嬢が、まさか侍女として家に入るとは思わず、その時はオスカーもマリーも驚くばかりであったのだが、それが長兄・オリバーの意向であることを伝え聞いた兄妹は、正規軍の将校として多忙を極めながら、常に自分たちを気にかけてくれている長兄の大いなる優しさに、胸を熱くしていた。当然、ソシアはマリー専属の侍女となり、以来、彼女の世話はオスカーとソシアが二人でするようになった。
 話は反れるが、オリバーがソシアを侍女としてラドマリフ家に入れたのには、複合的な理由がある。もちろん、ソシアを将来的に自分の妻とすることを決めての行為であり、また、マリーが“姉”とも“母”とも慕う彼女に、妹のことを委ねたい気持ちが強かったのも事実だが、彼の意思の中には弟・オスカーに対する配慮も多分にあった。
 武官の家に生まれた男子は、15歳を迎えた頃に“将校見習”として軍隊に入る。ラドマリフ家の男子であるオスカーもまた、その年齢に達すれば例外なく見習としてロンディアにある兵学校へ入らなければならない。そうなれば当然、マリーの世話は誰かに委ねるしかなくなるのであるが、オスカーがそのことに気を取られ兵学の勉強に集中できなくなってしまう事態を、オリバーは懸念したのだ。
 ソシアとは幼馴染であり、確かに仲は良かった。だが、妻にするかどうかというところに考えが至ると、オリバーはなかなか踏み込んだ考えができなかった。家格の高い武官の男子は、公族に連なる女性を妻に持つことが慣例で、当主であり幕僚のひとりである父のマーカスも、商家の娘であるソシアとの結婚に難渋を示すのではないだろうかと思っていたのだ。だが、それが杞憂に過ぎなかったことは、この話を切り出したとき誰よりも喜びを顔にしたマーカスの様子で彼は思い知った。
 こうしてソシアはラドマリフ家に入り、15歳となったオスカーはマリーを彼女に託してロンディアの兵学校に入った。両足に不自由を抱えてしまった妹の世話は、侍女のソシアに全てを委ねることになったが、兄の幼馴染でもあった彼女の細やかな優しさは既に知るところであり、それに対する心配はなかった。それでも、妹に対しての手紙を毎月欠かさなかった所に、オスカーの強いマリーへの家族愛を感じることは出来る。
 ……さらに話はそれるが、ラドマリフ家の家族関係を少し説明しよう。
 オスカーとマリーは、同じ母親から生まれた兄妹である。しかし、父が違う。ラドマリフ家に後妻として嫁入してきた女性が、死別した先夫との間に成した子がオスカーであり、ラドマリフ家に入って後、当主であるマーカスとの間に生まれた子がマリーなのである。
 つまり、オスカーには純粋な意味でのラドマリフ家の血流は受け継がれていない。だが、彼の父親は、マリーの父親であるマーカスの無二の親友だったこともあり、家の中にあって彼は、決して粗略には扱われなかった。
 当主のマーカスには、やはり今は死別した先妻との間に息子がいた。その子が、オリバーである。オスカーにとっては義理の兄にあたり、マリーにとっては異母兄ということになる。
 かなり複雑な家庭環境をもつ三人のきょうだいだが、その仲はかなり良好だった。
オリバーは既に父に従い、将校のひとりとして軍の公務に携わる年齢に達していたということもあるから、オスカーとマリーにとっては“兄”というよりは“もうひとりの父”という畏敬を抱き、オリバーもまた、長兄としてこの歳の離れた二人の“きょうだい”を、しっかりと守ってやらなければならないという気持ちを多分に抱いていた。
 オスカーにとって、そんなオリバーは誇らしい“兄”であった。武芸、学識、軍政のいずれにも長じており、若い将校の中でも輿望が高く、将来のハイネリアを支える人材として大きな期待を担っていた。訓練の一環として年に一度ロンディアで行われる“大武芸会”では、並み居る将官たちを圧倒して常に優勝を勝ち取り、いつしか“ハイネリアの剣”とまで称されるほど、その武名は高いものになっていた。
本当の意味においてラドマリフ家の血流がないオスカーではあるが、オリバーはそんなことを意に介する狭量な男ではない。マーカスが急な病で世を去り、ラドマリフ家を引き継いでからも、“武の誉れ高いラドマリフ家の男子”として、弟を教え導いてきた。オスカーがそんな兄を更に熱く尊敬し、信奉するに至ったのは自明なことである。
「兄上……」
 この世の誰より敬愛していたオリバーも、既に故人である。侵攻してきたオルトリアードとの緒戦で敗北したとき、崩れ落ちそうになった自軍を最後まで支え、全滅を免れる奮迅の働きを見せた兄は、しかし、その時に負った無数の槍傷が元で死んだ。当然、後嗣はいない。
結果、ラドマリフ家の血を受け継いでいない自分が当主となったのだが、彼の本意は、ラドマリフの血が流れているマリーに婿を取らせ、その間に生まれた子を後継者にしたいと思っている。義父や義兄は、自分をラドマリフ家の男子として扱ってくれたが、やはりそれが養子としての“義”であろうと彼は、兄の死によって転がり込んできた当主の座についてから常に考えていた。

 こん、こん……

「オスカー様、お目覚めですか?」
「リーエルかい? もう、起きているよ」
「失礼致します」
 妹の夢から始まり、様々なことに思いを募らせていたオスカーは、扉から響いた慎ましやかなノックの音によって現実に戻った。
「おはようございます、オスカー様」
「やあ。相変わらず早いな、リーエル」
 部屋の中に入ってきたのは、慇懃実直をそのまま形にしたような少年であった。父の率いる部隊の副官であった将校の子で、名をリーエルという。歳は、オスカーと同じである。武官の中でも席次の低い家の生まれであるため兵学校でも目立つ存在ではなかったが、何処か引き合うものがあり、オスカーはリーエルと懇意にしていた。
 初陣の時、リーエルもラドマリフ家の部隊にいた。彼もまた、その戦いで父を喪い、故に、敗残兵をまとめてアネッサに赴いたオスカーに追従するようにして行動を共にしたのである。
「総帥閣下も、軍師様も、既にお目覚めになっております」
「そうなのか?」
寝着から普段の衣服に素早く身支度を整えたオスカーは、そのリーエルを伴ってすぐに部屋を出た。マファナとラヴェッタが起きているというのであれば、自分も悠長なことはしていられない。
「お二人は、どちらにおられるのか?」
「湯場でございます」
「そうか……それなら、その間にこちらも用意をしておかないとな」
 そのままオスカーは、“執政室”とプレートがかけられている扉の前まで来ると、重厚な趣のあるその扉を二度、ノックした。
「誰か?」
「オスカー・ヴァン・ラドマリフです」
「おお、オスカー殿か」
 すぐに扉の向こうで気配が動き、扉が開いた。中から姿を現したのは、リーエルに更に実直さを加えた挙措が、その小柄な体躯からにじみ出てくる男であった。
「ロッシュ殿、おはようございます」
 彼がマファナの名代としてロンディアの政務を担当している、ロッシュである。
「おはよう、オスカー殿。よく、眠れたかな?」
「はい。柔らかいベッドは久しぶりだったので、寝つくのには時間がかかりましたが…」
「ふふふ、同じ事を総帥閣下も仰っておられたよ」
 およそ、正規軍の将校とは思えないほど柔和な表情をロッシュは見せている。そのロッシュだが、ふいに懐から鈴を取り出すと、それを左右に振って凛とした音を響かせた。
「執政官、お呼びですか?」
 向かい合っている扉がすぐに開き、中から侍従と思しき慇懃さをまとった将校服の一人が姿を現す。
「馬車の用意は、できているか?」
「はい。旅路に必要と思われる荷も、全て積み込んであります」
「はは、相変わらず、素早い仕事振りですね」
「これが私の取り柄だからね。そういえば、総帥閣下の御者が馬の様子を見に行っている」
「ロムが?」
「しばらくとはいえ、自分が手綱を握る馬だから、よく知っておきたいのだろう。なかなか、熱心で見所のある少年であるよ……少し、場所を任せるぞ」
「はい、執政官」
 ロッシュに声をかけられた将校は、オスカーとリーエルにも深々と頭を下げると、そのまま執政室の前に立った。これで、この部屋に主が居ないことは、正面に将校が居ることで誰にもわかるようになる。
 三人はそのまま連れ立って将舎から外に出ると、前庭にあたる場所に既に用意されている一乗の馬車に近づいていった。
「なんとも、造りの頑丈な馬車ですね」
「道中は危険がないとはいえないからな」
 城郭の外は、はっきりいえば無法地帯である。盗賊、禽獣の類による襲撃は、旅人にとって最も懸念すべき事柄だ。それを避けるためには、相応の準備が必要になる。
 ロッシュがマファナのために用意した馬車は、普段は幌を張る壁の部分も木板で仕切られており、黒漆が幾重にも塗られている。矢も投石もよせつけないような外観を持っていた。
 オスカーは、その中を確認してみた。向かい合うようにして座る場所が設えられており、その座席には柔らかいクッションが備えられている。見たところ、4人ほど中に入れる広さを持っており、強壮な外観からは想像もつかないほど快適そうな印象を受けた。
 旅荷は、馬車の後部に設けた専用のスペースに置かれている。ロンディアから、オスカーの故郷であるファルカまでは、およそ2日の旅程が必要となるので、その分の食料と水が樽に詰められた状態で用意されていた。
「オスカー様、リーエル様、おはようございます」
「やあ、ロム」
「おはよう、ロマリオ君」
 車の足回りを確認していたオスカーとリーエルの前に、二頭の馬の轡を引きながらロムが現れた。ロッシュは、満足そうな表情で馬の首あたりを撫でているロムの様子に目を細める。ちなみに“ロマリオ”が、ロムの本名である。ハインに臣従している武官の家に生まれ、御者としての資質をハインに見出されて彼に仕えていた少年だが、その推挙によって今はマファナ直属の御者という栄職を戴いていた。
「御者殿の目に適ったのは、その二頭ということだね」
「はい。二人とも、優しく落ち着きのあるいい目をしています。これなら、さほど揺られることもなく総帥には旅をお楽しみいただくことができそうです」
「それはなによりなことだ」
馬を慈しみ、彼らと信頼関係をすぐに築くことが出来る能力は御者として何より必要とされることであり、それをこのロムという御者が充分に会得していることは、撫でられている馬の尻尾が心地よさげに振られていることでよくわかった。さすが、マファナの軍車を預かっているだけのことはある。
「確認しておきたいのだが、同行するのは十六名でよいのだな?」
「自分とリーエル、それに自分の部隊で同郷の者が十二名。……あと、老将軍の好意で、護衛としてヴェスバル殿にも同行していただけることになっておりますから、これにロムを加えると確かに十六名ですね」
「護衛としては、充分ではあるな」
 確かに城郭の外は行政の行き届かない面が多く、色々と危険が潜む場所だということは記述した。だが、ハイネリアは国土の範囲がそれほど広くはなく、これから向かうファルカのように公都から離れた辺境の地は、戦いに慣れている武官が領主として統治していることもあってか、すこぶる治安が良い。
ハイネリアにおいて道中の危険は、盗賊よりも野犬を始めとする禽獣の類に注意を向ける必要がある。しかし、多人数であればその群れも不必要な危険を冒すことを考えない。禽獣は、人の匂いに引き寄せられる反面、それが集団であるとこれを避けるという習性を持っているからだ。加えて彼らは、鉄の匂いを非常に嫌う。それを見越してロッシュは、車体に塗った黒漆に鉄粉を混ぜ合わせていた。
 これで準備は整った。
オスカーとリーエルは将舎に戻り、それぞれの準備を改めて用意してから馬車のところへ戻った。
「オスカー、リーエル、今日はよろしく頼みますね」
 そこには既に、全ての用意を終えていたマファナが待っていた。もちろん彼女は、いつも目にしている軍装ではなく、一般の女性がまとうものと同じ衣服に身を包んでいる。“ドレス”という過度に煌びやかなものでないのは、マファナがその衣を好んでいないということもあるだろうが、やはり肩の凝らない身動きの取りやすい“機能性”のある旅装を彼女は選んだということだ。
「………」
 それでも、高貴な美しさが褪せることは全くない。オスカーにとっては初めてとも言えるマファナの女性としての装いは、さしもの彼にも胸の動悸を多分に与え、言葉を失わせていた。
 ラヴェッタもまた、侍従の頃と同じ装いに身を包んでいた。オスカーや他の面々も兵装をしていないから、傍目にこの一行は、とある商家の旅姿に見えることだろう。
「それでは、出発いたしましょう。ロッシュ、いろいろと用意をしてくれて、ありがとう。留守の間はよろしく頼みます」
「お任せを。総帥閣下も、ゆっくりと疲れを癒してください。道中、お気をつけて」
 こうして一団はロンディアを出発し、目的地であるファルカまでの道程を行くのであった。



