『ハイネリア戦記』


ロカ・ユリナ・アルバニッツ
マファナ専属の宮廷医であり、今は軍医の一人。クセのある赤い髪がとにかく特徴的。三つ編みにしてはいるが、うまくまとまっていない。かつて“蟲”による寄生病が蔓延し、行政の判断で焼かれたファルターニャ村の出身。避難先で自分を治してくれた医術師の弟子になり、厳しい修行を耐え抜いて、民間の出自ながら宮廷医に推薦されるほどになった苦労人。21歳。


レンダ・フィリオーニ
 ロカの師匠で、世界を渡り歩く女医術師。今はウェルゲイル王国の傘下にある南部フラネリアの出身。竹を割ったようにさっぱりした性格で、どんな奇病・難病にも果敢に立ち向かう正義感の持ち主。この世で最も苦いと有名な滋養酒“コリアーニ”を愛飲しており、病気知らず。36歳。


ティリシア・リノール(ティア)
 ノルティア連邦王国の選王権を持つ、リノール公爵家の子女。この国の倣いに従い貴婦人としての教養を積むため、最も厳しいといわれる聖フラウス修道院に入っている。短い金髪と大きな瞳が特徴の可憐な少女。素直で献身的な性格をしており、修道院でも“天使の生まれ変わり”と言われている。13歳。(※『聖少女の汚れ』より、特別出演)


ロザリア・アインベルク(ロゼ)
 ノルティア連邦王国の選王権を持つ、アインベルク公爵家の子女。この国の倣いに従い貴婦人としての教養を積むため、最も厳しいといわれる聖フラウス修道院に入っている。長い黒髪と深みのある瞳が特徴の理知的な少女。明晰で合理的な性格をしており、同院生の中ではまとめ役となっている。14歳。


アンリエッタ・フォルケンハイム(アン)
 ノルティア連邦王国の選王権を持つ、フォルケンハイム公爵家の子女。この国の倣いに従い貴婦人としての教養を積むため、最も厳しいといわれる聖フラウス修道院に入っている。肩口で揃えた栗色の髪とつぶらな瞳が愛らしい少女。純粋な心根を持ち、人の痛みを感じやすい性格。13歳。


※1
この章節は、お許しを戴き、メルティさんの著作『聖少女の汚れ』とリンクしたものになっています。単独でも話が理解できる内容になってはおりますが、中世ファンタジーOMO小説の傑作と言ってよい『聖少女の汚れ』を一読の後にお読み戴きますれば、よりいっそうの味わいを得られるかと存じます。

※2
文中において『聖少女の汚れ』と全く一致する文章が数多くあるかと思いますが、これは作品世界のリンクを強調するために敢えて使わせていただきました。なにとぞ、御容赦くださいませ…。





第4章 ロカ


『……

「あ、ああぅ……うぅ……ううぅっ!!」

 ブリブバッ! ビチッ、ビチビチビチィィッッ!!
 
腹部を蠢く何かが一気に駆け下ったかと思うと、それはまるで窄まりの抵抗を無視したかのように噴出し、ロカの尻を糞で汚していた。
「レ、レンダ先生………」
「どうしたんだい、ロカ? ……ああ、出たんだね」
「う、うん……」
「そうか。安心しな、すぐに綺麗にしてやるからさ」
隣でずっと自分を見守ってくれている女の医術師が、すぐに泥水のような糞でドロドロになったロカの尻を丁寧に洗い、茶色い沁みが広がってしまったシーツと下布を取り替える。
「ご、ごめんなさい……」
「いいのさ。これだけ色のあるヤツが出るようになったってことは、あんたの体の中に入っちまった毒素が、大分、出ていったってことだよ。もうすぐさ、もうすぐあんたは治るはずだよ」
「先生……」
 本来ならば誰もが忌避するはずの排泄の世話を、レンダは嬉々として行っていた。“医者だから”と彼女は言ったが、ロカが犯されている病の恐ろしさを思えば、その表情は信じられないことだ。
 ロカの故郷であるファルターニャ村は、全てを焼き払われた。彼の地で大流行した“蟲”を根絶やしにするためだ。“蟲”というのは、ヒトの体内に寄生し、養分を吸い取るだけでなく、消化器官を食い破ってヒトを中から殺す恐ろしい寄生虫のことである。
その寄生虫によって命を奪われると言う症例は、3年に1度あれば多い方だ。それが、ファルターニャ村では村人のほとんどが1週間もしないうちに、下痢と嘔吐から始まる消化器官の異常の果てに、下血・吐血を繰り返して死に至るというこの“蟲害”独特の症状を残して死んでいった。
 ハイネリアの行政府はすぐさまこの村の焼却を決定した。生き残りの村人たちは、既に避難先に搬送されていたので、無人と化したこの村はそれこそ草の根まで焼き尽くされたのだ。
 ロカもまた、その蟲によって消化器官を荒らされ、度重なる下痢の症状に体力を奪われ尽くしていた。もしもこのレンダが、研究標本として持っていた数千種類の草花の中から、体内に寄生した蟲を溶かす成分を持っているものを土壇場で発見しなければ死んでいただろう。
 村のひとつを全滅させた“蟲”に対する恐怖は計り知れない。生き残った村人たちも救いの手を充分に差し伸べられないまま衰弱の末に力尽きていき、今ではロカだけが最後の生き残りになった。
(腹を下す“毒草”としか考えていなかった“リカト”に、まさかこんな効き目があるとはね……)
 万策尽き果てたとき、例の“リカト”をロカに服用させたのだが、直後に彼女はまるで噴水のように大量の糞をひり出した。おそらくそれは、大部分が腹の中に巣食っていた虫たちの残骸だったのであろう。それを証立てするように、その大糞出を境にしてロカは快方へと向かっていき、現在に至る。ちなみに、動かせるほどの健康状態をロカが取り戻してからは、彼女はレンダの住む家に運ばれ、その場で治療の続きを受けていた。
「先生は、どうして……」
「うん?」
「どうして、あたしを助けてくれるの……?」
 “蟲害”の恐怖は、レンダが特効薬となる“リカト”を発見してもなお、人々を戦かせている。事実、ロカが運ばれてからレンダの家には、ほとんど誰も寄り付かなくなっていた。
「助けられなかったからさ、あんたの家族も、あの村も……」
「………」
「だから……あんただけは絶対に治して見せる。それが、あの村で、医術師としての務めを全うできなかったあたいの、ケジメなんだよ」
「先生……」

 グリュルル……

「あっ、う―――……」

 ブジャアァァァ! ブジュ、ブジュ、ブビバジャッ!

「ロカ?」
「ま、また……出ちゃった……」
 下腹に蠢きが発生すると間もなく、糞の迸りが起こっていた。
“リカト”の服用以来、ロカの体に続いている反応ではあるが、“蟲”に犯されていた時のものとは違い、出してしまった後は随分と爽快な気分が残る。やはりレンダのいうように、蟲の残した“毒素”が、噴出していく糞と共に体外に吐き出されているのだろう。
「さ、さっきしたばかりなのに……ご、ごめんなさい先生……我慢できなくて……」
「大丈夫だよ。“リカト”が、よく効いてる証拠さ」
 穿きかえさせたばかりの下布を、間を置かない脱糞で汚されたにも関わらずレンダは、それをとがめようともしないで排泄の後始末をする。
「ふむ……」
それだけではない。下布の裏側にべっとりとこびりついた糞の状態を凝視して、ロカの体調を計っていた。
 蟲に犯されている人糞は、木炭のように真っ黒である。しかし、ロカの尻から離した下布に残る糞の色は、まばらに黄土色が混じっていた。
「よしよし、今度のヤツもいい色をしてる」
「そ、そんなに……見ないで……」
「おっ。恥ずかしさが出たって事は、元気が出てきたって事だね!」
「う〜……」
 家族を失い、村を失い、全てに絶望を抱いていたのだろう。ロカは、この家に連れてこられてからも長く、何も喋らず、顔に浮かべず、さながら抜け殻だった。
「よし、これでいいね。どうだい、お腹の方は?」
「今は……なんともないよ……ありがとう、先生……」
 それが今では、洩らした糞を凝視されることに恥じらいを覚え、それを厭わずに世話してくれるレンダに笑顔で“ありがとう”と言えるまでに感情を取り戻していた。
「先生……」
「なんだい?」
「また、旅のお話を聞かせて欲しい……」
「ふふ、いいよ。今日はそうだねぇ……海の向こうの国に、“針”を使って患者の病気を治す医術があったんだけど、その話をしようか」
「うん……」
 いつの間にか母子にも似た絆が、ロカとレンダの間にはできあがっていた。……』


「………」
 転寝から覚めたことで、ロカは自分が眠ってしまっていたことを知った。
(お師匠……)
 久しぶりに、自分の命を救ってくれた恩人にして、医術を教えてもらった恩師の顔を夢で見た。あれは自分が12歳の頃であろう。
オルトリアードと交戦状態にあったときは、夢を見ることさえ稀だったことを思えば、やはり戦闘が停止したことは、彼女の心にも大きな余裕を与えている。
(今は、何処に……いるのだろうか?)
 自分が医術師ギルド(組合)の推薦を受け、ハイネリア公爵家に宮廷医として招かれたとき、レンダは既にそのギルドからはいなくなっていた。また、諸国を巡り歩いているのだろうが、行動が奔放極まりないこの師匠には、伝えたいことがいつも後回しになる。
宮廷医になったことも、マファナのたっての願いで彼女の専属医になったことも、おそらく師のレンダ・フィリオーニは知るまい。宮廷医は行政になんら関わることのない侍従職ではあるが、ロカが平民の出自であることを思えば相当の栄達である。
(あなたに逢ったら……話したい事が、たくさんありますよ)
 いつか訪れる再会の時に思いを馳せ、ロカは微笑む。
 だが彼女もまさか、その“再会の時”がすぐに迫っているとは思いもしなかった―――――。