 ロンディアからファルカまでの道のりは、ある程度の舗装をされている。とはいっても、行き交う旅人が自ずと作り上げた平坦な道を、改めて踏み均す程度のものであり、現代のような舗装材を使ったものとは違う。

 ガラガラガラ……

 加えて、今のように“ゴム”という素材がないから、惹かれる車の車輪は固い木材そのものだ。それが、均されているとはいえ凹凸が残っている街道をゆくのだから、多少なりと揺れるのは当然であった。
「こういうのは、本当に久しぶりだわ」
 それでも、車中にあるマファナは楽しそうであった。総帥としての立場を戴き、自ら新しい正規軍を立ち上げたとはいえ、まだ二十歳にもならぬ乙女なのだ。公女なのだから、社交の世界で華を身に飾り恋を謳ってしかるべき年齢である。
 ハイネリアの空気を招き入れるように窓を全開にし、かすかな揺れの中でも微笑を絶やさないマファナ。
「………」
 彼女のたっての申し出で、やはり車中にあるオスカーは、その表情に惹きこまれていた。考えてみれば、心に余裕のある状況でマファナと向き合ったのはこれが初めてである。
(可憐だ)
 色恋に全く無縁でこれまで生きてきたオスカーは、初めて女性の持つ美麗さを意識していた。戦場を翔ける聖公女として凛々しいマファナも“荘厳な美”を持っていたが、乙女に帰ったようで生き生きとした“豊穣な美”は、オスカーにより深い親近を抱かせた。
「どうしましたか? オスカー」
「あ、いえ……ご無礼を、いたしました」
 マファナに気づかれてしまうまで、どうやら凝視していたらしい。いささか不遜な事をしたと思う彼は、やはり生真面目が過ぎる。
「ふふ、今はアネッサではないのです。そう肩肘を張られると、わたしも疲れてしまうわ」
「も、申し訳ありません。注意いたします」
「まだまだね。うふふっ」
ラヴェッタも思いがけないほど、マファナは陽気であった。
(だが、このお姿が本当のマファナ様なのだ……)
 彼女が宮殿に入るまでは、同じ屋根の下で同じ物を食べ、おなじ夜具の中で寝物語をしていたラヴェッタだ。久しく忘れていたその頃のマファナの姿が鮮やかなほどに蘇っており、気がつけばその口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「ファルカの温湧水は噂に聞いていましたから、今からとても楽しみなの。オスカーは、いつもその恩恵にあずかっていたのでしょう?」
「そうですね。古くから邸宅には大浴場もありましたし、月に二度、市民にも開放されています」
「まぁ……それは、すばらしい施政ですわね」
「祖父も父も言っていました。“衣を脱いで知る民の声もある”と…」
「ファルカ領主として、ラドマリフ家の輿望は公都にも届いていました。その地にある特色を施政の要に据えるというところに、非凡な行政の才能を感じます」
 ラヴェッタらしい、感想であった。
(武官の中にも、政に優れている人は多い。……特にロッシュ殿は、執政官としては行政府の面々にも劣らぬ働き振りを見せている)
 ハイネリアの中央政府は、かなり薄まっているとはいえ公族に連なる古い氏族が文官となってこれを占めている。20年前の劇的な独立を演出した気風はまだ行政府に残っており、施政に疎漏は見せていないが、幼い公爵が立ってからは派閥が露骨に発生するなど微かな淀みが生じるようになってきた。その派閥が弊害を生まなかったのは、オルトリアードの侵攻による“亡国”という共通の危機感をそれぞれに持ったからであり、そうでなければ今ごろは、その派閥による権力闘争が激化して、ハイネリアは一気に弱体化した可能性が高い。
「だめよ、ラヴェッタ。難しいことを考えて……顔が、とても怖い」
「マ、マファナ様?」
 思考に沈んでいたラヴェッタの意識の中に、蒼色が入ってきた。マファナの瞳である。
「このひと時は、アネッサにいる皆の好意で得たものです。ならば、それを心より大事にしなければいけないわ」
「あ……は、はい……」
 正論であった。
オルトリアードが撤退をしたとはいえ、和平の締盟は何も成されていない。つまり、戦闘は終了したが戦争は終結したわけではないのだ。予断のある状況ではない。そういう思いがあって、ラヴェッタはどうしても心身からの余裕を得られていなかった。
「申し訳ありません」
「もう……」
 困ったような笑みと共に嘆息するマファナ。
「ラヴェッタもオスカーも、大事なことを忘れている。確かにわたしたちは、守っているものがある。でも、だからといって、“自分自身”を置き去りにすることもしてはいけないことなのよ」
「自分自身……」
「わたしは、ハイネリアを守りたい。ハイネリアに生きる人々を守りたい。そして、わたしもハイネリアに生きる者だから、わたしはわたしを守りたい。ハイネリアと民を守ることは、そのまま自分を守ることも意味している……そんなふうに考えるようになったのは、昨夜のことなのだけれど」
「総帥……」
「人は余裕を忘れてはいけない。わたしは、この休暇を皆からもらうことで気がついたのです。だから、この時間を大事にしたい……そう思っています」
「………」
 オスカーとラヴェッタは、いつしかマファナの言葉に惹きこまれていた。
高貴でありながら包容力のある眼差しはやはり、彼女が相当に気高い血筋の生まれにあることを証明している。しばらくの間、市井の中で育ったこともマファナの気品を良いほうに磨いたといってよいから、その煌きはどんな宝玉も敵い得ない光輝を見せていた。
 ハイネリア公爵家はその出自を辿れば、かつての大国・神聖ラーナ帝国の支配者であった“教皇”の血流に行き着く。諸侯から勃興し独立したオルトリアードやフラネリアに比べれば、その“格”は歴史的に見ても相当に高貴であると言っても良い。もっとも、その神聖ラーナ帝国は既に“教国”と名を改め、ノルティア連邦王国の支援によってようやく生き長らえているという弱体ぶりであるから、教皇の血筋であるということはほとんど見向きもされないアイデンティティとなっている。
 ところで、その神聖ラーナ帝国は祭政一致を政治の基盤にしていた国家である。当然、支配階層は知識の全てを管理しており、従って、ハイネリア公爵家の先祖は古くから数多の教義に触れることで高次の徳育に励むことが出来た。そうやって培われてきた知識は、そのままハイネリア公爵家の気質となってしみこんでいき、尚学の精神を育んできたといえる。
 先のハイネリア公爵・エンリッヒ2世も色欲こそ強かったが、施政者としては充分なほどに英主であった。オルトリアードに搾取されるだけの属国に過ぎなかった公国に地力をつけ、フラネリアの援助を受けたとはいえ独立に導き、かつての宗主国との戦いにも勝利した。外交と政治に特に秀でていた先公の才は、地道にハイネリアが積み重ねてきた歴史の力でもあった。
 エンリッヒ2世の統率力を最も受け継いだのは、マファナであろう。現公爵・エンリッヒ3世は、まだ幼いが故にその度量の程合いは見えてこないが、いささか気持ちが優しすぎる面がある。時には厳しい判断も必要とされる軍事をこなすマファナほどのたくましさは、富貴に囲まれた中では育まれ難いものだ。
気持ちの優しさは民を慈しむ心となり、充実した内政に大きな可能性を見出すが、今のハイネリアは対外的に難しい国の運営を強いられている。やはり必要とされるのは、国に活力を与え、臣・兵・民を牽引していける力強さだ。そしてそれは、エンリッヒ3世よりも、彼の実姉・マファナのほうが遥かに手にしているものでもある。
(マファナ公女が、男であれば…)
 行政府の中では、そういう声もあった。だが、公女は継承権を持っていない。それ故に、政争の道具になり得ないというのは、マファナにとっては幸運といえた。もっとも、継承権があったとしても、マファナは公爵の座に就こうなどとは露ほども考えなかっただろうが…。本人の思いと、周囲の思惑はすれ違うものだ。
もしもマファナに継承権があれば、いくら亡国の危機を迎えたとはいえ行政府は彼女の造反を恐れ、兵権を握らせはしなかったであろう。
 公族に親しみを見せない武官たちがこぞってマファナに臣従している点は、行政府にとっては少し不気味なことではあったが、マファナのハイネリアを想う心は彼女が自ら義勇軍を立ち上げてオルトリアードに戦いを挑んだことでも明らかであり、今では、マファナという存在が何かと気難しい武官たちの束ねになっていることを行政的に利用しておこうという考えになっていた。だからこそ行政府は、正規軍の将権をマファナに与えたのだ。
 奇妙なバランスではあったが、ハイネリアには結束力が生まれている。そしてその要になっているのは、やはりマファナであった。
「うふふ、わたしも難しい話をしてしまったわね」
「いえ。感服したしました、総帥」
「もう、オスカーったら……」
 相変わらず、生真面目さが抜けないオスカーに、マファナは苦笑するばかりであった。