 オルトリアードが撤退し、ハイネリア公国はひとまずの安寧を得ることが出来た。しかし、長年の悲願であったハイネリア奪取をオルトリアードの王が諦めるとは思えず、軍備を整え、雪解けを待ち、再びの襲来があることは充分に予想できる。
「フラネリアの新王は、相変わらず腰が重いそうだ」
 これからの動きを確認しようという軍議の中、ハインは始めにそう切り出した。
国の外交は行政府が担当しているが、懇意にしている官僚から送られてきた書簡には、ハイネリアがこれまで頼りにしてきたフラネリア王国の冷えた態度が、連綿と恨み言も乗せて書き連ねられており、“あてには出来ない”という悲観的な結論に至っていると言う締めくくりをされていた。
(粘りがない)
 そういう状況でも色々なところから突破口を見出し、じっくりと相手を説得するのが外交であろうに…。実に淡白な行政府の面々に、ハインはため息が出る。
「となると、やはりノルティア連邦王国か…」
「かといって、教皇は我が公国を快く思っていないという、もっぱらの話じゃからなぁ」
「うむ…」
 ハインとアレッサンドロは、ハイネリア独立の経緯を良く知る“宿老組”であるが故にそのあたりの国際事情に詳しい。
…少しばかり、歴史の話をしよう。
 先に述べたが、この世界にはかつて“神聖ラーナ帝国”という強大な統一国家が君臨していた。その頂点に立つ権力者を“教皇”といい、神の代行者という立場を標榜して政治を司り、絶対的な統治者としてあり続けていた。
 もちろん、広大な大地をたった一人の君主で統括することは難しい。教皇の一族や功績のある側近たちを外征によって得た地に封じて“諸侯”とし、帝国はその支配圏を機能的に増加させていったのだ。
 しかし、年を追うごとに諸侯は地力をつけるようになり、帝国の治世が800年を越えた頃になると、それらは独立の気運を多分に持つようになっていた。
そしてついにその諸侯の中で、教皇に判然と反旗を翻した国が現れた。それが、“大戦”の始まりである。
 神聖ラーナ帝国に反旗を翻した“アンティリア王国”は、死して後も最強の将軍と名高いベルフェリウスが率いる強力無比な軍団によって次々と帝国の領邦を奪い、その版図を広げた。果てには、“神都”と称された帝国の都“アル・ラーナ”を陥落させ、アンティリアのゴードル大王は“神は、力あるものにのみその恩恵を授ける”という不遜な言を世に残し、その地を蹂躙した。
 もちろん、力をつけた諸侯の中には“教皇”を篤く信奉している者たちもいる。後にノルティア連邦王国を形成することになるノールラント王家、リノール公爵家、アインベルク公爵家、フォルケンハイム公爵家がそれであり、放逐されたラーナ教皇を保護し、それぞれが自らの領地を“寄進”することで“神聖ラーナ帝国”を復活させた。もっとも、“帝国”というにはあまりにも小規模化した領域を思い、時の教皇・リオン一世は国名を“ラーナ教国”と改め、四王公家に“ノルティア連邦王国”を形成することを薦め、それが果たされると自らその保護下に入った。
 “錦の御旗”を手に入れたノルティア連邦王国は、族外諸侯(教皇から正式に封建されていない諸侯)のひとつであったフラネリア王国からの物資援助を受けることでアンティリア王国に匹敵する勢力を作り上げ、ついにはそれを撃破する。余談になるが、ベルフェリウスの不慮の死は、その時の話だ。ゴードル大王も敗走の途中、熱病にかかりそのまま薨じた。世の人は、“神の鉾に、貫かれたのだ”と囁きあい、教皇の持つ“神気”を敬い懼れた。
 ところで、アンティリア王国はノルティア連邦王国に敗れ去りはしたが、そのときは滅亡には至らなかった。
かの王国に引導を渡したのは、やはり族外諸侯のひとつであったオルトリアード王国で、大戦の最中では中立を表明しておきながら、アンティリアの旗色が悪くなったと見るや、まるで漁夫の利を掠めるようにその国を滅ぼして版図の大部分を手中にしたのである。その後、手に入れた領土は教皇に“寄進”したがそれは表向きのことで、独力でアンティリア王国を滅ぼしたその軍事力を背景に、土地の“割譲”を教皇に迫った。
 もちろん、そんな行動を教皇は認めず、ノルティア連邦王国と言う新しい後ろ盾を得ていることから、圧力にも屈することなどしない。
オルトリアードが渇望していた穀倉地帯は、最も功績のあった四王公家に譲られ、アンティリアを滅ぼしたオルトリアードには、山岳地帯の全てが与えられた。土地の広さを考えれば、オルトリアードは相当の版図を手に入れたことになったが、結局は痩せた地である。もちろん、オルトリアードの王・ウィルトギア2世はこの処置に不満を隠さなかった。
 ノルティア連邦王国とオルトリアード王国との険悪な睨み合いが続く中、突如、フラネリアの王・ユーグ3世が教皇への帰依を標榜し、これ以上、教皇を愚弄する行為を続けるのであればオルトリアード王国に宣戦する意を表明した。これまでもこの二国は、領土をめぐって反目しあうことが多く、幾度か戦火も交えてきたが、ユーグ3世は“教皇”という錦の御旗を尊奉することで、世論を味方につけようとしたのである。
フラネリア王国は、教皇から“封建勅書”を与えられることで正式な諸侯の仲間入りを果たした。それはすなわち、“神の代行者を護る者”という肩書きを得たことであり、世論もフラネリア王国を支持する気配を見せるようになった。ユーグ3世の目論見は、見事に当たったのである。その一方で、オルトリアード王家に縁のある女性を王妃に迎えたところに、この王のしたたかさはある。場合によっては、オルトリアードと手を組める余地を残しておいたのだ。
 孤立感を深めていったオルトリアードにとって更なる痛恨事は、属国であったハイネリア公国の独立表明であった。ハイネリア公爵家は、ラーナ教皇の血流に入る名門中の名門で、その領土もほとんどが肥沃な地であることから、オルトリアードにとっては名も実もある優良この上ない属国だった。それが手を離れたばかりか、敵対しているフラネリア王国と盟約を結んだというのだから、相当に慌てたであろう。
 だが、ハイネリア公国がフラネリア王国と臣従にも似た盟約を結んだことが、実は教皇の気分をも害してしまう。
『ハイネリア公爵家は、我らと始祖を同じくする名門。それがなぜ、連邦の中に名を連ねようとしないのか?』
 つまり、公国が単独で独立したことが気にいらないのである。ハイネリアの“独立戦争”でも完全に第三者を決め込み、“我、関せず”と言う態度を取り続けていた。そしてそれは20年を経た今も続いていた。
「教皇の支持を得るには、四王公家にとりなしを頼まなければなるまいて」
「となると、ノルティア連邦への帰順も念頭に入れる必要はあるな」
「そうすれば、今度はフラネリアが臍を曲げそうじゃのう」
 むぅ、と唸るハインとアレッサンドロであった。
「行政府の動きは?」
「とにかく、ノルティアの四王公家と協議を図りたい意向のようですが……」
「芳しくないのですね」
「はい」
 ラヴェッタとマファナの問いに、ハインは難しい顔をして頷いていた。
「なにか、よいきっかけがあればよいのですが……」
外交に関して閉塞したこの事態を好転させられる妙計は、さしものマファナも思いつかない。こうなれば少しでもオルトリアードの進軍を食い止めて時間を稼ぎ、行政府の奮起を期待するよりないと、彼女にしてはらしくない消極的な思考に終始した。
「申し上げます!」
 その沈滞した空気を払ったのは、思いがけない伝令であった。末席にいたオスカーが伝令を傍に迎えると、一通の書簡と共に彼から言葉を預かり、それを改めてマファナに伝えた。
「聖フラウス修道院より、使者が参ったそうです。これは、その修道院を預かるメリウス修道院長がしたためた親書とのことです」
「聖フラウス修道院ですって?」
それは、ハイネリア公国の北東方面に隣接するリノール公爵領に古くからある、規律の厳しさで高名な修道院のことである。
ノルティア連邦王国は、教皇を奉っていることもあり、国の倣いとして貴族の子女を修道院に入れ、封建的な教養を積ませる習慣があった。その中でも聖フラウス修道院は、古くからの伝統を敬虔に守り続け、王公に連なる貴族の子女であろうとその扱いを形式的なものにはせず、他の修道女と区別なく厳しい規律の中で彼女たちを教え導いてきた。故に、聖フラウス修道院は、慎みがあり教養が豊かな貴婦人を育てるとして、ノルティア連邦王国の社交界ではひとつの“ブランド”になっている。
「修道院長といえば、領邦議会の参議権もあるはず……この使者は、議会の内意を受けてのことなのだろうか? そうでなければ、そのメリウスという男は、反逆の謗りを受けることになるぞ」
 ハインは珍しく、困惑を顕にしながら考えをめぐらせていた。
 ノルティア連邦王国は、教皇を盟主と仰ぐ四王公家の連立によって形成されている国である。複雑な話になるが、教皇はその中にある“ラーナ教国”の君主であって、厳密に言えばノルティア連邦王国の国主ではない。
 連邦王国の国家元首は、連立した四王公家の中から選挙で選ばれる。もちろん、選挙と言ってもその権利は四王公家と、連邦王国に点在する教会組織を束ねている大司教に限られており、それはいわゆる“選王権”と称され、ノルティア連邦では特別なステイタスとして知られていた。
連邦王国としての国政について色々と協議をするため召集される会合のことを“領邦議会”と呼び、国家元首として“王”となった者はその議長を務める。そして、今の議長はノールラント国王・カール1世が務めており、つまり、ノルティア連邦王国の“王”は、このカール1世ということになる。
 修道院長は、選王権こそ所有していないが、領邦議会に参加する権利を有している。それはすなわち、国政を論議する場での発言権を持っているということである。祭政一致を国家政策としていた神聖ラーナ帝国の後継国らしい統治機構といえるだろう。世俗を離れた存在であるはずの教会組織が、国政の一端を担っているのだから…。
「とにかく、この親書に目を通して見ましょう」
 蝋によってされていた封をマファナは解き、丁寧に折りたたまれていた親書を開く。
「………」
そこには、救いを求める切実な祈りと願いが、慇懃この上ない言葉づかいによって連綿と書き綴られていた。



――聖フラウス修道院に異変が起こったのは、二日前のことである。


「おはようございますっ!」
 朝焼けにかすむ山奥の修道院に響いた、澄み渡る可愛らしい声。それは今や、何よりも早く朝を報せる調べとなっている。
「おはよう、ティア」
「おはよう」
 シスターたちも、そんな彼女の声を聞くことによって、目覚めたばかりの淀みに沈む意識を払い、敬虔で透き通った気持ちを湧き立たせるようになっていた。それだけの神聖さが、“ティア”という少女には宿っている。それをシスターたちは、無意識のうちに感じ取っているのだろう。
「相変わらず、ティアは朝が早い」
「あっ……神父様、おはようございます!」
「それに、元気ですね。おはよう、ティア」
 通りがかった初老の男も、朝の“勤め”の、前の“務め”になっている少女とのやりとりを楽しんでいる風であった。
 男は、ラーナ教のシンボルマークである十字架を胸にあしらった黒服を身に纏っている。彼が、この聖フラウス修道院の院長であり、リノール公領の西教区を司っている神父・メリウスである。
「おはようございます…」
「おや、ロゼ。あなたも、ティアと一緒に掃除ですか?」
「二人でやれば早く終わりますから……。その分、わたくしもティアも、お祈りの言葉を覚えられます……」
「ふふ、あなたらしい」
 朝から元気なティアの影のようになって、黙々と箒を左右させている少女もいた。礼拝堂の入り口周りや庭の掃除は、特に当番制を設けるなどの処置をしていないが、彼女たちは率先して奉仕活動に励んでいるのである。
(二人とも、高貴な姫君であると言うのに…)
そんなことに執着もせず、すすんで朝の奉仕を行う二人に、メリウスは感謝の祈りを捧げた。それを受けたティアは、“畏れ多いこと”と慌てた様子で頭を下げ、ロゼは無表情ではあったが真摯にその祈りを受け止めていた。
 “高貴な姫君”とメリウスは言ったが、確かに二人はこの修道院でも一目置かれるほどの血統を持っている。
 ティアと呼ばれていた少女は、ティリシア・リノールといい、その氏姓が現すとおり、ノルティア連邦王国の選王権を持つ諸侯・リノール公爵家の子女である。聖フラウス修道院はそのリノール公爵家の領内にあって篤い庇護を受けているから、本当の意味で特別な存在であった。
 だが彼女は、貴族の生まれとは思えないほど献身的で純真な心根を持っており、質素倹約を頑ななまでに遵守している修道院の生活にも弱音を全く吐こうともせず、敬虔なひとりの修道女としてメリウスや他のシスターたちに師事している。誰が見てもため息が出てしまう鮮やかな金色の髪と、愛らしい純真な瞳も合わせて、この修道院では“天使のような存在”として誰からも愛されていた。
 黙々と箒を振るうロゼもまた、その生まれについては泣く子も黙ってしまうものだ。ロザリア・アインベルクという名の少女は、ティアと同じくその氏姓が示すとおり、ノルティア連邦王国の選王権を持つ諸侯・アインベルク公爵家の子女である。
 元気で溌剌としたティアの対極にあるように無口で黙々としているが、掃除を手伝っていることでもわかるように、その真情は敬虔な精神で満ちている。艶やかで長い黒髪と深みのある瞳の色に加え、落ち着き払った聡明な立居振舞が、傍にいるものに大きな安心感を与え、ティアを始めとする同期の修道女たちから篤く信頼されていた。
「このところ、朝の冷たさが厳しくなってきている。辛くはないかね?」
「大丈夫ですっ! わたし、寒いの気にしていませんから!」
「朝から体を動かしている方が……調子が良くなりますから……」
「ははは、愚問だったようだ」
 メリウスは苦笑を浮かべると、二人にもう一度、感謝の十字を切ってから場を離れていった。
 その後、疎らに集められていた落ち葉をひとまとめにし、掘られていた穴にそれを埋めた二人は、場を一望して掃除の終わりを自覚した。
「どうしたのかな? アン、こなかったね」
「そうですね……」
 早朝の掃除は、始めはティアがひとりで行っていたのだが、いつしかこのロゼが加わるようになり、そしてもうひとり、ティアが“アン”と呼んだ少女もつきあってくれるようになった。約束事にしていたわけではないのだが、このところ毎日のように三人で行っていたものに穴があいたので、ティアは少しだけ心に陰が出来ている。
「アンは……そんな娘では……ありませんよ……」
「あっ、ごめんなさい」
 ロゼの諭すような声に、ティアは胸にかすかに湧いた黒い心を恥じた。ひょっとして、寒くなってきたために起きることを億劫に思ったアンが、朝の掃除を忌避するようになったのでは、と思ってしまったからだ。
 そんなわずかな心の淀みを、ロゼは見逃さなかった。指摘を受けたティアは、友人を疑った狭量な自分の心を恥ずかしく思う。
「主よ……友を疑る心の狭き哀れなる子を……どうか許したまえ……」
 本来なら週に一度の安息日に行う懺悔の祈りを、陽光に向かって捧げるティア。
「主よ……友の真摯なる懺悔の祈りを……どうか聞き届けたまえ……」
その懺悔を聞く立場に廻ったロゼもまた、ティアと同じように胸の前で両手を重ね、友の過ちを分かち合うように祈りの言葉を捧げていた。



「あ、く……うっ……ん、んんっ!」

 ブジュウゥゥゥ! ブビビビビッ! ブジュッ、ブビュルッ、ブビュッ、ブリュッ、ブリュブリュブリブリブリブリ!