 道行は順調であった。青天は何処までも続き、そのために踏みならされている道路は雨の泥濘から免れ、馬車の揺れもそれほど生じてはいない。
「ふわ……っむ、いかん、いかん」
 アレッサンドロから頼まれ、護衛として一行に加わっているヴェスバルも必死になってあくびをかみ殺しているが、それも無理のないほど快適な旅であった。
「どこかに木陰を見つけたら、そこで休憩を入れましょう」
「そうですね」
 陽が南中を示して久しい。同行している者たちは、まだまだ余裕のある足取りではあるが、休みを入れるべきだろう。マファナはそのことを、オスカーに伝えた。
「リーエル。先行して、一息を入れるのに良い場所を探してきてもらえるか?」
「わかりました」
「それなら、俺も行こう。ひとりより、ふたりの方がなにかと効率いい」
 マファナの意を入れて、窓からオスカーが副官のリーエルに指示を出したところ、声が聞こえるところを随行していたヴェスバルがそれに反応した。ちなみに、二人は馬に乗っている。後の随行者は徒歩だが、皆が兵士である故になかなかの健脚を見せており、早歩きといってよいその足取りにも全く疲労を感じていない様子である。
「すまないな、ヴェスバル殿」
「遠慮は無用だぜ、俺は使われてメシが食える人間だからよ」
 いうなりヴェスバルは、リーエルよりも早く馬の腹を蹴り、野を駆けていた。
「あっ、剣士殿、お待ちあれ!」
 慌てたようにリーエルがそれを追いかける。普段の彼からは想像もつかないその慌てぶりに、オスカーの頬が少し緩んだ。
「ふふふ。ヴェスバル殿は、退屈をしていたらしい」
 頬の緩みは、ラヴェッタにもあった。彼女はすぐ近くにヴェスバルの声が聞こえたときに素早く反応していたから、その行動が良く見えたのだろう。
(ラヴェッタ?)
その視線が、どんどんと小さくなるヴェスバルの背中を追っているようにマファナには見えた。なんとなく、これまで感じたことのない“艶”が、その色に含まれているような気もする。
(もしかして?)
 先の奇襲戦のことでラヴェッタから報告を受けたとき、傭兵・ヴェスバルには随分と援けられたという話をマファナは聞いた。彼の剣技が卓抜したものであるということは耳にしていたが、観察眼の厳しいラヴェッタにも認められたとなればその実力は本物であろう。
 “認める”ということは、少なからぬ好意を相手に抱くことである。中性的な物腰と語り口をしているラヴェッタだが、紛れもなく彼女は女性であり、異性に惹かれる心根も持ち合わせているはずだ。18歳という年齢は、既に結婚の適齢期に入っている。遅いぐらいでもある。
「………」
今は、宮殿に入る前のお転婆だった頃に戻っているマファナである。その悪戯心に、微かな火がついた。
「ラヴェッタ。ひょっとして、あなた―――」
 “ヴェスバルのことを、慕っているのですか?”と、口に出す前に、マファナの身体にある異変が襲いかかった。

グルッ、グルル……

「!?」
 不意に引き絞られた下腹。鈍い唸りを発したその部分が、何かを下に下にと漉しだしていく。

 ギュゥ、グルル、ギュウゥゥゥ……

バターを作るときに、念入りにかき混ぜられたヤギの乳を、絹布で揉みこみながら裏ごししているのと似たような“絞られる”感覚が、マファナの体内で起こっていた。
(こ、これは……)
 冷たい感覚が脊髄に沁み込み、そのまま全身の神経系統に伝えて放射状に広がっていく。

 グルッ、グルッ、グロロ……

(お、お腹が急に、う、うっ!?)
このところ何度も味わっている感覚だけに、マファナは一気に余裕を失った。

 ギュルルルルルッ! グルゥッ!! グロロロッッ!!!

(あ、ああ……音が……)
 外に意識のあるオスカーとラヴェッタには気づかれていないようだが、明らかに耳障りな鈍い音がマファナの腹を出所に響いている。
(く、苦しくなって……あ、く、うぅ……)
 漉し出しの運動は、かなりの加速を見せている。うねるような刺激がそのまま腹の中を巡り、搾り出されるような圧迫感を加えてマファナを苦しめ始めていた。
「マファナ様?」
 名を呼ばれたことで外からの意識を車内に戻したラヴェッタは、しかし、急に静かになってしまったマファナに怪訝の表情を浮かべる。
「あ、い、いえ……なんでもありませんわ」
 もちろん彼女はごまかした。急に“糞がしたくなった”ことを…。
(な、なんということ……こんなに急に、お、お腹が痛くなるなんて……)
 ラヴェッタに聞こうとしたことは、既に忘我の彼方である。とてつもない厄介ごとを抱えてしまった今、マファナの思考はそれに対するもののみに注がれていた。

 ギュル、ギュルル、ギュルギュルギュル……

(あ、い、いや……は、はしたない……)
 腹から鈍く響く音は、車輪の廻る音と揺れが車内に生じていなければ、明らかに二人の耳に届いていただろう。それ以上に、搾り出しがさらにきつくなって、猛烈な違和感がどんどんと窄まりの所に集められ、腸壁が限界を超えて膨らんでいく。
(く、う……う、んん……)
 表面上は必死に平静を装いながら、マファナは“便意”と戦っていた。
(ま、また……あんなことになってしまったら……)
 オルトリアードを撤退に追い込んだ先の大勝利は、マファナ個人にとってはとてつもない恥辱を味わった戦いであった。なにしろ、戦いの真っ最中に急激に腹が下って、我慢することもできないまま兵車の上で糞を洩らしてしまったのだから。
(オスカーがいるところで……)
 マファナの視線が、今は窓の外を見ているオスカーの横顔に注がれた。
先の戦いでしてしまった粗相から、自分を援けてくれたのがオスカーであった。戦場から離れ、粗相の後始末に適当な場所を探し出し、糞で汚れてしまった尻を拭うための布(オルトリアードの軍旗)を持ってきてくれたのだ。
 それだけではない。後始末が終わらないうちにオルトリアードの後援部隊が迫ったため、やむを得ずオスカーに馬に乗せられ、下半身が剥き身のまま退却を始めたが、なんとそのときにも強烈な便意に襲撃されて、抗いも虚しくマファナは鞍上に全てをぶちまけてしまったのだ。オスカーの見ている前で、鞍の上からどろどろと垂れ流れていくほどにおぞましい汚泥を…。飛沫をオスカーにも少しかけてしまう、そんな醜態を晒してしまった。
“脱糞”は少なからず、相手に不快と失望を与える行為だ。しかしオスカーは、二度そういう状況を目の当たりにしながらも、そのいずれにおいても手厚い優しさを見せてくれた。一時は死を考えたほど羞恥にまみれたその過去に、マファナがいつまでも囚われなかったのは、そんなオスカーの優しさに心を救われたからである。
(………)
 以来、マファナはオスカーに対して微かな情意を感じるようになっていた。自分の恥を晒してしまった負い目もあっただろうが、なにより直情に見えたオスカーの思いがけない情の深さに、その琴線を震わされたのである。将軍たちを束ねる総帥として、情の偏重には充分に注意をしているが、オスカーに向いた気持ちの明らかな変化を自分でも感じている。

 ギュルゥゥ!

(あ、うっ、ううっ!)
 そんなマファナの“逃避”を、生理現象は許さなかった。更に苛烈な反応によって宿主に老廃物の廃棄を促してきた。
(いまは、まだ……鎮まって、お願い……)
感情を持たない器官は、それぞれの職務に愚直なほど忠実であり、マファナの身体に害毒となるものを速やかに解消することだけを考えている。
(出る……出てしまう……あ、あぁ……)
 もちろんマファナとて、この苦しみから早く逃れたい。そのためには、腹の中に溜め込まれているものを窄まりから存分に出すしかないのだが、馬車に揺られている今は当然そんなことなど出きるはずがない。何処か適当な場所で、“野糞”をするより他はないのである。
市井の中で生活してきた時期のあるマファナは、もちろん“野糞”の経験も多分にあるので、それを行うことに抵抗感は抱いていない。原っぱで尻を晒す行為に恥じらいは感じるが、腹に重くのしかかる違和感をそのままにして苦しむよりは、“野糞”をしてそういう重荷を速やかに取り除いた方が効率的であることも承知しているし、そうすることへのためらいもないつもりだ。
(休憩に入るまでは……なんとか、我慢を……)
 幸い、適当な場所が見つかればすぐにでも馬車は止まる。その時になれば、ラヴェッタに“用を足しに行きましょう”と言って彼女を伴い、どこかの影で遠慮なく生理現象を解消してしまえばいいのだ。気心を互いに知っているラヴェッタには、排泄にまつわることの気兼ねもそれほど必要ない。
 だが、オスカーは別だ。特に彼には、二度も糞を洩らした痴態を見せている。
(オスカーに、はしたない女だと思われたくない……)
 それが、現時点において“用足しのためだけに馬車を止めない”理由であった。
軍事行動ではないのだから、自分の随意で馬車の足を気ままに止めても、随行している者たちも特に感情を揺らしはしないだろう。“ああ、止まるのか”と思うにとどまるだけのはずだ。先行して休憩に適した場所を探しているリーエルとヴェスバルも“ここで足を止めて、我々を待っていたのだな”と考えるに違いない。
 もしもマファナが冷静であれば、特に考える必要もなく馬車は止められたはずだ。だが、彼女は、
『馬車を止めてもらえますか?』
 と、言ったとき、オスカーとラヴェッタのいずれかに、
『どうなさったのですか?』
 聞き返されることを懼れた。何しろ理由は“糞がしたくなった”その一点にある。
(それにきっと、オスカーには気づかれる……)
加えて、もっと穿った想像がマファナには生じていた。休憩場所に適した所に行き着く前に馬車を止めたことに対して、
『ああ。総帥は、“野糞”をするために馬車を止めたのだな』
 と、オスカーがその考えに至ることを当然のように思っていたのだ。もちろん、“野糞”といった野趣な言葉づかいを彼はしないであろうが、負の方向に多分に傾いているマファナの意識は、幻想のオスカーにそういう言葉を使わせていた。
 とにかくマファナは、押し寄せる便意を解消する機を計ることが出来ない。全ては、俄かに生じた恥じらいが起こす、ためらいのせいである。

 ギュルルル……グウゥゥゥ――――

(!?)
 それが、悲劇を招いた。

 ブプッ…

(あくぁっ!?)
 圧迫感が一瞬にしてマファナの窄まりの内側に収束されると、自分の意思を無視したかのようにそれを体外に押し出したのだ。くぐもった音と共に温みのある空気が尻の肌を覆うと、窄まりに集まっていた存在感も追随するように出口の粘膜を押し広げていた。
(や、あ、そ、そんな―――……)

 ミチミチッ、ミチッ……

 窄まりの口を閉じ合わせようと括約筋に力を入れたはずなのに、主の命令を拒否したようにその意思を反映してくれなかった。

 ブニュルッ、ニュルニュルッ、ヌニュル、ヌニュル、ニュルニュル……

(嘘……こんな……嘘、です……)
 絞られるままに糞をひりだすマファナ。もちろん、下布をつけたままその中に、糞をたっぷりと吐き出しているのだ。
 近頃マファナを苦しめていた強烈な下痢症は、オルトリアード軍が撤退をして戦闘が止み、緊張状態がいくばくか緩和されたことが影響したのか、随分と解消されていた。だがそれは、“泥水”が“泥土”になったという変化であり、やはりその固さは失われたままである。あっという間に下布はその柔らかい糞で充満し、尻の肌にべっとりと覆い被さってくる不快な感覚がマファナの背筋を寒くした。
(ま、また……こんなこと……)
 尻を圧迫して下布の中でぶちまけた糞を潰さないように注意する理性は残っているようだが、これを如何にするべきか考えをめぐらせる余裕はもうなかった。起こってしまった現実に、ただ流されるだけである。
(マファナ様?)
 名を呼ばれ、マファナの方に視線を向けてからラヴェッタはずっと彼女を見ていた。心ここにあらずと言ったような表情を浮かべていたかと思えば、眉間に何か苦渋を表す溝が生まれ、一瞬、その青い瞳が微かに見開いたかと思うと、そのまま呆然としてしまった。
「マ……」
 心配を覚えたので、マファナに語りかけようとしたラヴェッタの嗅覚が、独特の匂いを嗅ぎ取った。
(この匂い……まさか……!?)
 下痢症に苦しんでいたのはラヴェッタも同様だ。しかも、都合の悪いことにその周期は夜半にめぐってくるので、どうしても部屋の中で木桶を使って排泄をすることになる。いくら蓋をしたとはいえ、鼻の曲がってしまいそうな臭気を抑えきることは出来ないから、ラヴェッタはそれに辟易としながら朝が来るのを待つという苦労を味わってきた。ここ2,3日になってようやく下痢症は治まりを見せ、匂いに苛まれない穏やかな朝を迎えることが出来たのだが、その時までの凄まじい臭気は、想像の中で反芻できるほどになっている。
(う、むっ……く、臭い……)
 それが、現実のものを刺激の中に捉えたのだ。誰より早く、“粗相”が起こったことを気づくことができる素地が、ラヴェッタにはあった。
『おわっ、糞だ!』
「「!!」」
 突如起こった“糞”という叫び。それを耳にするや、マファナの顔が愕然とした。同時に、ラヴェッタもその声が聞こえた車外に視線を向ける。
『馬が糞をするのは当たり前じゃないか。……しかし、なんとまぁでかいクソだろう』
『すみません、知らせるのが遅れてしまって』
『ロマリオ〜、踏みそうになったんだぞ』
『俺は、踏んだよ……くそっ……』
 どうやら、車を引いている二頭の馬のうち、いずれかが粗相をしたらしい。可哀想にもその馬糞を、誰かが誤って踏みつけたらしく、ちょっとした騒動が起こっていた。
(ほっ)
安堵のため息を漏らしたのはラヴェッタである。マファナは“糞”という言葉に過敏に反応しており、完全に動きを止めてしまっていた。
「総帥のお傍で、あまり下品なことをいうのではない」
 かたやオスカーは、“糞”“クソ”“くそ”と連呼する周囲に注意を飛ばしていた。それはすなわち、リーエルに指示を出してから外に向いていた彼の意識が、さらに外側へと注がれたことを意味する。
 すかさずラヴェッタは、マファナの傍に身を寄せた。ちなみに、向き合っている車中の座席は、オスカーとラヴェッタが対面になり、マファナの両足が広い空間を取れるように配慮されている。
(………)
 オスカーと二人には、わずかな距離がある。しかし言葉を発すれば、それはオスカーに届く恐れもあるからラヴェッタは何も言わず、膝の上で握り締められているマファナの手に、そっと己の手を重ねることで彼女の意識を自分に引き寄せた。
「………」
 マファナの哀しそうな視線が、ラヴェッタを見た。つい先ほどまでの、自分を惹きこませた蒼い瞳は潤んだ色合いで滲んでおり、それがマファナの絶望的な状況と心境を容易に想像させる。
 だが、彼女に恥辱にまみれた異常事態を気づかれたはずのマファナは、ラヴェッタに優しく手を握られると、“安堵”をその表情に浮かべた。この二人にある信頼関係は、やはり相当のものがあるということだ。
(ロカは、随分と状態が良くなっていると言っていたが……)
 陽動戦を仕掛ける前に報せがあった“ほとんど泥水のような状態”から、“わずかに形が残った状態”に変わってきたことで、マファナの健康状態が上向きになってきたのだとラヴェッタは思い、安心もしていた。
 だが、マファナは消化器官が強靭ではない。幼い頃から水にあたることは多く、故に、生水の摂取は避けるように常に注意をしてきた。今回の“脱糞”は原因が定かではないが、何かの拍子で急に腹が下ることは、よくある。
「む……」
 不意にオスカーが、怪訝な表情になった。そして、右手を口元に寄せて明らかに何かを不快に思うようにその眉がよじれる。
「総帥、軍師殿、申し訳ありません。馬が、粗相をしてしまったようで……」
「あ、あ、い、いえ……わたしは、その、小さい頃は馬の世話もしていたのよ。う、うん、ちっとも、嫌な匂いではないわ」
「私もだ、オスカー殿。むしろ、懐かしいぐらいであるよ」
 とりあえず、事実である。マファナの養父にしてラヴェッタの実父であるヴェルエットは晴耕雨読を好んでいた男であり、家には二頭の馬を飼っていた。公女とはいえ彼の娘となっていたマファナはラヴェッタと共に、養父を手伝って馬の世話に勤しんでいたのだ。
「しかし、馬のものにしては……いささか、匂いが……」
 オスカーもまた、馬には造詣が深い。馬は草食の動物であるから、それほど排泄物は悪臭を放たないこともよく知っている。それ故に、車内にまで入り込んで立ち込めてくる匂いのきつさに、微かな不審を抱いた。
「疲れて、は、腹の調子を乱したのかもしれませんな。早く、休憩をさせなければ」
 ラヴェッタが必死にごまかしている。なにしろ、悪臭の元凶はマファナが尻からひりだしてしまったモノだということに、彼女は気づいているのだ。
(しかし、このままでは、気づかれるのも時間の問題だ……)
 雑食であるヒトは、その悪臭は凄まじい。いつまで経っても匂いが解消されなければ、オスカーもこれが馬のものではないと気づくだろう。
(私が、身代わりに……)
 もしも気づかれたとしたら、自分が放屁をしたといって陳謝するつもりでいた。マファナのためならば、自分がどれほどの恥にまみれても意に介さないラヴェッタである。
「オスカー様」
 必死の決意を宿したラヴェッタへの援け舟は、すぐにやってきた。先行していたリーエルが戻ってきたのだ。これによってオスカーの意識はまたしても外に向き、異臭に対する不審は消え去っていた。
「ここから街道を少し離れた所に、泉のある場所を見つけました」
「獣は?」
「足跡はありませんでした。念のため、ヴェスバル殿が哨戒をしております」
「そうか……ならば、そこへ向かおう」
 “よろしいでしょうか”と、マファナとラヴェッタに問い掛けるまでもなく二人が頷く仕草を見せていたので、オスカーは座席から腰を浮かせると、一段高い所に設けられた御者のスペースに身を出し、ロムの隣に座る形で腰を落ち着かせた。車を止めることなく移動が出来るように、その間には段があり、出入り口には幌がかけられていたのだ。
(よし…)
 すなわち、オスカーはマファナとラヴェッタに完全に背を向ける形になった。しかも、幌があるから密閉に近い状態になっている。
「マファナ様」
 小声であれば、おそらくはオスカーに届かないと判断したラヴェッタ。すぐにマファナに問い掛けて、彼女の状態を窺った。
「ラヴェッタ……わたし……その……」
「大丈夫です」
 言いよどんでいるが、もうラヴェッタは全てを把握している。マファナが糞を洩らしてしまったことに…。
「落ち着いたら、すぐに綺麗にしましょう。下布の換えは余分もありますし、樹紙も用意してまいりましたから」
 “樹紙”とは、木の皮を水につけて柔らかくし、薄く剥がしてから天日に干して作る“紙”である。排泄物を燃料にすることを発明した“アルエスト商会”の初期の開発品で、始めは木板に変わり文字を書き記すための品としての利用が考えられていたのだが、思いのほか紙の色が濃くなってしまったためそれには向かず失敗作とされていたものを、干草に代わり排泄で汚れた尻を綺麗にするのに非常に適していることを誰かが見出して、それ以降は専門的に使われていた。燃料とは違い多少値が張るので、市民レベルではあまり浸透していないが、干草を遥かに上回る優しい肌触りが人気を呼び、布とは違って使い捨てにもできるので、今では公族関係の家々には欠かせない品となっている。
「ありがとう、ラヴェッタ……」
 糞が充満する尻の気持ち悪さに辟易としながら、マファナはようやく余裕を得られたように、ラヴェッタの手を握り締めていた。その仕草にも、懐かしさが胸に滲んでくるラヴェッタであった。

『用を足してきます』
 馬車が止まるや、マファナはオスカーにそう言った。本当ならラヴェッタが自分の事として切り出そうとしていたのだが、どうやらマファナは余裕を取り戻したらしく、“洩らしている”状態をそれと悟らせずに“催した”と相手に思わせて、意識を上手く反らせた。
『獣はおらぬようですが、お気をつけて』
『私がいるから、心配はないよ』
 ここは戦場ではないから、排泄に護衛は必要のあることでもない。だが、マファナの身はハイネリアにとって至上の存在になっているから、不測の事態に備える上でも誰かが付き添わなければならない。当然、それはラヴェッタの役割であった。
シモに関わる話なので、場を離れていく二人の背中をオスカーは意図的に視界から外した。ただ、マファナから“用を足しに…”と言われた瞬間、彼女と共に騎上にあり、自分の目の前で起こった凄まじい“脱糞劇”を俄かに思い出してしまったのは、やむをえないことであろう。
「このあたりで、いいかしら……」
 茂みが開けた場所を見つけ、マファナは足を止めた。
「マファナ様、これをどうぞ」
「ありがとう、ラヴェッタ」
 ラヴェッタが差し出したのは、新しい下布と樹紙の束である。それを受け取るとマファナは、汚れないように草の上に置いて、スカートの裾を引き上げ始めた。
「あ、あのラヴェッタ。裾を、持っていてくれるかしら」
「よろしいのですか?」
「お願い……」
 排泄の後始末を、全て目の当たりにすることになるのだが、マファナは意に介していないようだ。それよりも、長い丈のあるスカートを持ち上げながら洩らした糞によって重くなってしまった下布を外すことは難しいと判断した彼女は、裾を汚さないためにラヴェッタの手を借りることにしたのだろう。
(む……)
 裾を捧げ持ったラヴェッタの視界に、マファナの下布が入る。その尻にあたる部分は真茶色に染め上がっており、スカートを汚していないことが不思議なほどに盛り上がった糞で充満していた。
 マファナが両膝を折り曲げる。その動きに追随するようにラヴェッタも腰を沈めていくと、マファナの尻が真下に見える体勢になった。