「あ、ああ……は、く、ふ……あ、うくっ!」

 ブバァッ! ブビュッ、ブジュッ、ブバッ!! ブッ、ビチビチビチッ!!! ビチャァァァァァ!!!!

「はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……」
 冷たく透き通った空気を切り裂くような、濁り淀んだ噴出音。その音を生み出している少女の愛らしい顔がひどくゆがみ、わななく唇から苦しみに満ちた呼吸が零れると、それを契機にして、醜く汚らしい音が響き渡った。

 ビチビチビチビチビチッ! ビチャアァァァ!! ビチャッ、ビチャッ、ビチャァァァァ!!!

(ん、んぐっ………ど、どうして……こんなに、お、おなか、くだっちゃったのかな……)
 椅子に座った体勢のまま腹を抱え、少女は背を丸くする。この世のものとは思えない苦痛が下腹を走り、まるで流れるようにして何かが下っていくと、それは抗うことも許さない猛烈な勢いで尻の窄まりから弾けて飛び出した。

 グリュリュゥゥ……

「う、あ、い、いやっ……あ、あうぅぅっ!」

 ブリュゥゥゥ!! ブリッ、ブリッ、ブチュル、ブチュル、ブチュルルルルル!!

「くあぁ――……」
 粘膜を裏返すように汚物の奔流が、椅子の下に置かれている陶製の壷に叩きつけられている。それは瞬く間に壷の中を満たし、跳ね返りを椅子の天板に飛ばしていた。
この修道院にある排泄のための場所は“御手洗”と呼ばれているが、設えられている椅子には天板に穴があけられていて、そこに尻を当てるように腰をおろし、汚物を受け止める陶製の壷に向かって座ったまま糞尿をひり出せるようになっている。修道衣は丈が長いので、その裾が床についてしまわないように考えられているのだろう。また、“座る”体勢はしゃがむものとは違い、排泄をするときに尻を丸ごと晒すこともなくなるので、慎みを至上とする修道院の娘たちにはおあつらえである。
「く……ん、んぁくっ!!」

 ブチュルル! ブビュルルッ、ブビュブブッ!! ビチビチビチッ、ビチャビチャビチャアァァァァ!!!

 だが、“音”が全てを台無しにしている。跳ね飛び、弾け、窄まりを破裂させてしまうのではと思う勢いでほとばしる汚物は、後に漂う悪臭も重ねて、“御手洗”を醜悪この上ないものに化していた。少女に罪はないが、結果としてそうなっているのだ。
(い、いたい……いたいよぉ……おなかも、おしりも……いたいよぉ……)
 それにしても凄まじい脱糞である。清楚な修道衣に身を包み、肩口までそろえた栗毛と可憐な瞳の愛らしい少女がするものとは思いたくないほど、汚らしく醜い排泄は治まりを失ったかのように続いていた。
「はぁ……はぁ……これじゃあ、お掃除にいけないよぉ……ティア、ロゼ……ごめん……ごめん……う、ううっ……」
 あらぶる呼吸で下痢の苦痛に耐えながら、それでも少女は友人との暗黙の了解を果たせない自分を懺悔している。この少女が、ティアが言っていた“アン”という娘であった。
 アンリエッタ・フォルケンハイム…選王権を持つフォルケンハイム公爵家の出自である彼女もまた、ティアやロゼと並ぶ名家の子女である。
 ノルティア連邦王国の諸侯は、もともとが敬虔なラーナ教の信奉者であったこともあり、古くから教義に触れることでその高潔な精神を育んできたところがある。その精神の中で生まれ育ってきた貴族たちは、神への奉仕を厭わない心を多分に持ち、アンリエッタもまたティアやロゼのように、修道院の生活に進んで馴染もうとする真摯さを持っていた。
 アンはとても心のやさしい、純な娘である。修道院である以上、生と死にかかわる祭事を主催することは多く、新しい生命が生まれたことを祝う“生誕の儀”では喜びの涙を、喪われた生命に哀悼の意を捧げる“追悼の儀”では哀しみの涙を、まるで当事者のように流していた。人が抱える辛さや痛みを、まるで自分のことのように悼むことの出来る彼女は、公爵家の子女でなければさぞかし高名な司祭になれたことであろう。

 グルルルゥ……

「あ、ま、また……う、ん、んんっっ――――!!」

 ブリビチュビチャビチャァァァ!!

「―――………!!」
 腹のうねりと同時に、壷に向かって際限もなしに垂れ流される泥水のような糞。神職者としての優良な素質は、苦渋に崩れ落ち果てた表情から窺うことなどできそうにない。
(どうして……)
 飛んでしまいそうになる意識の中で、アンはここまで下してしまった腹の原因を探ってみる。思い当たるものが、ひとつある。
「お水が……いけなかったのかな……う、うぅ……」
 起き抜けにひどく喉の渇きを覚えたので、汲み置きにされていた水を手桶にすくって口にした。その後、毎朝の習慣になっている掃除に向かおうとしたのだが、途中でまるで雷鳴のような轟きが下腹から響いたかと思うと、血の気を引くような激しい便意が襲い掛かってきたのだ。
 修道院の敷地内では、たとえ急を告げる事態が起こっても走ることは許されない。アンは、催してしまった強烈な便意が吹き出てしまわないように、滑稽なほどに腰を引いた状態の早足で“御手洗”に向かった。そして、切望していたその場所にたどりつくなり、慌てたように裾をまくって下布を引き下ろし、椅子に腰を下ろした瞬間、天界の大地が崩れ落ちたような排便が始まったのである。一瞬、尻から全てのものが吐き出されてしまったかのように、意識が彼方に飛ぶほど猛烈な排泄の始まりであった。
「あ、う、うぅっ!」

 ブジュバババババッッ! ブリブビッ、ブビビビビィィィッ!!

「く、くるしい……と、とまらないよぉ……」
 それは今でも続いている。
「はぁ、はぁ……も、もうすぐ、朝のお勤めが始まるのに……」

 グルグルグルグルッッ!!

「う、うぁっ!」

 ブリュブバッ! ビチビチビチビチャアァァァ!! トボドボッ、ドボドボドボドボドボ――――……

「あ、あぁ……も……だ、だめ………あ、うぅ、うぅぅ〜〜〜」
 壷から溢れ、床に流れ出てしまうほど大量の排泄物をひり出してもなお、アンの苦しみは治まりを見せる予兆さえ感じさせなかった。



「主よ、人の望みよ、喜びよ……」
 礼拝堂に粛々と染み渡る、重みのあるメリウスの声。
祈りを捧げる冒頭の彼の句に合わせるように、礼拝堂に集った司祭と修道女たちは胸に手を組み、頭を垂れる。そして、神父の唱える聖なる言葉を追いかけるようにして、聖書の文言を輪唱していた。
「主は全てをご覧になり、全てに愛を注ぎ、全てに許しを与えるもの…」
「我らは主のお言葉に従い、主の眼になり、主の御心を紡ぎゆくもの…」
 ティアとロゼも、聖書を見ることもせずに淀みなく暗唱を続けている。難しい言葉が並び、覚えることに一苦労する教義の章節ではあるが、何事にも敬虔で真剣な二人は、メリウスやシスターが驚くほどに教えの言葉を覚え、吸い込んでいた。
「主は言われる。“さあ、われわれは互いに論じよう。たとえあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ”……」
メリウス神父の朗々たる声が響き渡る。その声を真摯に聞き入るティア、ロゼ、そして、他の修道女やシスターたち。
聖フラウス修道院の朝の大切な勤めは、今日も粛々と始められた。聖書に記された主の教えを言葉にして紡ぐことにより、その教えの尊さをもう一度身に沁みこませていくのだ。
「………」
 しかし、ティアの心にはざわめきが生じていた。
(アンが、いない……?)
 いつもは並びあうようにして朝の勤めに励んでいる、愛らしい少女の姿が傍にいないのだ。お勤めが始まる前に、礼拝堂に集った顔ぶれを見廻してみたが、あの綺麗にそろえられた栗毛が何処にも見当たらない。
(ティア……気持ちは分かるけれど……今は……祈りに心を注ぎなさい……)
(ロゼ……)
 隣に座るロゼから窘められる。
(でも……)
朝の勤めが始まった以上、それに集中することが修道女である自分たちの務めであるという彼女の言い分はわかるが、自分たち以上に深く静かにそして真剣に祈りを捧げるアンがこの場にいないと言うのは、明らかに事態の異常さを伝えていて、ティアはどうしても身を入れて祈りを捧げることができなかった。
 そんなティアの身に、祈りを妨げるさらなる試練が襲い掛かる…。

 ギュルルル……

「えっ……?」
 地の底から湧き上がるような、くぐもった鈍い唸りが始まりの旋律であった。その源は、黒い修道衣によって覆われている、彼女の下腹にある。

 グルル…グルル…グルッ、グルグルグル……

(お、おなかが急に……あ、あっ……)
 まるで理を知らぬ獣のように、静謐で清浄な空間に響く異音。もちろんその音は、礼拝堂で静かな祈りに意識を捧げている皆の耳に、はっきりと入っていた。

 ギュルッ、キュルルルッ、ゴロロロロ……

(な、なんで……ま、また、お勤めの時間に、こんな……)
 濡れ雑巾を引き絞るような蠢きは、ティアにはっきりとした苦しみを生み出した。敬虔なラーナ教の信徒であるティアに絶望の旋律を与えた悪魔の名は、“便意”である。

 グルルッ、グルルッ、グウゥゥゥ……

(だ、だめっ……おなかが……おなか、が……)
唸りと同時にその悪魔が腹の中をごろごろと這いずり回り、徐々に下っていく。そしてそれは、ティアの清楚な菊花に偽りの咲き頃をささやき、花の開きを峻烈に促してきた。
(あ、やっ……く、くるしっ……うっ!)

 ゴロロロロッ、グッ、グウウゥゥゥ――――……

「ん?」
 祈りの節が一区切りを終え、礼拝堂の中に完全な沈黙が降りた瞬間、まるでそのときを狙い済ましたようにティアの腹が鳴動した。その音に反応したメリウス神父は、出所を探るように視線を彷徨わせている。
 しかし、いつまでも間を置くわけには行かない。メリウス神父はすぐに新たな十字を胸の前で切ると、第二節の祈りを始めた。
(あ、ああ……)
 不審に眉をひそめる神父の姿を視界に入れたとき、かつて味わった途方もない悪夢がティアの中で蘇っていた。
 この苦しみは、初めてではない。なぜならティアは、この修道院に入って間もない頃、礼拝堂の中で同じように強烈な便意を催し……そのまま洩らしてしまったことがあるのだ。
そうだ…。この尊き神の器である礼拝堂の中で、醜悪の権化といってもよい“糞”を洩らしたのである。もちろんその音は、メリウス神父や先輩のシスターたちにも間違いなく聴かれていた。
 それだけではない。礼拝堂を飛び出したティアは外に出るなり完全なる限界を迎え、どうにもならなくなった挙句、あろうことかそのままいつも朝早くに掃き清めている生垣と雑草に囲まれた一本の樹の陰に身を隠し、尻を沈めて、洩らしてなお止まぬ便意をあらんかぎりの力を込めて噴出した。
そうだ…。尊び敬われている公爵家の子女であるティアが“野糞”をしたのである。
あるまじきことに、修道衣の裾をまくりあげてそのお尻を丸ごと野天に晒し、清楚な窄まりを限界まで盛り上げて、ほとんど泥水と化していた糞をまるで草木に叩きつけるようにして撒き散らした。自分が誠心込めて掃き清めた場所を、自分の手で侵し汚し尽くしたのだ。聖フラウス修道院の歴史を見つめ続けてきた庭木も、乙女の凄まじい“脱糞劇”というものに初めて遭遇したであろう、
そして、“脱糞劇”を目の当たりにしたのは樹だけではない。お勤めの最中にティアの様子がおかしくなったことを気にかけていたメリウス神父が彼女を追いかけるようにしてやってきたのだが、彼はまさに“その瞬間”に出くわした。
そうだ…。ティアはメリウス神父の目の前で窄まりを全開にし、噴水のように溢れ出る糞をビチビチとひり垂れていたのだ。
その神父が、穏やかな表情でティアの行為を許し、綺麗にするための布を手渡してくれなければ、羞恥と罪の意識に苛まれ、誰にも何も告げずに彼女は修道院を出奔して実家に戻り、ひっそりと寡婦のまま“粗相の記憶”に苦しんで一生を終えていただろう。
週に一度の懺悔の時間において、ティアは最も罪悪なものとして“礼拝堂での脱糞”を告白した。礼拝堂での“腸鳴り”と“おもらし”……メリウス神父の目の前で“野糞”……そして、懺悔での“脱糞の告白”……いうなれば“四重恥”を1週のうちに味わったわけであり、それはティアにとっては地獄のような時間であった。

 ギュルロロ……グルル……ギュルゥゥ……

 その記憶がようやく薄れ掛けてきた頃の、この便意である。どうやらティアは、神よりはむしろ悪魔に、よほど気に入られたらしい。

 グルルルッ、グルッ、グルッ……

(うっ……い、いやっ……ま、また……あんなことになっちゃったら―――)
 太腿をより合わせ、必死に擦り合わせて、悪魔の咆哮が噴き出しそうになる窄まりを引き締めるティア。奥歯を必死にかみ締める力は全身にも伝わり、カタカタと小刻みな震えを彼女の体に生み出していた。

 ギュウゥゥゥゥ――――……

(ひっ、ひあっ――――!)
 便意の増幅は、前回の悲劇の比ではない。悪魔の手先が次から次へとティアに開放の囁きを浴びせてくる。
『苦しみに抗うことはない。全ての力を抜きなさい。そうすればあなたはこの上ない至上の快楽を得られるでしょう……』
 その後に訪れる恥辱についてはおかまいなしである。悪魔の手先は今このときの快楽を貪ることに躍起になっているのであって、以後のことには頓着していないのだ。
(か、神さま……神さま……)
 悪魔の手先たちの囁きから逃れるために、必死に神に祈るティア。修道院で最も敬虔な心根を持っているといわれる彼女だが今やその祈りは、腹の中で暴れ回っている悪魔をなんとかして欲しいと言う我欲に満ちたものとなっていた。状況を思えばそれも仕方がないことであるし、神もティアは責めないだろう。なぜなら、神は全てを許すのだから…。

 ギュルッ、ギュルルッ、ギュルロロロロロ!!!

(あ、あっ、も、もう、でちゃう―――――………!!!)
 だが悪魔の封印は、遂に解かれようとしていた。人の持っている理性の限界を、ティアは己の体で存分に思い知らされた。

 ビチビチビチビチビチ! ブリブリブリブリッ、ブジュババババァァァ!!

「……!!」
 ティアの耳が捉えた、かつて体験した汚らしく醜い破裂音。
「……っ?」
しかしそれは、自分の尻から迸り出る汚物が起こした音ではない。なぜなら、限界が訪れたと思ったティアの便意は、まるで新しい封印を施されたかのように腸の奥へ押しあがっていき、かすかな小康状態に入ったからである。祈りが届いたような奇跡が、起こったのだ。
 だが、確かにティアの耳には音の刺激が残っていた。そして、漂ってくるように嗅覚を刺激してくる“臭い”を、ティアの感覚神経は嗅ぎ取っていた。
そしてそれは、ディアだけではない。

 ざわ…

 祈りの言葉を除いては、神聖な沈黙を保っていた礼拝堂であるが、それが一瞬にしてざわめきに包まれた。メリウス神父の表情にも明らかな不審が浮かんでいたが、何があっても始めた祈りの言葉を途中で止めることは不敬この上ない行為であるから、彼はそのまま文言を謳い続けている。代わりに、彼の補佐を務めている女性の司祭が、礼拝堂内のざわめきを抑えつけるように、厳しい眼差しでシスターや修道女たちを牽制していた。
 その視線に怯えたように、ざわめきは俄かに静まり、祈りの声の輪唱が再び始まる。
「………」
 ティアもまた、これまでの便意を忘れてしまったように祈りに集中しようとした。
 その瞬間である―――。

 ブビブビブビッ、ブブブブッ、ブビュルル! ブビブブブブチュビチビチビチビチ!!

「!?」
 またしても轟き響き渡った、独特の破裂音。しかも、まるで何か布で遮られたようにくぐもったものに変化もしていた。
(ま、まさか……)
 今度はその出所をはっきりと捉えることが出来た。ティアがその視線を向けた先には……。
「あ、あ……あぁ……」
 普段は無表情この上ないはずのロゼが、まるでこの世の全ての絶望を一身に負ってしまったかのような、青い顔をして震えていた。


 時は少し、遡る――。


(ティア……気持ちは分かるけれど……今は……祈りに心を注ぎなさい……)
(ロゼ……)
 アンを心配するティアの気持ちは痛いほど分かる。しかし、それに気を取られすぎて、大切な朝のお勤めを疎かにしてしまうことは、この修道院で教えを受けている身としてはあまり褒められたものではない。
(アンのことは……このお祈りが終わってから……)
と、考えているロゼ。しかしそれは、彼女が冷血だということにはならない。ロゼは、礼拝堂に入りお勤めが始まってしまった以上、この場を中座することは余程のことがない限りは不可能なので、それならば祈りに集中した方が合理的だと判断したのだ。
(アンリエッタ……)
 彼女が友人に冷たくないと言うことは、声にならなかったその呟きが語っている。本当はロゼも、お勤めの時間になっても姿を現さないアンのことをとても心配していた。アンが朝のお勤めをすっぽかすなど、聖フラウス修道院にやってきてから一度もないことだったからだ。
(きっと……寝坊をして……しまったのでしょう……)
 真面目で心やさしいアンは、時折思い出したような失敗をする。掃き集めた落ち葉を置いておく穴にそのまま落っこちてしまったり、修道衣の裾を踏みつけて転んだりすることがそれだ。恥ずかしい姿を晒して涙ぐむアンを、ロゼはティアと一緒に何度もあやして慰めてきたものだ。
(ああ……わたくし……ティアのことをいえません……)
 いつの間にか祈りを忘れてアンのことに没頭していた。それを戒める十字を小さく胸の前で切ってから、ロゼは再び手を組んで祈りの言葉を口にしようとした。
 その時である。

 グルルルル……

(………)
 不快な鳴動が、確かに腹の底で響いた。ロゼはそれに対してさえも始めはまるで“我、関せず”とばかりに気にも止めないでいたのだが…。

 ギュロォ……ギュルッ、グル、ゴロロロ……

「……っ」
 滲むような苦しみも重ねてやってきたために、さすがにその眉がよじれた。
「主は許したもう、咎ある行いの全てを……主は救いたもう、闇来りし世の全てを……」
それでも祈りの暗唱を止めない所に、この娘の我慢強さは集約される。むしろ祈りに集中することで、体を俄かに蝕み始めた不快なものを忘れようとしていたのかもしれない。
 だが、事はそう思惑通りに運ばないのが世の常だ。

 ギュルルルルルッ! ギュロォッ、ギュルロロロロ!!

「っっ!」
 祈りの言葉に満ちた敬虔な精神が、吹き飛んだ。それほどに激しい“便意”が、ロゼの腹の中で渦を巻き嵐と化したのである。
(なぜ……このようなときに……なぜ……)
 表向き、ロゼは思うほどの変化を見せていない。だが、音を立てないように気をつけながら忙しげに足を踏み鳴らし、太腿を何度もよじり合わせているその姿を見れば、迸ろうとしている“便意”を彼女が我慢していると、誰も目にもすぐにわかるだろう。
(確かに……最近……していないけど……)
 致しているところがほとんど他人に見えてしまう、修道院の“御手洗”には、さしものロゼも慣れていない。故に、“大”の方に関しては本当に切羽詰るまではその使用をさけていたのだが、それが一気にやってきたにしては尻の出口に集まってきた不快感は形を保っていないように思う。
(あっ……く……)

 ギュルル……ゴロロ……ゴロゴロゴロ……

(お、お腹を……壊したというの……?)
 少しでも力を緩めれば窄まりが全開になって、全てがぶちまけられてしまいそうなほど安定度のない流体物がロゼの窄まりに集中していた。

 ギュルロロロ……グウゥゥゥゥ――――……

(しゅ、主よ……う、くっ……)
 背筋が凍りつくほどの便意が駆け下りてきた。背をピンと伸ばし、窄まりを椅子に強く押しつけてその奔流を押し留めようとするが、激しく乱れた流れをせき止めようとすれば、かなりの無理がそこに生じることになる。

 グルルルルルル!! ギュロロロロロロォッッ!!

(う、ううっ……お腹が……痛すぎます……く……苦しいです……痛い……痛い……)
 内側からまるで膨張するような刺激を下腹に受けたロゼ。ガラスの花瓶などを作る際、熱し解かされたガラスの塊に刺した筒から空気を送りすぎて、破裂してしまった瞬間を彼女は想像の中に見ていた。
アインベルク公領には良質の石英が取れる山があるので、ガラスの生産は国家事業として奨励されている。技術のある職人も多く、“アインベルクのガラス細工”は美術品としても高い評価を受けていた。
父のアインベルク公に連れられて、そんな職人の働く作業場を見学したこともある。ガラス職人の見習が“膨らまし”に失敗してガラスを破裂させてしまった様子は、その時に目にしたものだ。

 ギュルギュルギュルギュル!!

「ひっ!」
 ロゼに感傷を許さない、下腹の鳴動。奇しくもそれは、メリウス神父の祈りの一節が一区切りを終えたところで発露したため、荘厳で粛々とした沈黙が満ちていた礼拝堂の中に高く響き渡った。
「ん?」
その音に反応したメリウス神父は、出所を探るように視線を彷徨わせている。
(あ、ああ……神父様に……気づかれて……)
 絶望がロゼの血を冷たくする。しかし、怪訝な表情を見せたものの、いつまでも間を置くわけにはいかないと思ったものか、メリウス神父はすぐに新たな十字を胸の前で切ると、第二節の祈りを始めた。
(よかった……)
 せめぎあう便意に苦しんでいることを、神父に気づかれなかった。祈りの時間をけがすように不気味な音を腹から響かせていることを誰かに責められたら、さしものロゼもその羞恥に耐えられないだろう。
 気づかれなかったことに、彼女は安心した。だが、その“安堵”がロゼに悲劇を招いた。

 ギュルルルルルルルル! グルロロロロロ!! グウゥゥゥゥゥ――――……!!!

「う、ううぅぅ!?」
 空前絶後の圧力が、ロゼの括約筋に襲い掛かってきた。中で滞留し氾濫していた濁流が一気呵成にロゼの窄まりに押し寄せてきたのだ。
(ダ、ダメ――――い、いまは……いまは、ダメですぅっ、う、うぅぅぅ!!)
彼らにはロゼの状況に対する配慮はおろか、容赦する気持ちなど、なにひとつとしてない。

 ブッ、ビチッ……

(あっ――……!?)
 洩れた空気に濁りがある。“まずい”と、思ったときは既に限界を超えていた。

ビチビチビチビチッ! ブリブリブリブリッ、ブジュババババァァァ!!