 ごそ、ごそ……べちゃっ……

 マファナが下布を取り外すと、溢れる糞の重量によってそれが地面に落ちていく。凄まじい臭気がラヴェッタの鼻腔を痺れさせるが、マファナのものなのでなにひとつ不快は感じない。
(ああ、こんなになってしまって……おいたわしい……)
 晒された剥き身の尻は、下布によって遮られた糞が広範囲に潰された状態になり、ドロドロに汚れていた。それをマファナが、樹紙を使って丁寧に拭い取っていく。その小ぶりでかわいらしい臀部が綺麗になってゆく過程を、ラヴェッタは見ているのだ。
「ラヴェッタ……」
「あ、はい」
「綺麗に、なったかしら……」
「そうですね……あ、もう少し、その、右側のほうに残っています」
「ここ?」
 窄まりからやや離れたところに残っていた糞の名残が、マファナのひとふきで完全に拭い取られた。
「もう、大丈夫ですね」
 そのラヴェッタの言葉を聞くと、マファナは新しい下布を取り出し、股間の所に布を押しあててから中腰の体勢になって、紐と帯を結び合わせた。
「もういいわ、ラヴェッタ。ありがとう」
 捧げ持っていた裾から手を離し、綺麗に整える。これで、脱糞の後始末は終わった。
「マファナ様、体調はいかがですか?」
 足元に残る下布に満ち溢れた排泄物の状態は、やや固さを失ったものだ。ラヴェッタはマファナの腹具合が再び下降しているのではないかと心配を覚え、彼女に質していた。
「確かに、お腹は痛んだけれど……今はもう、なんともないわ。実は、2日ぐらい間が空いていたので、それが急にやってきたのかもしれない」
 確かに、マファナの顔は爽快そのものである。杞憂であることをラヴェッタは感じ、安堵した。
(2日か……)
 なるほど、量が多いわけである。もう一度念入りにスカートの尻のところを確かめてみたが、汚れが染み出ていないことが奇跡に思えるほど、足元には大量の汚物が残されていた。



 その日は野宿をし、二日目の昼頃になって一団はファルカ領に到着した。丘陵地帯の裾野に開けた町という印象があり、のどかさを感じさせる光景が広がっていた。
「ここが、ファルカ……」
 窓から少しだけ顔を出し、オスカーの故郷を目にするマファナ。公都に比べれば遥かに静観とした趣はあるが、穏やかな雰囲気が空気中に満ちていて、彼女はすぐに好感を持った。
「おや?」
 ファルカの領内に入ってからしばらくして、馬車を出迎えるように10名ほどの集まりが頭を垂れて待っていた。
「レイモン殿!」
「領主様、お待ちいたしておりました」
 白髪に柔和な笑みが良く似合う、初老の男が先頭にいる。オスカーも良く知っている人物だ。
 レイモン・バウフ・ウェインドルップ。ファルカ領内の流通業を担う商家の主で、ラドマリフ家に仕えている侍女・ソシアの父親である。
ファルカ領主であるラドマリフ家は、同時に正規軍の将官を兼ねているので、どうしても領内を留守にすることが多い。それゆえに、内政を委任することが必要になってくるのだが、それを受け持っているのがこのウェインドルップ家の主・レイモンであった。
 ファルカより興り、彼の地を拠点にしている商家であるから、土地の気質や民のことは熟知している。ラドマリフ家がファルカ領を治めることになったのはオスカーの祖父の代からなのだが、その祖父は大地主といってよいウェインドルップ家に協力を求め、彼らの商業活動を篤く保護することによって相互扶助の関係を築き、外様の領主でありながら潤滑な統治の浸透を可能にした。
 以来、ラドマリフ家とウェインドルップ家の蜜な関係は続いている。
 そのレイモンを先頭に、馬車は町中に入る。突然、造りの壮健な馬車がやってきたものだから、何事かと町の者たちが峰を作り、それを遠巻きに見守っていた。
 馬車は、とある邸宅の前に着いた。
「ここは?」
「それがしの別宅でございます。領主様よりマファナ様がお越しになると書簡をいただき、それならば是非に我が別宅にて御逗留をと思い、領主様に申し出た次第であります。家人も三名おりますので、なんなりと御用を仰せ付けください」
「そうですか。それは、ありがとうございます」
 実はマファナは、オスカーの家に泊まるつもりでいたのだが、せっかく用意してくれたものを無碍にするわけにもいかない。
「ねえ、オスカー」
 馬車から荷物を降ろすなり、休暇が終わってからの道行きを部下と確認しあうなり、いろいろと忙しく立ち回っているオスカーの傍によって、マファナは問いかけた。
「あなたはやはり、ご自分の家に?」
「荷を降ろしたら、馬で向かうつもりです」
「明日、訪ねてもよろしいですか?」
「え……あ、はい。もちろんですよ」
「その折は、家人にお声をかけてください。案内させましょう」
「ありがとう、ウェインドルップ殿」
 レイモンはさすがに商家の男である。相手が公女でも気後れせずに笑顔を振り撒けるのは、数多の人間に触れてきた経験の成さしめる業であろう。
 レイモンが用意した別宅で起居をするのは、マファナとラヴェッタの他は、ヴェスバルとロム、それと二人の兵卒であった。オスカーはもとより、他の兵卒はファルカに自宅がある。リーエルは、オスカーの意向で彼の家に逗留することになっていた。
「それでは今より休暇となるが、1週間後の正午、ここに集まるように」
 オスカーが自宅に戻る兵卒にそう告げ、一団は解散となった。


(1年と少し……久しぶりだな)
 オスカーはラドマリフ家の前に立っていた。ウェインドルップ家の別宅に比べ、かなり規模の小さな家ではあるが、飾り気の少ない清潔感のある門構えが住んでいる者の高徳さを漂わせていた。
「オスカー様、お帰りなさいませ!」
 門衛がすぐにオスカーを確認する。オスカーはそんな彼に笑顔で会釈を返すと、邸内に身を入れた。
「あ……」
 前庭に、影があった。その影のひとつは、椅子のようなものに腰を下ろしている。
「マリー、散歩かい?」
「にいさま!」
 その影が、オスカーに話し掛けられるや驚嘆したような声をあげた。車輪のついた椅子に座っている少女がオスカーの妹、マリエラ・ラドマリフである。
「オスカー様」
「やあソシア。いつも、ありがとう」
 そのマリーの椅子を押しているのは、ソシアである。両足に不自由を持つマリーが外を出歩くには、特殊に作られた車輪つきの椅子を使い、誰かがそれを押す必要があるのだが、その役割を担っているのは当然、ソシアであった。
「にいさま……」
 オスカーの顔を見るなり、マリーが涙ぐむ。必死に留めようとしているらしいがどうにもならず、つぶらな瞳に集まった雫は頬を伝い、慌ててマリーはそれを手の甲で拭いだした。
「ご、ごめんなさい。泣いたりして……」
もうすぐ“花飾りの儀”を迎えるマリーだが、まだまだ幼い仕草がいろんなところに残っている。オスカーはそんな妹の愛らしさに、胸が熱くなった。
「二人とも元気そうで、よかった」
「オスカー様も……」
 婚約者であったオリバーを喪った悲しみは、その全てを癒せたわけではないだろうが、ソシアの変わらぬ穏やかな微笑を見てオスカーは安心した。
「そちらの御方は?」
 そのソシアが、オスカーと少し離れた場所に慇懃に直立している将校に関心を示した。
「うん。僕の部隊で副官を務めてくれている、リーエルだ」
「お初にお目にかかります。リーエル・ヴァン・アルマイクと申します」
オスカーに視線で傍に来るよう促されると、リーエルはソシアが侍女の装いをしているにも関わらず、貴女にするものと同様に膝をついて慇懃な挨拶をした。
 余談になるが、男子の場合はミドルネームにそれぞれが従事している職を表す称が入る。オスカーやリーエルの間に入る“ヴァン”は軍に関わる者、レイモンの名に入っている“バウフ”という称は、商業に携わっている者に与えられる。ちなみに、工人のばあいは“ハウク”、農人の場合は“ハウム”と、名によってそれぞれの立場がすぐに認証できるようになっていた。
「お手を頂戴しても?」
 そのリーエルが、マリーの前に傅くとそう言った。マリーが“?”と困ったように視線をオスカーに投げかけると、彼は苦笑しながらマリーに、
「自分の名を名乗り、右手の甲をリーエルに差し出すのさ」
 と、そのしきたりを教えた。マリーはまだ“花飾りの儀”を終えていないので、上流階層の挨拶の礼を把握していない。
「マ、マリエラ・ラドマリフです……あっ」
 兄に言われるままおずおずと差し出した手が、リーエルの右手に優しく捧げ持たれると、その甲に軽く接吻を受けた。初めてといってよいその“挨拶”に、マリーは耳まで真っ赤にして恥らっていた。
「リーエルには日頃から世話になっている。賓客として、もてなしたいんだ」
「わかりました」
「オスカー様……」
 リーエルが自分をラドマリフ邸に招いた理由を知り、リーエルは胸を熱くした。
「しばらくは、副官であることを忘れてくれないか。久しぶりに、兵学校の時のように無礼講で語りたい」
「そうですね」
 固い表情を崩さなかったリーエルに、ようやく柔らかい笑みが生まれた。手の甲に接吻を受けてから、ずっとリーエルへの視線を外せなかったマリーは、そんな彼の温和な表情にも惹きこまれ、顔中に宿った紅色がなかなか鎮まりを見せなかった。