(あ、う、う……そ……)
 空気を引き裂く峻烈な音が尻の間で弾けると、質量のある違和感でたちまち満ち溢れ、何かがべっとりと尻に張りつく感触が生まれた。
(わ、わたくし……わたくし……)
 逃避したくとも逃れられない確かな不快感。ロゼの明晰な頭脳は確信したくない現実を、無情にも彼女にありありと教えていた。“糞を洩らした”と、いうことを…。

 ざわ…

祈りの言葉を除いては、神聖な沈黙を保っていた礼拝堂であるが、それが一瞬にしてざわめきに包まれた。
「………」
メリウス神父の表情にも明らかな不審が浮かんでいたが、何があっても始めた祈りの言葉を途中で止めることは不敬この上ない行為であるから、彼はそのまま文言を謳い続けている。代わりに、彼の補佐を務めている女性の司祭が、礼拝堂内のざわめきを抑えつけるように、厳しい眼差しでシスターや修道女たちを牽制していた。
(あ、ああ……申し訳……ありません……わたくし……わたくし……)
 その原因になっているのは、ロゼである。それは彼女も、いやというほど自覚していた。
(ど、どうしたら……礼拝堂で……わたくし……粗相なんて……どうしたら……)
 荒れ狂うロゼの理性。神聖なる朝のお勤めを阻害するその行為は、どう考えても神への冒涜に等しいものだ。
(こ、こんなこと……こんな、こと……どうしたら、どうしたらいいの……)
敬虔であるがゆえに、更なる絶望がロゼの胸には吹きすさぶ。

 ギュルルル……

(あ……ま、また、で、でるっっ!)

ブビブビブビッ、ブブブブッ、ブビュルル! ブビブブブブチュビチビチビチビチ!!

(あぁ―――………)
 第二波の訪れにあっさりと屈し、ロゼは最初の音を更に乗倍した排泄の旋律を高らかに響かせた。

 グブッ……ブニュッ、ニュルニュル……

「あ、あ……あぁ……」
下布を一杯に満たした糞に向かって改めて放たれた汚泥が、これでもかというほどに中で盛り上がり、潰れ、ロゼの尻をドロドロに汚してゆく。
(わたくし……わたくし……)
矢継ぎ早に襲い掛かってきた絶望的な状況に屈服したロゼは、普段の聡明さが嘘のようにガタガタと身を震わせ、糞を垂れながらその首もガクリと垂れてしまった。


(ロ、ロゼが、オモラシ……しちゃったの……?)
 すぐ隣で響いた、くぐもった音。そして、漂ってくる独特の臭い。そして何より、あのロゼの、まるで魂が体から遊離したようにがっくりと俯いている姿…。
 全ては状況証拠に過ぎないが、それだけでも裁判府に告発するには十分な要素が揃っていた。
『ロザリア・アインベルクは、神聖なる聖フラウス修道院の礼拝堂において粗相をし、神を冒涜した……』
 当然これは、ティアの妄想である。ノルティア連邦王国の裁判府が扱う問題は、四王公家の中で調停が必要な事態に限られることで、王公領内の煩瑣な事件はそれぞれの行政府が統括し対応する。そもそも、礼拝堂で糞を洩らしたことが告発の対象になると言うのであれば、ティアは既に被告となっていなければならない。

 ざわ、ざわ、ざわ……

(な、なにかしら今の……なんだか、とてもはしたない音だったわ……)
(ね、ねぇ……その……に、臭わない?)
 二度目の破裂音を聞きつけた修道女たちが完全に祈りから意識を奪われ、それぞれに顔をつき合わせて不審を視線で語り合っている。あの目つきが鋭い女司祭の窘めも効果はなく、朝のお勤めには、はっきりとした乱れが生じていた。

 ギュルルルル……グウゥゥゥゥゥ……

「!?」
 俄かに沈静していたティアの腹部で再び鳴動が始まる。
(ま、また、きた……う、ううぅっ!)
心配そうにロゼのほうを窺っていたティアだが、苦しみが一杯に満ちたその蠕動を体に浴びるとその顔は一瞬にしてゆがみ、俯いて下腹を抑えて震え出した。

 グルルッ、グルルッ、キュルルル……

 グロロロッ、ゴロッ、ゴロロロロ……

 ギュロォ、ゴロゴロ、ギュゥゥゥ……

 ゴロロロッ、ゴロッ、ギュルロォ……

 グルグルッ、ギュルルッ、ギュル……

 それだけではない。まるで、一斉奏楽を鳴らすように礼拝堂のあちこちから不気味なうねりが轟いた。
(な、なにが……なにが、起こってるの……あ、あぁ……)

 ギュルロロロ! ゴロッ、ゴロゴロゴロゴロッッ!!

(う、うぅぅっ! い、いや……こんなの、いやぁ……)
 その音のひとつを担っているのはティアである。だが、自分の内側から起こるものとはまったく別の方向から、同じ音が聴こえてくるのも事実だ。

 ブチュッ、ブリブリブリ……ブボッ、ブブッ……

「う、ううぁぁ……ああぁぁ……」
(ロゼ……)
 隣で真っ先に粗相をしてしまったロゼは、俯いたまま身を震わせ、止まる様子もなく脱糞を続けている。差し伸べたい救いの手ではあったが、ティアの両手は震え唸る下腹を撫でさすり宥めることで精一杯であるため、どうにもならない。
(友だちが苦しんでるのに……わたし……わたし……)

 ギュロロロロォォ―――……

(う、うくぅぅ! だめっ、だめっ……!!)
 いよいよ臨界を迎えつつあるティアの便意。ロゼに向けられていたかすかな意識はその便意によって完全に失われ、差し伸べたい手も、弾け飛びそうになる窄まりを抑えることに使われてしまった。

 ギュルルルル、グルッ、グルッ、グウゥゥゥ……

(で、出る……も……がまんが……だ、だめ……)
「か、神様ぁ! ……あっ、あ、あっ、あああぁぁぁ――――……!!」
(!?)

 ブリブリブリブリッ、ブブッ、ブリビチャビチャビチャアァァァァ!!!

 三度、礼拝堂に響いた脱糞の音。そしてそれは、ティアが起こした音ではない。
「きゃあぁぁぁ! エ、エマ先輩が―――……!!」
「どうしたのですか? いったい……」
メリウス神父はついに祈りの言葉を止め、異常な事態が起こっている今の状況に大いなる不審を抱き、司祭と顔をつき合わせた。

 ガタン!

 その矢先である。神父の目の前にいたひとりのシスターが、バネ仕掛けのように立ち上がったかと思うと…、
「し、神父様、も、申し訳ありません!」
「シスター・カトリーヌ?」
「わ、私、御手洗に―――……も、もう我慢できないんですぅぅっ!!」
シスターとしての慎みも忘れて、礼拝堂の中をおもむろに駆け出したのだ。
「きゃっ……!?」
 だが、余程に慌てていたのか、そのシスターは自ら裾を踏みつけてしまうと、床の上に這い蹲るようにして転倒してしまった。
「あっ、だ、だめっ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ブボオォォォォッ! ブビッ、ブバッ、ブリブバブバァァァ!!

「ああぁぁ……」
 瞬間、彼女は右手で尻を抑えたが、その部分から壮絶な破裂音が響いた。結局、そのシスターはそのまま崩れ落ちるようにして床に倒れ伏してしまった。
 シスター・カトリーヌが不慮の行動を起こす前に破裂音を響かせた“エマ”という修道女の周囲には、既に人の輪が出来ている。倒れてしまったカトリーヌの周りにも、すぐに同僚のシスターたちが駆け寄ってきて、瞬く間に二つの人の輪が礼拝堂の中で出来上がっていた。
「エマ先輩!」
「カトリーヌ、どうしたの! しっかりして、カトリーヌ!!」
 いよいよ、騒動が本物になった。だがそれは、更なる異変の前触れに過ぎない。
「う、うぅっ、あ、あたしも、もうダメェェェ!」

 ビチビチビチビチビチッ、ビチブバビチャァァァァァ!!

「リリア、あ、あなた!?」
 更なる狂気の轟音が、ティアの前に座る修道女たちの列の中で起こった。
(あ、ああ……ま、まさか……)
 グルグルと鳴る腹を抑え付け、額に汗を浮かべ悶絶しながらティアは、異常な事態の続発に揺れる礼拝堂の状況を思う。
既にメリウス神父や他の司祭たちは段の上から降り、出来上がっている人の輪にそれぞれ身を入れて状況の解明に腐心しているようだが、隣のロゼと目の前の“リリア”と呼ばれた修道女、そして、自分の腹に起こっている異常事態を考えれば、その答えを用意に導き出すことが出来た。
(エマ先輩も……シスターの、カトリーヌさんも……リ、リリアまで……みんな、おなかを……おなかをこわして……オモラシを……あ、う、うぅぅっ――――……!!!)

 ギュルルルルルルッッ! グウッ、グウゥゥゥゥゥゥ!!

「う、ううぁぁあぁぁ!」
 連鎖反応式に起こった脱糞劇に、とうとうティアも…
「も、もうダメッ、でるっ、で、出ちゃ――――……ああぁあぁぁぁぁぁあぁ!!」

 ブリュババッ、ブビブビブビッ、ブビブビュビチビチャビチャビチャアァァァァ!!!

「ああぁあぁ――――………」
 引きずり巻き込まれてしまった。
(し、ちゃった……オ、オモラシ……わたしも……この前みたいに……きたないの……出し、ちゃった……)
不意に訪れた最大波を受け流すことができずに、何とか堪え踏ん張っていた窄まりがとうとう全開状態になってしまったのだ。そこに大挙して押し寄せた便意はそのままティアの体外へと噴出されてゆき、またたく間に下布を糞まみれにして、世にもおぞましい感触をティアのお尻にばらまいた。

 ブリュブブッ、ブボボッ、ブビッ、ブバッ、ブリブバブバァァァ!!

「う、く……ふ、う、うぅ……」
「ティアさん!? あ、あ……ティアさんまで!?」
 左隣に座る修道女が口元に手を抑えながら、ティアの方を見る。音と臭いで全てを察したように、その娘の顔には明らかな不快の表情が張りついていた。

 ビチビチビチッ、ビチチッ、ビチビチッ、ビチュッ、ビチュッ……

「ウッ、く、臭い……臭いわ……」
「う、うぅ……み、見ないで……う、ううぅぅ……」
その視線を受け止めながらティアは、迸るようにして形を持たない便意をぶちまけていた。
 限界を迎えたのは、ティアだけではない。
「だ、だめっ、も、もうだめっっ!」
「ああ、あああぁぁ! で、出るっ、出るッ、出、出ちゃぅぁあぁあぁぁぁあぁあぁ!」
「そ、そこをどいて! 御手洗に、行かせてぇ! も、もうでちゃうっっっ、あ、あっ……い、いやぁあぁぁぁぁ!!」
 礼拝堂で始まった悪夢のような奏楽はいよいよ本番を迎えたように、あちらこちらで脱糞の音が木霊する。

 ブリビチャ、ビチャビチビチビチビチビチ!!

 ブブッ、ブビブボブボボボボッ、ブリブリブリブリブリィィィ!!

 ドバァッ、ブバァッ、ブビッ、ブブブッ、ブビブバブバァァ!!

 崩れ落ちた礼拝堂の厳粛さ。我慢の限界を超えたらしいシスターや修道女たちが入り口に押し寄せるが、皆、その扉にたどり着くことも出来ずに、一様に尻から汚らしい轟音を響かせて、その場に崩れ落ちていった。
 阿鼻叫喚の地獄絵図。漂う悪臭、そして、響き渡る唸りと爆音。
「な、なんと、おぞましい……」
「主よ……主よ……」
「い、祈る暇があるのなら、早く皆を運ぶのです!!」
 目つきの鋭い女司祭の言葉も届かないように、その場に立ち尽くし呆然としている娘たち…。
「早く――――!!」
 礼拝堂に高く響いた女司祭の声は、それでもなお彼女たちを動かすまでには至らなかった…。



 シスターと修道女が合わせて8人。後になって、同じような異常を訴えだした者が6人。更にそれは、夕方になると2人増えた。
 修道院にはメリウス神父と二人の司祭、シスターが6人、修道女が14人いるが、実にその半数以上となる16人の娘が止まらない下痢に苦しみ、息も絶え絶えになってベッドに横になっている。幸い、修道院の責任を預かっているメリウス神父と二人の司祭は無事であった。

 グルルッ――――
ブリッ、ビチャッ、ビチャビチャビチャアァァ!!