 当主の席にオスカーが座り、上客の席にはリーエルが腰を下ろしている。そして、そのリーエルと向かい合う形でマリーが席について、晩餐は始まった。
「お恵みをくださった主に感謝を……」
 祈りの言葉をオスカーが発し、しばらくの沈黙が終わると、オスカーの会釈を受けた侍従がワインを運んで、リーエルの前に置かれたグラスにそれを注いだ。
「あまり豪華な食事ではないけれど……」
 公僕であるラドマリフ家の収入は、オスカーに与えられる軍給と、ファルカ領からの租税である。商業によって莫大な資産を持つウェイドルップ家に比べると、その財の規模はかなり劣る。
「いえ……感激しております」
 それでも、リーエルにとっては充分であった。領地をもたないアルマイク家は、リーエルの軍給が収入の全てだから、あまり贅沢な暮らしは出来るはずもなく、注がれたワインも久しぶりに目にするものだ。
「では」
「はい」
 グラスをそれぞれ目線の高さまで捧げてから、二人はそれを口に含んだ。アネッサでは当然、口に出来なかった淡く滑らかな味わいをしばらく堪能した。
 この時代は、当然だが保冷用の装置はない。長期間、食材を保存する最もポピュラーな手段は“燻製”であり、それによって作られたハムやソーセージなどが、主な肉料理として使われている。
 この日、主食して並んだものはやはりハムであった。分厚く切られた一枚のハムが、表面に焼き色をつけられ、モロコシや芋の添え物と同時に用意された。
「これは、柔らかいハムですね」
「半燻製のものだよ」
「なるほど……」
 ナイフですんなりとハムを切り分けられるのは、燻製をされたとはいえ柔らかさが残っているからである。保存期間は短くなってしまうが、肉のうまみと柔らかさが残る燻製の仕方を“半燻製”と呼び、それは食材としては上級のものとなる。
 アネッサに駐留している際、肉は全てが“全燻製”されたもので、故に、肉とはいってもその濃厚な味気や風味は飛んでいて、お世辞にも美味とはいえない代物であった。
 基本的に、軍中の食事は“固い”物が多い。久しぶりになる柔らかい食事は、リーエルに大きな満足を与えていた。
「………」
 談笑しつつ食を進めているオスカーとリーエルの様子を、マリーは眺めている。兄が友人を邸宅に招くのは初めてのことであり、彼女が知らない兄の姿もそこにあった。
(にいさまにとって、あの人はとても大事な方なのね……)
 人当たりは良いが、自分とソシア以外の家人には何処となく距離を置いた感じのあるオスカーに、マリーは気づいていた。それはおそらく、彼がラドマリフの血統を受け継いでいないことへの遠慮があるのかもしれない。
 そのオスカーが、リーエルには胸襟を開いている。それだけでマリーは、リーエルへの好感を更に募らせた。
「マリー様、どうぞ」
「あっ、リーディね」
 ソシアが目の前に、スープの入った皿を置く。“リーディ”と呼ばれるそれは、幾種類もの野菜と鶏肉を長い時間かけて煮込んだスープで、来客があるときなど良く振舞われる料理であった。マリーもこのリーディを、とても好んでいる。
「♪」
 二人に向いていた意識が、リーディに注がれた。そこはやはり、マリーも女の子である。
「これは、味の深いスープですね」
「ソシアが、用意してくれたのかい?」
「はい」
 リーディは野菜と鶏肉を綺麗な布地で包み、ゆっくりかき混ぜながら裏ごしを繰り返してようやく出来上がる。火と、かき混ぜる具合とに微妙な加減が必要とされ、深い味わいを生み出すには熟練が必要となる。
「明日、総帥がお訪ねになるから、そのときもこれを作ってもらえるだろうか?」
「まぁ……とても、光栄なことですわ」
 “ハイネリアの守り神”マファナ公女のことは、遠くファルカまでその名が届いている。その彼女に自らが作ったリーディを振舞うことは、確かに商家の娘としては名誉なことであった。
(にいさまがお仕えしている、公女様……)
 マリーの関心は目まぐるしく移る。久しぶりのリーディに舌鼓を打っていた彼女は、今度は兄が信奉しているマファナ公女の姿を想像していた。
(おとぎ話に出てくる姫様みたいに、美しいんだろうな……)

 ギュル……

「?」
 リーディを味わいながら、そんな空想を愉しんでいたマリーに、悪夢の前触れが襲い掛かった。

 ギュルル、ギュルッ、グロロロ……

(え、あっ……あっ……)
 親しんではいないが慣れ尽くしているその感覚に、マリーはその背筋を凍らせる。時も場合も考えてはくれない本能たちが、こともあろうに食事中にその意思を顕にしたのだ。

 ギュルルッ、ギュゥッ、グウウゥゥゥ―――――……!!

「!」
 一気呵成に“唸り”へと変化した本能の意思。宿主の身体に生じた害毒を体外に吐き出させようと、彼らは己の職責を全うしようとしている。
(こんなときに、それも、こ、こんなところでなんて……どうして、どうして……)
 久しぶりに食卓が華やぎ、兄の楽しげな姿に触れたことで幸福に包まれていたマリーは、俄かに生じた悪夢のような事態に血の気が引いた。

 ギュゥゥゥゥ……ギュルル……ギュルグルグルル……

(あ、ああ……おなかがくるし……くるしい……)
 遠慮なく、マリーに苦しみを与える“便意”。これまでも彼らには散々辱められ、苦しめられてきたというのに、とことんマリーをそのことでなぶらなければ気がすまないというのであろうか。
(ど、どうしよう……どうしたら……)
 食事中に席を中座するのは、甚だしく失礼なことである。しかもその理由が、“糞をするため”となればもう、その人の品性を疑われてしかるべきだろう。

 ギュルル……

(だ、だめぇ……我慢しなくちゃ……)
 選択の余地はなく、マリーは“便意”への抵抗を決意した。もしもこの席にいるのが兄だけであったならば、中座に対して何も咎めることはしないであろうが、今は客人としてリーエルがいる。そんな席で自分が礼を失する行為を行えば、兄の顔にも泥どころか糞を塗りつけてしまうことになる。下手をすれば、
『オスカー様の妹君は、あろうことか食事中に“御不浄”へ行かれた』
という事実が、彼の忠誠心を奪うことになりかねない。それは、マリーにとっては死に値する失態である。

 ギュル……ギュル……ギュルル……

(く、はぁ……う、うぅ……)
 スプーンを握る手に力を込め、力の入りにくい括約筋をそれでも何とか振り絞り、便意の奔流を堪えるマリー。当然だが、この場で全てを開放してしまえば、席を中座するよりも恐ろしい事態となってラドマリフ家に襲いかかることうけあいである。
『オスカー様の妹君は、あろうことか食事中に“脱糞”した』
 その一事は、祖父の代から築いてきたラドマリフ家の輿望を一気に失墜させるに違いない。そうなれば“マリー”という名は、ラドマリフ家の声望を最悪なとことまで貶めた悪魔の如きものとして永劫語られるはずだ。
『糞を洩らしたことで、ラドマリフ家を滅ぼした女』
 ……どうしても家の中にいることが多いマリーは、ソシアが聞かせてくれる御伽噺や、ラドマリフ家に集められている書を愉しんできたことで育まれた、想像力の豊かな女の子である。それが負の方向に果てしなく向いた彼女は、ありもしない“悲劇の物語”を自ら作り上げていた。
「マリー?」
 不意に、妹の方を向いたオスカーは、彼女の様子に気がついた。大好きなはずのリーディもまだ残っている状態で手が止まっており、それがカチカチと震えている。
「どうしたんだい、マリー」
「あ、に、にいさま……」
 便意への抵抗に意識を集中させていたマリーは、オスカーの問いかけを受けると、慌てたように笑顔を作った。
「あ、あの、久しぶりに、にいさまといっしょの晩餐だから、う、うれしくて……」
「そうか……」
 言い訳としてはいささか苦しい気もしたが、オスカーはそれを信じたようだ。少しワインの酔いが入っていることが、彼の判断力を鈍らせたらしい。普段の彼であれば、マリーの様子がおかしくなる理由はただひとつしかないとすぐに気づくはずだ。
「寂しい思いをさせて、すまない」
「い、いいの……お手紙をくれるから、わたし……」

 ギュルゥゥゥ!

「うっ!」
 更に強烈な襲撃を受けたため、声をあげそうになったマリーは必死にそれをかみ締めた。幸いにもオスカーの意識は、一瞬とはいえ他に反れていたようで、そのことについては見られることはなかった。
(あ、はぁ……だ、だめ……くるしい……)
 だが、このリーディを空にしなければ、最後の膳であるフルーツには辿りつかない。マリーは何とか、スプーンでそれを掬うと、口に運んだ。

 ギュルゥ……グル、グル……

(う、うぅ……か、かみさま……)
 主が与えたもうた試練の険しさに、それでもマリーは敬虔な祈りを捧げる。どうか、この“便意”がこれ以上の厳しさを加えないようにと…。せめて、この食事の時間を乗り切れるだけの力を分けてくださいと…。
 儚く健気で、そして真摯な祈りである。だが、神はそんなマリーの祈りを聞き届けることをしなかった。

 ギュルッ、ギュルッ、ギュルル……

(あ、で、出る……か、かみさま、おねがいです、おねがいです、おねが………あ、あっ、や、だ、だめぇ、あ、ああぁぁぁ!!)

 ギュルルルルルル、グッ、グゥゥゥゥゥ!!

「「!!??」」
 食卓一杯に響いた、激しい腸鳴りであった。良く知っている音が響いただけに、オスカーもソシアもその他の侍従たちも、皆が一様にその顔色を変化させたが、時は既に遅かった。

 ブリブリブリブリブリ!! ブビィッ、ブビビビビビ!!

「あ、ぁ、あぁ……」
 マリーの顔が、崩れた。だらしなく口を開け、呆然と目を見開き、その手からは力なくスプーンが零れ落ちている。

 ブバァッ、ブビッ、ブビッ、ブッ、ブビブバブバアァァァ!!

 そして部屋中に響き渡る、鈍く汚らしい破裂音。全てを察したソシアは目を伏せ、オスカーは手にしていたワイングラスを無意識のうちに机の上に置いていた。
(な、なにが……?)
 状況を把握できていないのは、マリーの事情を知らないリーエルだけだ。ただ、耳に不快な音が響いたかと思うと、食事の香りを遮るような悪臭が鼻をついてきたことに、戸惑うばかりである。