青ざめてベッドに横たわっている娘たちだが、思い出したように腹鳴りが響くと、まるで条件反射のごとく身を起こし、裾を捲り上げて、脇に置かれている木桶にまたがるなりすぐに壮絶な排泄音を響かせていた。ベッドの脇に木桶が置いてあるのは、彼女たちが便意を催した瞬間が同時に我慢の限界のときであり、とても“御手洗”まで辿りつけないだろうと判断されてのことだ。

 ブリブリブリッ、ビチャッ、ビチャアァァァ………

花も恥じらう年頃の乙女が、周囲に人がいる中でぺろりと尻を晒し、排泄の音を響かせているわけだが、苦しみの中で朦朧としている意識は羞恥を二の次にしてしまっているようで、娘たちは何度も何度も何度も木桶に尻を沈めては迸る液便を底に叩きつけていた。
 ティアとロゼも、その中にいた。“御手洗”の中でほとんど失神したような状態になっていたところを保護されたアンリエッタも運ばれている。
「いわゆる、“水痢症”というものだよ」
 聖フラウス修道院の近くに住む医術師、レンダ・フィリオーニは、下痢便を木桶に叩きつけている娘たちの様子と、次から次へと運ばれてくる泥水のような糞の状態を見てすぐに診断をくだしていた。
「汲み置きの水に、腐食菌が入り込んだのさ。水あたりのひどいものと言えば、わかりやすいかな……空気感染はしないから、そのあたりは安心していい」
レンダは、2年ほど前にこの地にふらりとやってきた女性の医者だが、その潤沢な薬学知識と、貴賎を問わずに診察を行う姿勢が住民たちの心を捉え、メリウス神父に匹敵するほどに敬われ、尊ばれている。
「レンダがいなかったらと思うと、肝が冷えるよ……」
「神父の陰徳だろうさね」
「いや……水が腐っていたのにも気づかぬ愚か者だ、わたしは……」
「今の時期は、目に見えてモノが傷んでいるか見えにくいからね。特に水なら、なおさらだ。……悔い改めるって言うのは神職者の本分だろう? それならそれで、今は先のことを考えなきゃ」
「あ、ああ……そうだな」
 当然、メリウス神父もレンダを慕う者のひとりだ。竹を割ったようにさっぱりとした性格は、黙考を愛して止まない神父とは正反対に映るが、むしろそれが惹きあうようにして二人は馬が合っている。断じておくが、男女の仲としてのことではない。
「水痢症のやっかいなところは、栄養も水も尻から全部でちまうことでさ」
「む、むぅ……」
「下痢が治まるまでは、出ちまった分の栄養と水分とをすぐに摂らせなきゃいけないんだけど……この修道院には“コリアネ”はあるかい?」
「いや……リノール公領には“コリアネ”の群生地はない。……ノールラント王領から取れるものをわけてもらっているのだが……今年はかなり不作だったようでね」
「そうかい……」
 “コリアネ”とは、ありとあらゆる栄養素が詰まっていて“神の芋”とまで呼ばれている根野菜のことである。人の手では栽培ができない野菜でもあり、この“コリアネ”は自然にある群生地から掘り出すより入手の方法はない。
「あたいが持っているコリアーニも、これだけ患者が多いと、すぐに底を尽きるだろうね」
 ちなみに、この“コリアネ”を醸造して作った滋養酒のことを“コリアーニ”と呼ぶ。“この世で最も苦い薬酒”と呼ばれるそれを、レンダは愛飲していた。故に、このおば……
(なんだって?)
あ、いや……“お姉さん”は三十路の半ばを越えながら瑞々しく若々しいのである。
「う、ううぅぅ……」

 ブリビチャッ、ブババッ、ブシャアァァァ!!

「はぁ、はぁ、はぁ……」
 そんなレンダとメリウス神父の話し合いの向こうで、またしても下痢音が響いた。下腹を抑えながら木桶にしゃがみこんでいるのは、アンリエッタである。
「シスター・アンジェラ。あの娘に、すぐにこれを飲ませてやってくれるかい?」
「あ、はい、レンダ様……」
「“様”はよしとくれ。背中が痒くなっちまうよ」
 すぐにレンダは手にしていた小瓶をシスターのひとりに渡した。受け取ったシスターは、排泄を終えてベッドにずるずると戻ったアンの口元にそれを押し当て、彼女の喉が三度鳴った所で口から離した。
「あたいが持ってる瓶は三つある。それでも、二日は持たないだろうさね……」
「代わりになるものはないのですか?」
「似た効用のある薬酒はあるよ。長期的に見れば、回復もするだろうけど……それまで娘たちの体力が持つかどうかは保障できない」
「………」
 いずれにしろ、レンダの言うとおり“コリアネ”は必要である。
「ひとつ、コリアネの群生地を知っている」
「え?」
 難しい顔で唇をかんでいたメリウス神父の顔に期待の色が宿った。
「ハイネリアだよ。あそこはコリアネにとっちゃ居心地のいいところらしくてね。特に、最近まで戦場になってた“アネッサ砦”のあたりは、それはもう雑草の下にわんさかと埋まっているって話だ。砦は、ここから峠をひとつ越えた裾野にある所だから、地理的にも近い」
「ハイネリア……ですか……」
 メリウス神父の顔が、またしても曇った。
「外交問題に、つながるかい?」
 諸国を渡り歩いてきたレンダは、国際情勢にも詳しい。当然、ノルティア連邦王国が盟主と仰ぐ“教皇”が、ハイネリア公国を快く思っていないことは知っていた。
 聖フラウス修道院は、当然ながら教会組織の一端を担っている。修道院長であるメリウスは、領邦議会の参議権も持っているわけであり、いうなればノルティア連邦王国の官僚のひとりなのだ。
 それが、議会の内意を受けることもなく単独でハイネリアと接触を図れば、これは大問題である。“反逆の意志あり”ととられる恐れは多分にあり、下手をすると、メリウス神父は神職を解かれ放逐される可能性もある。
「………」
 だがメリウスに迷いはなかった。
彼は、修道院長としてリノール公領・西教区の行政に携わっている身ではあるが、その本意は神職を全うすることにある。それ故に、目の前で苦しんでいる者を救う手立てがあるのなら、何よりも優先させるべきだと考えた。
“水痢症”に苦しむ娘たちの中には、四王公家の子女がいる。それも神父の判断に影響をもたらした。だが、それは単に“彼女たちが貴族だから…”という俗欲の思惟から出たものではない。
彼女たちは将来、王公の伴侶となることは確実だ。真摯に神を敬い、心から下々の民を慈しむ心を持っている彼女たちならば、王政を善の方向へ導くことだろう。その豊かな素質を、こんなところで失うわけにはいかなかった。
「アネッサ砦を治めるのは、確かハイネリア公と母君を同じくする、マファナ公女と窺っています。“戦の女神”と崇められながら、慈悲もある方と聞き及んでいます。……こちらの窮状を親書にしたため、コリアネをわけてもらえるよう頼みましょう」
 その日のうちにメリウスは親書を用意し、それを男の司祭に手渡した。
『司祭様の護衛は、自警団の若い衆にさせよう』
 事情を聞き、協力を申し出てくれた周辺地主の好意によって、俄かに出来上がった“使節団”はすぐにアネッサに向けて出発した。それは、夜を徹した強行軍であったが、弱音を吐く者は誰一人としておらず、驚いたことに、3日はかかるはずの行程を1日と半分で終えてしまった。
これが、“信心”というのものの強さであるならば、なるほど時の施政者はこれを利用したく思うはずである。



 親書を受け取ってからのマファナは行動が早かった。
「救いを求める声を、放ってはおけません」
 すぐに使者である司祭と会見をし、改めて聖フラウス修道院で起こった異変を確認すると、途中から陪席させていたロカに指示を出して、コリアネの採掘を始めた。
「コリアネは、放射状に円を描いた葉をしています。根の形は、枝分かれをしたように細いので、根割れしないように慎重に掘り出してください」
「よっしゃ、野郎ども! くれぐれも慎重に、かつ迅速に、気合を入れてかかれよ!」
「おぅ!」
 ロカについたアザルの部隊は、彼女の指示のもとコリアネを大量に掘り起こした。半日の作業で物資運搬用の台車が二台分埋まるコリアネを掘り出したのだから、剛毅なアザルの部隊らしい働きぶりである。
 翌日、その隊は聖フラウス修道院に向けて進発した。顔ぶれの中には、アネッサの衛生を司っている軍医、ロカ・ユリナ・アルバニッツの姿もあった。
「あなたも隊に加わって欲しいの。医者の手は、多いほどいいと思うから…」
「わかりました」
 マファナの命を受けたロカは、衛生隊の業務をミラとミレに引き継いで、旅装をすぐに整えてアザルの部隊に入った。
「おおぉ! ロカ先生に、ご同行いただけるとは!」
軍籍にないとはいえ、ロカはその的確で手厚い医療行為を認められ、アネッサでは尊崇されている。アザルもそのひとりで、彼は部下たちに“この隊の長は、ロカ先生である!”と公言したくらいだ。
「いいか! ロカ先生に何かあれば、俺たちはアネッサに帰還できねえとそう思えよ!!」
「おうっ!」
それを示すように、ロカの周囲には三人の護衛が張り付いたものだから、さすがに彼女も困ったように苦笑していた。

 聖フラウス修道院からの使節団は先行して、アネッサから物資の援助が来ることをメリウス神父とレンダに伝えた。既にコリアーニは底をついており、あいかわらずひどい下痢に苦しむ娘たちは必要な栄養が十分に取れず、その衰弱が明らかになってきたところの報せであっただけに、神父は飛び上がらんばかりに喜び、神に感謝の祈りを捧げていた。
 使節団の帰還から一日を待たず、二台の荷車にコリアネを満載したアザルの部隊が到着した。物資を引きながら、このアザル隊の脚の速さは、まこと驚愕するよりない。
ロカは騎馬技術を持っていなかったので、アザルが駆る馬に彼と“相乗り”になる形でここまでやってきた。とてもではないが、徒歩ではついていけそうになかったからだ。
「お、おお……主よ……主よ……」
メリウス神父をはじめ、聖フラウス修道院の面々が総出でそれを迎え、まるで神の部隊が到着したように崇め奉っていた。これだけ熱烈な尊崇を受けたことなどないアザル以下、部隊の誰も彼もが、どう反応すべきものか困惑することしきりであった。
「ロカ……ロカじゃないのかい!?」
 そんな中、ロカを見つけたレンダは、すぐに彼女の傍に駆け寄っていた。その特徴的な跳ねのある赤い髪は、知る限りこの世でひとりしかいない。
「お、お師匠!?」
そしてロカもまた、思いがけない顔が目の前に現れたことに驚く。なぜなら、命を救われ、医術を教わり、人生において“唯一無二の師”と敬愛していた人物がそこにいたからである。
「お久しぶりでございます!」
「いやぁ、立派になったね! ……と、懐かしがっている暇はないね」
「あ、そ、そうですね……。状況を教えていただけますか? 微力ながら、お力添えいたします」
「助かるよ。……それにしても、随分とコリアネを持ってきてくれたもんだよ」
 レンダが苦笑しながら見遣る先には、一年かかっても使い切れそうにないほどのコリアネが、掘り返されたばかりということで土の香りを漂わせていた。
「やはり、“コリアーニ”ですか?」
「本音はそうしたいところだ。ただ、蒸留に時間がかかりすぎる。今回は、あの荷車のうちの一杯分を、豊穣祭のときに使う村の鼎(注:かなえ……いわゆる、足つきの鍋)で煮てスープを作るよ」
「その“鼎”というのは何処に?」
 ロカは修道院の前庭を見回すが、それらしい物は見当たらない。
「祭りに使う道具を入れておく、村の“大蔵”にしまってあるんだ。蔵から出し入れするのも、一苦労なんだけど……」
「それなら、俺たちがここまで運んでくるぜ!」
 二人の話に割って入ってきたのは、やはりアザルである。
「はは、見るからに千人力だね」
見るからに膂力のありそうなアザルを見るなりレンダは、鼎を運ぶうえでの懸念を捨てた。
「俺たちは医者のことはなんにもわからねえが、力仕事なら自信がある。かまわねえから、いいように使ってくれよ!」
 おう、と妙に気合の入っているアザルの部隊である。“部隊”といっても進駐軍と誤解されては本末転倒になるため、彼らは軍装をしていないし、人数も二十に満たない小勢である。しかし、アザルの親衛と言ってもよい選りすぐりの兵士たちは皆、それぞれにたくましい筋骨の持ち主であった。
「頼りにさせてもらうよ、大将」
アザルの剛直さは、レンダもすぐに気に入った。そもそも、軍事を預かる将校であるというのに、いうなれば“雑事”に等しい任務にも嫌な顔をせず、“いいように使ってくれ”とまで言う。
(よっぽど頭領を信頼していなければ、こんな表情は出来ないだろうさね)
 彼の顔を通じて、まだ見ないハイネリアの“聖公女”が持つ統率力の凄みを知ったレンダであった。



「う、あ、うぅぅ……」

 ブブビビッ、ブッ、ブブッ……

「はぁ、く、う……っ」

 ビチビチッ、ブッ、ブリブリッ、ブシャァァ……

「………」
 “水痢症”に苦しむ娘たちは、医療室となっている修道院の一室にやってきたロカに気づきもしないで、木桶にしゃがみこんでいる。ほとんど濁った空気と水しか出ない状態になっても、下痢の症状は止まらないらしい。
「さ、ロゼ……横になって」
「あ、りが、とう……」
体中の養分と水分をそのまま木桶に叩きつけているといってもよい娘たちは、独力でベッドに戻ることも出来ないほどに弱っているようで、同僚たちに援けられながらようやく横になっていた。
「あっ……」

 グリュルル――――
……ブッ、ブブッ、ブジュババァッ!

「アンリエッタさん?」
「ご……ごめん、なさい……」
 中には、腹痛と便意を訴える前に横になったまま全てを洩らしてしまう娘もいた。特にアンの症状は重く、今となっては寝返りをうつことさえ出来ないほど弱りきっている。
「いいのよ、アンリエッタさん。いま、綺麗にしてあげますからね」
 今も身動きができないまま洩らしてしまったアンだが、彼女に付き添っている例の目つきの鋭い女司祭はそれを確認すると、すぐに彼女にかけられていた夜具を優しく取り、汚れたシーツの沁みに沈む尻を浮かせ寝着の裾をまくってから、べとべとになってしまった小ぶりな臀部を布で拭い始めた。
「司祭様……」
 洩らした後の惨状を見られる羞恥は、慈母の如き優しい眼差しを注いで綺麗にしてくれる女司祭の雰囲気に薄められていく。
「さ、綺麗になりましたよ。……お医者様の言葉どおり、これを飲みましょうね」
「はい……」
 “コリアーニ”の代替となっている薬酒をゆっくりとアンに飲ませる女司祭。その表情は、厳しい普段のものとは違い、アンを慈しむ優しさに満ちている。
(おかあさま……)
 顔も覚えないまま死別した生母に司祭の顔が重なり、アンの頬を涙が伝う。女司祭はそれも優しく指で拭い、苦しみの中にあるアンがそれでも安らぎの眠りにつけるよう祈りの言葉を紡いでいた。
「シスター・マルガリタ」
「あ、はい……」
 それが一区切りをしたところで、レンダは声をかけた。
「紹介するよ。彼女は、ハイネリアから来てくれた医術師で……」
「ロカ・ユリナ・アルバニッツです」
「あ、ああ……主よ……」
 “ハイネリア”と聞いただけで、マルガリタ司祭はその表情を崩し、両手で顔を覆って泣き始めてしまった。感激の極みに、彼女の精神が達したのである。
「哀れなる子らを、なにとぞ……なにとぞ……」
 まるで縋るように、ロカの足元で祈りを捧げるマルガリタ。ハイネリアにもラーナ教の施設はあるが、これほどまでに熱心な祈りを捧げる教徒を見たことはない。
(さすがというべきだろうな)
 神聖ラーナ帝国は、ラーナ教を国教とすることで統一の観念を作り上げ、それによる強固な求心力を可能にした。それまで小国家が割拠していた世界を統一する大事業は、故にこそ完遂されたといえよう。
800年にわたる観念の共有は、その精神の基盤に大きな根を降ろし、たとえ熱心なラーナ教の信徒ではなくとも、その考え方には自ずとその“教え”が染み広がっていた。史学的に見れば、神聖ラーナ帝国の成立以前と以後では、“世界”はまるで違ったものになる。
 アンティリア王国の造反と大侵略によって、ひとつの歴史を創世した神聖ラーナ帝国は衰滅したが、教皇はまだノルティア連邦の庇護を受け健在だ。実質的な統治権こそノルティア連邦王国に譲ったが、その発言の諸国に与える影響は計り知れない。
教皇が発布する“封建勅書”は、今もって民衆には“神の護り”というべき神聖性を有しており、これを手に入れた君主はいわば“神に認められた王”としての肩書きによって、民衆からの支持を得ることが出来た。
「どうしたんだい、ロカ?」
「あっ。すみません」
「ははは、なんか難しいことを考えていたのかい? そのクセは、変わってないね」
「恐縮です……」
「なんつーか、生真面目な所もね。……さて、それじゃ早速だけど手を貸してもらうよ」
「はい。なんなりと」
 考えに沈んでいたロカを現実に戻したのは、やはりレンダであった。
「水痢症で怖いのは、もうひとつある」
「それは?」
「痔、だよ」
「痔……ですか?」
「ああ。あの通り水痢症は下痢が止まらなくなるわけだが、当然、それが出てくる尻の穴はひっきりなしに強い衝撃を受ける。いくらほとんど空気と水しか出ないといっても、腹の中の菌はその便に入っているわけだから、散々ひりだすことで傷んだ尻の穴が、その菌に負けて、腫れちまうんだよ。これを、早いうちに治療しておかないと、痔は慢性的なものになって、いろいろと支障が出ることになっちまうのさ」
 言うなりレンダは、いつも抱えている鞄の中から、緑色の粘液体がはいった瓶を取り出した。
「フォラニノールですね」
「あんたも世話になったことのある薬だったね、たしか」
「し、師匠……」
 “蟲害”によって想像を絶する下痢に苦しんだロカは、当然、その最中は痔疾にも苦しめられた。それを治療するときにレンダが使っていた薬が、この“フォラニノール”である。
(懐かしい薬だが……さすがに、恥ずかしい)
四つん這いになって尻の窄まりをレンダに晒し、その優しい指使いを受けていたときの光景が鮮やかに胸に湧いて、ロカは恥じらいを感じて頬が熱くなった。12歳のときの話だが、はっきりと覚えている。
「尻の穴は傷がつきやすい。慣れた人間じゃないと、逆効果になる。頼むよ、ロカ」
「はい」
 そうしてロカは、瓶のひとつを受け取ると、早速治療を始めることにした。

 コリアネを煮る作業は、アザルたちが受け持っている。修道院の中庭に鼎を運び、その脚の間で火を焚いて、コリアネが入っている水をそのまま沸かしてスープを作るのだ。火を絶やさないことと、コリアネをよくかき混ぜることが、彼らに与えられた仕事である。量が多いので、鼎の中で煮られているコリアネを棒でかき混ぜるのも、重労働になるのだが、体力に自信のある彼らにはなんら問題がなかった。
 ロカとレンダは、下痢便を排泄し続けたために出来てしまった娘たちの“痔”を治療することに専念していた。
娘たちが腹痛を催し排泄をした後で、その腫れあがった窄まりにフォラニノールを塗りこんでいく。排泄が起こるたびに薬は流れ、拭われてしまうので、下痢の症状が治まるまでは休む間もなく、二人はフォラニノールを塗る作業を続けていた。
「せ、先生……お、おなかが痛いの……」
 ティアが腹痛と便意を訴えた。近くにいたロカはすぐに、シスターの手を借りてティアの身を起こし、裾をまくって、用意した木桶にしゃがみこませる。
「あ、う、ううぅぅっ――――………!」
 木桶にその小さな尻が置かれ、ティアの体が震えた瞬間、

 ブジャアァァァァ! ブジュバババッ、ビジャビジャアァァァ!!

 まるで滝のように流れ落ちてゆく排泄が始まった。
「く、うぅ、あ、く、う……」
 腹痛に顔をゆがめ、苦悶しながら尻から濁流を垂れ流すティア。空気と水ばかりといっても、その独特の悪臭は消えるはずもなく、慣れたといえ強烈にして峻烈な臭気の刺激をロカの鼻腔に残していた。
「はぁ……はぁ……はぁ……あ、うっ!」

 ブビュッ、ブブブッ、ブバブブッ……

「あ、はぁ……は、く……」
 尻の間に沈んだ窄まりがふたたび盛り上がり、中から破裂するようにして濁った空気を炸裂させる。それを何度か繰り返して、ようやくティアの排泄は終わった。
 湯に浸し水気をきった布で、その汚れを洗い清めると、ティアをベッドに戻す。すぐさま、皿に入れられたコリアネのスープが運ばれてきて、シスターのひとりが匙を使ってティアにそれを飲ませていた。
「状態を、確かめます」
「は、はい……」
 一段落がついたところで、ロカが瓶を取り出す。ティアは一瞬、恥じらいの様子を見せたが、この場において医者の言葉は絶対なので、すぐに体を反転させると四つん這いになり、その愛らしいお尻をロカに向かって突き出した。
「失礼します」
 ロカは裾をつかむと、それを引上げてティアの尻を晒す。
(む……これは、ひどいな……)
目の前に見たティアの尻溝の間にある窄まりは、強烈な排泄を経たことによって真っ赤に腫れあがっており、見た目にも気の毒なほどであった。
 瓶の蓋を開け、人差し指で薬を掬う。
「薬を塗りましょう」
「はい……あ、んっ……」
 それをそのまま、腫れた窄まりに押し付けると、第一間接までを中に入れて、傷をつけないように丁寧に回転させて薬を塗り込め始めた。
「ん、ふぅ……くっ……」
「少しの、辛抱です」
「は、はい……っ……」
 ぐにゅ、ぐにゅ、とまるで生き物のようにロカの指を締め付けてくるティアの窄まり。その動きに無用に逆らえば、誤って爪をたて、粘膜に傷をつけてしまう。
 尻たぶに左手を添え、動きを止めさせてロカはフォラニノールを塗る。時折、ぴくりと震えるおしりはやはり、違和なものが窄まりの中を蠢いているからであろう。その感触を知っているロカは、ティアの中にある恥じらいもよく理解できた。
(わたしも……そうだったからな……)
 そして、ひとつの衝撃的な過去が、ロカの中に鮮やかに蘇ってきた…。


『……

「せ、先生……お、おしりが痒い……痒いよ……」
 “蟲害”による下痢の症状が落ち着きを見せた頃、ロカは窄まりの周辺にひどい痛痒を覚え、耐えられなくなってレンダに縋った。
「ちょっと、見せてごらん」
すぐにレンダはロカを四つん這いにして下半身を顕にし、尻の間にある窄まりの状態を確かめる。
「ふむぅ……」
やや盛り上がった窄まりは、真っ赤になって爛れたような腫れを持っていた。
「これは……痔、だね」
「ぢ?」
「ああ。……すまないね、ロカ。ちゃんと綺麗にしていたつもりだったんだが」
 雑菌に窄まりの粘膜が侵されたのだろう。度重なった下痢によって、体の抵抗力も弱まっていたのかもしれない。
「すぐに薬を塗ってあげるからね、少しの辛抱だよ」
「う、うん……」
 相手が信頼している女性とはいえ、世にも恥ずかしい体勢になって、汚いものが出てくる穴を凝視されているのだ。ロカは火がついたように熱い頬を枕に押し付けながら、懸命に羞恥に耐えていた。