 ブビュッ、ブッ、ブブブッ、ブリッ、ブブッ……

「あ、あぁぁ……うあ、うあぁぁ……」
 崩れてしまったマリーの表情が、更にゆがむ。絶望の極致といってよい色に満ちた瞳から、ぼろぼろと涙が零れ出した。
「ソシア、マリーを……」
「は、はい……」
 オスカーの言葉を受けて、ソシアがマリーの傍による。信頼する侍女が肩に触れても、まるでマリーは抜け殻のように身動きもせず、やむなくソシアは彼女の身体を抱えるようにして部屋を出て行った。
「オ、オスカー様……」
 搾り出すように主の名を呼んだリーエル。
『ああぁぁあぁぁぁ! う、うああぁぁぁぁぁ!! わああぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
「!」
 瞬間、部屋の外から絶叫が響き渡った。それは断末魔の叫びに近いものがあり、冷静沈着なリーエルが身震いを感じるほどであった。
「ふぅ……」
 オスカーが深く息を吐く。先ほどまでは楽しそうにしていた彼の表情は、痛ましいほど悲哀に満ちたものに変化していた。
「みんな、下がってくれるだろうか。リーエルと、二人にして欲しい」
「承知いたしました」
 オスカーの後ろに控えていた初老の侍従が、目で合図を出し、この部屋に控えていた家人を全て部屋の外に出す。
「それでは、失礼いたします」
 最後に自分も扉の所で一礼をしてから、出て行った。
「すまない、リーエル」
「あ、いえ……その……」
 立て続けに変化した事態にリーエルは追従できない。ただ、オスカーの妹君に何かが起こって、それがこの沈痛な時間を生み出したらしいということは、あの叫び声に似た泣き声によって理解は出来ていた。
「マリーは、幼い頃に熱病にかかったんだが、その後遺症が脚に残ってしまったんだ」
「あの椅子は、そのために……」
 車輪がついた椅子というのを始めてみたリーエルである。もっとも、その椅子に座っているマリーが、脚に何らかの障害を抱えているのだろうという予測はついていたが。
「体も、少し弱くなってしまってね。……こういうことは、よくあったんだよ」
 急に腹を下し、“御不浄にいきたい”と言い出せないまま粗相をしてしまう。勉学の最中でも、着替えをしているときでも、今日のように、食事をしているときでも…。
「マリーももうすぐ“花飾りの儀”を迎える。実を言うと、リーエルとも話をさせたかった。だから、陪席させたのだが……君にもマリーにも、悪いことをしてしまった……」
 オスカーもまさか、これほど急にマリーが腹を下し、そのまま激しく脱糞してしまうとは思わなかった。ひょっとしたら、リーエルと席を共にしたことで緊張を感じ、それが体調の著しい変化を生んだのかもしれない。だとすれば、この失態は明らかに自分の不手際である。
(そうか、マリー様は……)
 ようやく事態を飲み込んだリーエル。食事の席にそぐわない、鼻腔を痺れさせるほど臭い立つモノを、オスカーの妹君が粗相してしまったのだと言うことに気がついた。
「よいのです、オスカー様」
「リーエル?」
そんな彼の口から出てきたのは、優しい言葉であった。
「それよりも、マリー様が気がかりです。よろしければ、お見舞いをしたいのですが……」
「そうか……部屋まで案内するよ」
「お願いいたします」
 オスカーには意外なほど、リーエルは穏やかだ。食事の席で、とんでもない事態に遭遇し、はっきりいえば“辱めた”にも等しい失礼をリーエルにしてしまったのに。
「ありがとう、リーエル」
「いえ……」
 むしろリーエルは、妹の粗相を詫びるオスカーに恐れ入るばかりであった。
彼としては理由がはっきりしているおり、止むに止まれぬことであったとも察しているから、それをあげつらうつもりなど毛頭ない。また、この一事でオスカーへの忠誠を覆そうなどとは、思いもしないことだった。果たして何度、オスカーに色々なことで救われてきたか、リーエルは数え切れない。
(オスカー様には終生、この命を捧げる)
 リーエルの中にはある意志は、思いがけない事態の中でも揺らぐことなどなかったのだ。


「うっ、うっ……もう……もう、わたしは……」
 夜具を頭から被り、枕を涙で濡らし続けているマリー。その心は絶望に満ち、負の感情で一杯になっていた。洩らした糞の後始末は既に終えているが、もうそんなことはどうでもいいと、マリーは思っている。
 兄が信頼する将校と食事の席と共にしている場所で、こともあろうに糞を洩らしてしまった。兄の面目を潰したばかりか、ラドマリフ家の家名さえも糞で塗りつぶしてしまったのだ。
(わたしは、うまれてきちゃいけなかったんだ……)
 ソシアが優しく慰めの言葉をかけてくれるが、なにも耳に入ってこない。ただ絶望の声に導かれるままに、どのような手段で死を迎えるか、そればかりを考えていた。
「あの、マリー様……」
「………」
「オスカー様が、いらっしゃいましたよ……」
「………」
「マリー、顔を出してもらえないか?」
「………」
「頼む、マリー……」
「………」
 敬愛する兄の言葉を無碍には出来ない。マリーは頭だけを夜具から出し、伏し目で兄の様子を窺った。
「もう、大丈夫かい?」
 こくり、と会釈をする。どんな叱責が飛ぶか懼れていたマリーだったが、優しいままの兄の心根に触れることで、わずかに絶望から救われた気がした。
「無理をさせてしまったようだね……すまない……」
「にいさまは、わるくないの……」
 糞を洩らし、楽しいはずの宴席をぶち壊したのは自分である。激しい自己嫌悪が再び顔を出しかけたマリーの目が、思いがけない人物を視界に捕らえた。
「あ、あっ……」
「マリー様、大丈夫でございますか?」
 穏やかな笑みを浮かべながら、慇懃に頭を垂れているのは、自分の粗相で辱められたはずのリーエルである。まさか彼が、自分の見舞いにくるとは思わず、マリーは驚愕したようにつぶらな両目を見開いていた。
「体調が悪いときに、席を同じくしていただきまして……申し訳ないことを、いたしました」
「そ、そんな! リーエルさま!」
 慌てたように身を起こすマリー。ソシアの声には全く反応せず、オスカーの声にはわずかに顔を覗かせていただけのマリーが、リーエルの“謝罪”の言葉には大きな動きを見せた。礼を失したはずの自分に、その失礼を受けたはずのリーエルが頭を下げるという逆転した行為に対し、マリーは羞恥を忘れて恐縮したのだろう。
「あっ……」
 一度身を起こしてしまうと、どうしようもない。ソシア、オスカー、リーエルの心配そうな視線の中で身を竦ませつつも、もう夜具を頭から被ろうとはしなかった。
「マリー様。お近づきの印に、これを受け取っていただけますか?」
「えっ……」
 不意にリーエルが差し出した手のひらには、押し花があった。
「私の故郷にしか咲かない“ラフメリカ”という花です」
「ラフメリカ……」
「“大いなる希望”という意味ですか?」
 ソシアの言葉に、リーエルは頷く。
「何処にでもありそうな草茎なのですが、時折、思い出したように花をつけます。私の妹が好きだった花で、これを見つける度に押し花にして、私にくれました」
(リーエルにも、妹が?)
それは、付き合いの長いオスカーも知らないことであった。
「さあ、マリー様」
「いいの……?」
「数はあるのです。どうか、受け取ってください」
「あ、ありがとう……ございます……」
 差し出された手のひらから、マリーはそれを両手で受け取った。
(………)
 考えてみれば、兄以外の男性から何かを贈られるというのは初めてのことである。粗相をしたことで絶望が満ちていたはずのマリーは、両手に乗せた小さな白い花から伝わる暖かさにその心を救われた気がした。
「ゆっくりと休むんだよ、マリー」
「は、はい、にいさま……あ、あの、リーエルさま……」
「はい」
「ラフメリカ、たいせつにします……」
「光栄です。妹も、喜ぶでしょう」
 リーエルの微笑みに、ようやくマリーは笑顔を取り戻した。それを見守っていたソシアが、心の底から安堵したように深く息をついていた。

「リーエル、君にも妹がいるのかい?」
 部屋の外に出るなり、知らなかった事実を質すオスカー。瞬間、リーエルの顔に滲んだ陰を見て、オスカーは口元を抑える。
「す、すまない……」
「いいえ、よいのです。妹が天に召されてから、もう5年は経ちますから」
「そうか……」
「生きていれば、ちょうどマリー様と同じ年頃だったかと。……このラフメリカには、妹の願いが籠もっています。“わたしのかわりに、元気をなくした人にこの花を配ってください”という小さな願いが…」
「ありがとう、リーエル。きっとマリーは、元気になれるよ」
 このときオスカーは、ひとつの願いを抱いた。慇懃誠実なだけでなく、心やさしい気持ちも持っているこのリーエルに、妹を託したいという思いである。それはすなわち、自分が“預かっている”ラドマリフの家督を、リーエルになら喜んで譲りたいということだ。
(考えが、早すぎるかな)
 当人同士の気持ちもある。オスカーはそんな自分の急いた考えに苦笑しながら、リーエルを伴ってマリーの部屋を後にした。


 休暇の時間は、穏やかに過ぎてゆく。
 マファナがオスカーの家を訪ねたときは、マリーを含めて家人の誰もが緊張で固まっていたが、高貴な品位を感じさせながら包容力のあるその笑顔に触れるうち、場は和やかなものになった。
 ソシアが振舞ったリーディをとても気に入り、この作り方を是非教えて欲しいと言い出して彼女たちを恐縮させたりもした。
『わたしは小さい頃、料理当番だったのよ』
 マファナが12歳まで市井で暮らしていたことを、家人たちは当然だが知らない。故に、厨房に立ったマファナが手馴れた様子で、教えられたリーディの下ごしらえをしているのを見たソシアは、心底驚いた。
 早速できあがったリーディの一杯目をオスカーに渡し、瞳を爛々としながらその感想を待っている様子などは、何処にでもいる乙女と何も変わらない。そして、オスカーが“とても、おいしいです”と言った後の、本当に嬉しそうな表情は、ソシアの目から見ても愛らしいものだった。
『ほんとうに、素敵な方……』
表情が豊かで、こんなにも可憐な少女が、“ハイネリアの守り神”として崇められていることをソシアはむしろ不憫に思った。
 マリーもすぐにマファナと打ち解けることができた。
『マリー、いっしょに湯あみをしましょう』
 マファナがそう言ってくれたので、マリーは、“今度こそ、粗相がないように”と、入浴の前にソシアに頼んで摘便と浣腸を行い、腹の中を先に綺麗にしてからマファナと共に湯を愉しんだ。効果はあったようで、入浴の最中は腹も下ることがなく、楽しいひと時を過ごすことができた。

 楽しい時の終わりが、近づいてきた。
(明日、にいさまは戦場に戻ってしまう……)
 だからマリーは、わがままを言った。今晩は、一緒に眠りたいと…。少しためらったような表情をオスカーは見せたが、愛する妹の頼みを断ることなどできなかったので、彼はそれを受け入れていた。
「にいさまは、マファナさまのことが好き?」
「うっ……」
 同じ臥所の中で枕を並べ、寝物語を愉しむ兄妹。不意にマリーが、答えに窮するようなことを聞いてきたので、オスカーは困った。
「け、敬愛はしている」
「ずるい、難しいことばをつかって……」
「その人のことを尊敬して信愛を捧げることを、“敬愛”というんだ」
「愛……じゃあ、にいさまはマファナさまのことを、愛しているの?」
「ごほっ……」
 マリーの純朴な攻撃は、オスカーをあっという間に追い詰めていた。滑稽なぐらいに何度か咳払いをして、気持ちを落ち着かせたオスカーは、マリーに言い聞かせるような口調で語りかける。
「マファナ様の下にいる者で、あの方を慕わない人はいないよ。僕も、その中のひとりだってだけさ」
「でも……にいさまは、知ってるの?」
「うん?」
 マリーの話はとりとめがない。
「にいさま、マファナさまにリーディをもらっていたでしょう?」
「ああ」
「リーディには、言い伝えがあるの」
「そうなのか? 知らなかったな。……教えてくれるかい?」
「うん。ソシアから聞いたんだけど、女の人は初めてつくったリーディの一杯目を、好きな男の人に食べてもらって、その人が“おいしい”っていってくれると、気持ちはいつか通じ合うんだって…。ソシアも、初めてつくったリーディは、オリバーにいさまにあげたって言ってた」
「………」
 リーディの密かな伝承は、女の間にだけ語られてきた物語である。オスカーがそれを知らなかったのも無理はない。
 だが彼にとって大きな意味を持つのは、マファナが自分にそのリーディをくれたことである。マリーの言う伝承は、根拠も何もない言い伝えに過ぎないが、マファナがそれをわずかでも意識していたとすれば、オスカーにとってはとてつもない慶事ということになる。
(い、いや……マファナ様は、リーディのことをファルカで初めて知ったのだから、その言い伝えを知るはずがない)
 それは、あまりにも畏れ多い事態である。さすがにオスカーは、楽観的にはなれなかった。
「も、もう遅いから……寝るよ、マリー」
「……うん」
 マリーはまだまだ話し足りない様子であったが、聞き入れてくれた。そんな妹の髪にキスを送ると、オスカーは燭代の蝋燭を吹き消して、闇を作る。

 グル……

「?」
 枕に頭を沈め、瞳を閉じた瞬間、彼の耳は奇妙な音を聞きつけた。

 グルッ、グルッ、ギュルル……

「に、にいさま……」
 救いを求めるマリーの儚い声。それでオスカーは全てを理解した。
「大丈夫だよ。すぐに、用意をするから」
 消してしまったので燭の灯りはないが、幸いにも今宵は月が満ちている。明り取りの窓から差し込む月光が、闇の中でもはっきりと部屋の模様を浮かび上がらせており、オスカーは難なくこの部屋に常備されている木桶を探り当てることが出来た。

 ギュルルッ、ギュルッ、ギュルギュル……

「あ、う……に、にいさま……お、おなかいたい……」
「もう少しの辛抱だ、マリー。すぐ、出せるようにしてやるから」
 木桶をベッドの近くに置くと、すぐに夜具を払って妹の身を起こす。裾をするりと挙げてマリーの下裳を顕にしたかと思えば、それに手をかけて一気に膝の方まで下ろした。
 陰りの全くない、清楚な丘が月明かりに映える。何度も目にしてきた妹の恥部だが、愛らしく美しい部位であるといつも思う。

 グルルッ、ブピピッ!

「あっ!」
 そんなオスカーの感傷を払う、激しい唸りの音。そして、微かに震えた空気の濁り。
「マリー、その……しちゃったか?」
「う、ううん……」
 どうやら、放屁のみに留まったらしい。確かに、下裳を外したマリーの尻の下には、粗相をしたときに浮かび上がる茶色い沁みは出来ていなかった。
(急ごう)
 オスカーはマリーの両膝の裏に手をかけると、小さな彼女の体をそのまま持ち上げた。
「………」
 “M”の字に脚を開いた体勢になって、マリーの愛らしい窄まりが“ぷくり”と盛り上がる。その窄まりの部分を木桶の中心に中る所へ差し向けたとき…
「あっ―――……!」
マリーが限界を超えた。

 ミチミチッ、ヌニュル……

 窄まりの粘膜を押し広げるようにして、意外にも形のあるものがひり出された。
(いつもと、少し違うかな……)
オスカーが、マリーの“それ”にしては珍しく静かなものになるのではと思った矢先である。
「あ、ん、んぅ!」

 ブシャアァァァ! ビチャビチャビチャビチャッ!! ビチャアァァァァ!!!

 マリーの息みに反応して、まるで土砂崩れのような激しい奔流が木桶に向かって叩きつけられた。どうやら形のあるモノが栓の役割をしていたらしく、それを失った排泄器官は一気に、マリーの中で滞留していた淀みを全て押し流していた。
「や、やだ……音、きたないよ……」
「大丈夫さ、マリー。気にすることなんか、ないんだよ」
「ん、う、うん……あ、んっ!」

 ビチャビチャビチャビチャッ! ブッ、ブチュブチャブチャブバァァァ!!

「はぁ……く、ふぅ……はふ……」
 兄の言葉に甘えて、凄まじい音を立てながら木桶に大量の汚物を吹き付けるマリー。場所は自分の部屋ではあるが、きちんとおしりを出して木桶に向かって排泄をしているから、洩らすことに比べれば遥かに心地よく致すことが出来た。体を支えてくれているのが、オスカーだと言うこともあるだろう。
「ん、んぅ!」

 ブリィィィ! ブッ、ブチュッ、ビチビチビチビチビチ!!

 濁った空気が噴出した後、思い出したように土砂崩れが起こる。あっという間に木桶は汚物で満杯になり、凄まじい臭気が部屋の中に充満した。
「はぁ……はぁ……」
「おさまったかい?」
「う、うん……全部、出たみたい……」
「じゃ、綺麗にしような」
 オスカーも、兵学校に入る前の彼に戻っているようだった。久しぶりに、マリーの排泄を世話していることが、彼の精神を過去の意識に戻しているらしい。
「ちょっとの、辛抱だぞ」
「うん……」
おしりを突き出し、べっとりと糞で汚れた状態の窄まりを、自分に向けて差し出す体勢を取らせると、やはり部屋に備えつけとなっている布でその部分を優しく拭い始めた。
 もちろんオスカーも、窄まりの内側の汚れを掻き出すようにして綺麗にすることは忘れない。直腸の粘膜はとても敏感で傷がつきやすいから、丁寧に丁寧にそれを繰り返した。
「ん……」
「あ、痛かったか?」
「ちょっとだけ……」
 少し深いところに、指を入れすぎたらしい。久しぶりだから、そのあたりの加減については感覚が鈍っていたようだ。
「ごめんな」
「ううん。だいじょうぶ……」
 そうしてマリーの窄まりは清楚で愛らしい姿を取り戻し、すぐに下裳と裾を元に戻してベッドの上に仰向かせた。
「お腹、苦しくないか?」
「いまは、へいき」
「念のため、厚布を巻いておこうな」
「うん……」
 夜の冷えは、マリーが腹を下す原因として最たるものである。夜半に催せば、彼女は高い確率で洩らしてしまうから、その小さなおなかを冷えから守る厚布は、風に冷たさを感じるこの時期には必要不可欠なものだ。
「ちょっと、これを片付けてくる。すぐに戻るから」
「う、うん」
 マリーが出した汚物で満ちた木桶から漂う匂いは、蓋をしてもそれが意味を成していない。さすがにこれを部屋に置いたままでは寝ることも出来ないので、オスカーは月明かりを頼りに“御不浄”まで行くと、そこにある肥桶に汚物をドボドボと注ぎ込み、木桶を水場で綺麗に漱いでから、部屋に戻った。
「マリー……?」
 ゆっくりとベッドに戻ると、既にマリーは安らかな寝息をたてていた。どうやら、出すものを出し尽くし、腹に抱えた重みが解消されたことで心からの安堵を覚え、それが睡眠欲の発露を促したようだ。
「おやすみ、マリー」
 起こさないようにそっと、もう一度妹の柔らかい髪にキスを捧げ、オスカーもまた眠りの中に意識を沈ませた。



「にいさま、これを……」
 オスカーがラドマリフ家を後にするとき、マリーが黄色い花の刺繍を施した絹布を差し出した。
「これは、“ソルシア”だね」
「はい。かあさまの好きだったお花です」
「そうか。ありがとう、マリー」
 受け取った絹布を丁寧に折りたたんで、オスカーは胸にしまった。
「あ、あの……リーエルさまにも……」
「私にもですか?」
「こ、これを……」
「あ……」
 やはり絹布には白い花の刺繍がされている。それは、彼が良く知っているものだった。
「ラフメリカ……」
「あの押し花を見て、つくりました」
「マリー様……ありがとう、ございます……」
 両手で捧げ持つように、リーエルは絹布を受け取る。慎ましやかに布の上で咲くラフメリカの姿に、マリーの真摯な想いと、今は亡き妹の願いとが重なって、リーエルは瞳の奥が熱くなった。
「お二人のご無事を……祈っています……」
 そんなマリーの祈りを身に受け、オスカーとリーエルはラドマリフ邸を後にした。
ファルカでの滞在を終え、合流した一団はロンディアに向けて出発した。故郷でゆっくりと過ごしたことで心身を安んじられたのか、彼らの表情は一様に和みを感じさせる。
(守りたいものか……)
 馬車の中で、マリーを想う。緒戦での大敗北で兄を喪い、戦いに怯えたオスカーではあったが、マファナの活躍に奮起を促された。そして、この休暇で彼は戦う真の意味を見出した。
 懸命になるだけでは、視野が狭まるだけだ。全ての行動と行為に、意義と意味を持たせなければならない。
久しぶりにマリーと逢ったことは、オルトリアードと戦うことに大きな意味を彼に与えた。同時にそれは、後にアネッサ侯爵となるオスカーの器量を大きく育てる契機でもあった。


 ―続―


解説 其の参

 皆様こんばんは、まきわりでございます。かねてから要望の高かったオスカーの妹にスポットがあたった第3話でしたが、いかがだったでしょう。
 今回は実に反省の多い物語であります。というのも、伏線を張りすぎる悪い癖が出てしまい、マリーを中心としたお話にするはずが、いまいち焦点がずれ、主人公であるはずのマファナも影が薄くなってしまうという、まさに“二兎を追って一兎も得ず”を地でいく状態になりました。ラヴェッタに至っては、途中で姿を消しています(汗)。
 今回は主に“後始末”に力点をおいたOMO描写を目指しましたが、その分だけ苦しみと瞬間の描写があっさり風味になったなと自覚しています。このあたりに、アマチュア作家としてまだまだ“壁の中にある”という気がします。精進、精進ですね。
 さて、第4話では第三勢力である“ノルティア連邦王国”が登場します。国の名前はしっかりこの話にもでていますが、ノルティアには皆さんもおなじみの“あの人”が住んでいます。僕の悪い癖のひとつに、別の誰かが書いた物語とリンクをさせたがるというものがありまして、それが顔を出した次第です。断言すると、マファナはいっそう影が薄くなりそうです(困)。

 それでは、第4話でお逢いしましょう
 まきわり、でございました。


メルティより

 もうなんと申してよいやら。
 なんですかこのマリーちゃんの最強っぷりは(笑)
 おなかを壊しやすい上に我慢もきかず、おまけにトイレに行くどころかすぐそばにある桶にまたがることすらできないとは。
 まさに下痢おもらしのために生まれてきたような。
 展開としても繰り返されるおもらし、その悲劇性があってこそ、最後のオスカーとの二人きりでの排泄介助が映えてきますね。後始末に主眼を置いたということで、我慢描写が少々弱かった感もありますが、それもまたマリーの我慢弱さを強調していますね。

 第4話は新勢力の登場ということで、女の子も新キャラ登場の可能性が大ですね。期待を込めて待たせていただきます。


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