 ぬぷっ…

「ひゃっ!」
 奇妙なものが、尻の中に入ってくる。ロカは思わず伏せていた顔をあげ、背を丸めてしまった。
「ああ、動いちゃダメだよ。傷がついちまう」
「ご、ごめんなさい」
 “薬を塗る”と言っていたのだから、入ってきたのはレンダの指だ。
(な、なんか……変だよ……おしりが、ぐにゅぐにゅって……)
出てくる経験しかない場所に初めて何かが入ってきたので、ロカにとって凄まじい感触と悪寒が窄まりの所を這いずり回っていた。それでも不快に感じなかったのは、暖かいレンダの指の温度を粘膜から感じていたからだろう。
「ちょっと、中まで入れるよ……」
「う、うん……」

 ぬぷりっ……

「んっ……」
 かなり深い部分まで薬を塗られる。はっきりとした違和感が直腸の中で蠢き、ロカは身じろぎをしないように必死になってその感触に耐えていた。
(………?)
尻の穴を抉られる感触に慣れてきた頃である。ロカの体に、ある異変が起こった。

 グルル……

(あっ…)
 下腹がかすかに鳴ったのだ。それは、便意の隆起を示すものである。

 グルルッ、グルッ、グリュロ……

(や、やだ……急に、おなか……)
 違和感はそのまま、下腹の中をうねるようにして進む。
(!)
 ふいに思惟の閃光が、ロカの中で起こった。この便意が進む先は今、レンダの指が動いているのだ。
 つまり―――
(だ、だめっ、が、我慢しないと……)
 便意を限界点である直腸まで進めてしまえば、そのレンダの指を糞で汚すことになる。治療が終わるまでは、腸の奥深い所に留めておかなければならない。

 きゅ――

 腹部に力を入れた瞬間、レンダの指を圧迫するように窄まりも締まった。
「どうしたんだい? 尻の穴に、力が入っちまったけど……痛かったのかい?」
「う、ううん……ちょっと、びっくりしただけ……」
「そうか……続けるよ?」
「うん……」
 ロカはどうしても言えなかった。“糞がしたくなった”と…。
ここで再び便意を尻から迸らせてしまえば、せっかく塗ってくれた薬が台無しになってしまう。せめて一晩ぐらいは、汚い場所にも厭わずに指を入れて薬を塗ってくれた行為を無駄にさせたくなかった。だから、この便意は我慢すべきだと彼女は思ったのだ。

 グリュ……グルル……

(はぁ……なんとか……いまは……)
 幸い、感じている鳴動は自分だけがわかる微かなものだ。最近は下痢も随分と治まってきたので、催した時点で我慢が利かなくなることはない。
(いまは……いまだけは……)
 絶妙な力加減で下腹を宥め、便意の発露がこれ以上強くならないように努めるロカ。

 グリュリュリュ―――……

(!!??)
 だが、悲惨な現実は、あっという間にロカの目の前に訪れていた。まるで流れていくように便意が腸の中を押し進んでいく感触が、はっきりと自分の中でわかった。
「よし、終わった―――」
「せ、先生! ゆ、指を抜かないでッッ!」
「え?」

 ぬぽっ…

「あ―――っっ」
「!?」

 バクゥッ! ブジャァァァァ!! ブジャッ、ブバァッ、ブババババァァァァ!!!

「わっ……」
 レンダの指が窄まりから抜かれた瞬間、まるでそれを待ちかねていたかのように洞穴が一気にあけ広がり、熱蒸気を噴き出すようにして糞が飛び出したのだ。
「あ、ダ、ダメッ、先生……あ、ああっ……」

 びちゃびちゃびちゃッ……

「―――……」
 もちろん、尻の間近にいるレンダにその全てが浴びせかけられている。
「あ、く……う、ううぅぅっ!」

 ブジャブバッ、ブバババァッ、ブチャブチャブチャアァァァ!!

「はぁ、はぁ、はぁ……」
 急激な便意の訪れと、その開放。ロカは、抗うこともできないままに糞を迸らせている。レンダの顔に向かって…。
ロカがこの家に運ばれる前までは、大した怪我でもないのに何かあるとは若い男衆が寄ってくるほど評判だった器量の良さが、あっという間に糞まみれになっていた。
「ロカ……」
「!!! ………ご、ご、ごめんなさい!! あ、あたし――……!」
ロカは、瞬間にしてその血が引いた。命を救ってくれた大恩あるレンダを、あろうことか自らが撒き散らした糞によって髪の先まで汚してしまったのだから…。
「あたし……あたし……う、うぅっっ……うああぁぁぁぁん!」
 恥ずかしさと情けなさと申し訳なさが一気に交錯して、ロカの精神は脆くも破綻し、慟哭の叫びを生み出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、先生……出そうなの、我慢しようとしたの……したんだよ……でも、でも……あああぁあぁぁん!!」
「………」
 髪の先から滴る汚物が、ポタポタと目の前で垂れる。
しばらくの間、レンダは動きも思考も止めたままだったが、ややあってその口元には穏やかな微笑が生まれていた。
「今度は、ちゃんと綺麗にしてあげるからね」
「グスッ、グスッ……え……せ、先生……?」
 手拭いでとりあえず顔を拭うと、レンダはまるで何事もなかったかのように、糞の迸りによって汚れてしまったロカの尻を綺麗にし始めた。その手つきに、汚された恨みをぶつけるような荒さは全く感じられない。それどころか、いつにもまして優しく慈愛に満ちたものである。
「泣かなくてもいいさ、ロカ。こういうことはね、よくあるんだよ」
「先生……」
「それより、おなかの具合はどうだい?」
「あ、あの……全部、出たから……」
「そう? それじゃ、綺麗にして、もう一度、薬を塗ってあげるからね」
「先生……うっ、うっ……せんせぇ……」
 顔に汚れを残したままレンダはロカの窄まりを綺麗に拭い、改めてフォラニノールを患部に塗りこめる。その全ての作業が終わった所で、ロカの粗相を浴びたことで汚れてしまった衣服を脱ぎ、水場で体を丸ごとレンダは漱いだ。
 なんとなく、体中から匂いが立ち込めるのは仕方あるまい。だが、それを気にも留めない強靭な精神力がレンダには備わっており、飄々としたままロカの枕もとにある椅子に腰をおろして、いまだにしゃくりあげている彼女の赤い髪を、あやすように撫でてあげた。
「先生……怒らないの?」
 その優しさがあまりに手厚くて、ロカは涙が止まらない。糞を叩きつけるように浴びせかけてしまったと言うのに、恨み言をひとつとして口にもしないで、レンダは髪を撫でてくれるのだ。
「あたいの師匠は厳しい人でね……」
「………?」
「“頭から浴びても、平気になれ!”とか言って、家畜のフンを混ぜた汚水を頭から被せてきたこともあるんだよ。……それに比べれば、可愛いものさ」
「せんせぇ……うっ、うっ、ぐすっ、ぐすっ……」
「今日は、泣き虫になっちゃったねぇ」
 溢れて止まらないロカの涙を、指で拭う。なかなか収まらないロカの嗚咽を、レンダはいたわりの眼差しで見守った。
 レンダには、実は娘がひとりいた。だが、5歳のときに流行病にかかって死んだ。夫も同じ病気に冒され、そのまま帰らぬ人になっている。医術を身につけながら、家族を守ることが出来なかった痛恨は、レンダに深い絶望と哀しみを与えた。そこから立ち直るのには、実に数年も費やした。死を選ぼうと考えたこともあったが、そんなことをして死んだ夫と娘が喜ぶはずもない。
自分と同じ苦しみと哀しみが、せめて自分の目の届く所では繰り返されないために、レンダは薬草の研究に没頭した。彼女が持つ研究標本の種類は、世界でも類を見ないほどの蒐集数であり、それによって発見された様々な効能は、これまで世を震撼させてきた流行病をいくつも覆滅してきた。ロカが侵された“蟲害”もまた、レンダの発見した薬草“リカト”によって歴史から消え去るのである。
「先生……」
「ん? なんだい?」
 ようやく気持ちが落ち着いたロカの細い声で、レンダは感傷から戻った。
「あたしも先生みたいに、なりたい……医術を勉強して……先生みたいに、強くて、優しい医術師になりたい……」
「ふふ、そうかい? ……なれるさ、ロカなら。病気の苦しみを知ったロカなら、きっと、いい医術師になれるよ」
「元気になったら……先生のお弟子さんに、してくれる?」
「もちろん。……早く、元気におなり」
「うん……」
 このとき、二人の師弟関係ははっきりと形を持った。だが、それよりも強固な信頼関係が既に出来上がっていたことを考えれば、“師弟”というよりは、“親子”と言った方が、正しいのかもしれない。
「先生、寝るね……」
「ああ。ゆっくりお休み、ロカ……」
 レンダはまるで自分の娘にするそれのように、ロカの赤い髪にキスをした。それを受け止めたロカもまた、母親に捧げるもののように、心の全てを委ねた眼差しをレンダに送り続けていた。………』

(さて……)
 感傷も程々に、ロカは薬を塗る治療行為に専念する。ティアの恥ずかしさは慮って余りあるから、少しでも早く終わらせなければならないだろう。

 ぬっ、ぬぷっ、ぬぬっ……

「さあ、終わりましたよ」
 第二関節が埋没するほど奥の方までフォラニノールを塗ったロカは、その指をゆっくりと引き抜きにかかった。
「ま、待って! ゆ、指を抜かないで――――……!!」
 その時である。ぶるり、とティアのおしりに大きな震えが走ったのは…。

 バクゥッ!

(え?)
 指が窄まりから完全に姿を現した瞬間、小さく口を開けていたその窄まりが突然大きな口を広げたかとおもうと、
「あ、ダ、ダメッ、ダメェェェェ!!」

 ブバッ!

(!!??)
 ティアの叫びが轟いた瞬間、ロカの視界は真っ茶色に染め上げられた―――。




――懺悔、という制度がある。
教会に訪れる信者が、自らの犯した罪……それは、大抵はささやかなものだが、それを司祭に告白し、神の許しを請う。
神はすべての罪を許す、しかしそれは、罪を犯したものが自らの罪を認めた時のみである。
この修道院においては、将来一つの教会を任せられるであろう“神職者の卵たち”が大半を占めるため、懺悔を聞く側としての訓練が必要なのだ。そのため、毎週の安息日には、持ち回りで司祭役を決める慣習がある。もちろん、最終的には修道院を出て行く娘たちにも、その持ち回りはやってくる。
ここまで言えば……その週の懺悔の集いで、どのような告白がなされたかは想像に難くないだろう。
「わたしは……わたしは……」
 四方を壁に囲まれ、目の前の小さな小窓から差し伸べられている手の甲に自らのそれを乗せ、俯いているのはティアである。
「ティア……」
 そして、ティアの懺悔を聞いているのはロゼであった。
コリアネのスープによって充分な栄養を摂る事が出来た二人は、“水痢症”が癒え、修道院の勤めをこなせるほどに回復していた。中にはアンリエッタのようにまだ、“痔”の治療を受けているものもいるが、二人に関してはその“痔”もすぐに治まったらしい。
「わたしは……わたしは……う、ぐすっ……」
 懺悔の言葉がその口から出る前に、ティアは嗚咽を始めている。ロゼは、彼女の口から出てくるであろう懺悔の内容が予測できるだけに、その告白に悩み苦しむティアの心情が痛いほど分かった。
「ティア……あの……」
「わたしは……1週間前……う、ううっ……れ、礼拝堂で……礼拝堂で……また……おもらしを、して……グスッ、グスッ……して、しまい……ました……」
「………」
 その懺悔は、ロゼもしていたものだ。というより、この週の懺悔はほとんどのシスターや修道女が、嗚咽にむせびながら、“礼拝堂でおもらしを……”という告白をすることに終始していた。
『か、神さまを、あたしは冒涜したのですっ! わああぁぁぁぁ!!!』
『も、もう、うっ、うっ、こ、ここにいられません……』
『主よ……うっ、ううっ、お許しください……お許しください……』
恥ずかしさと己の犯した罪の重さに耐え切れず、はっきりとした声をあげて泣き叫ぶ娘もいた。それでも、懺悔をきちんと果たすあたり、この修道院の規律の厳しさは遵守されている。
もちろん、修道院を出て行った娘は一人としていなかった。実際、出て行こうとする娘もいたが、それはメリウス神父やマルガリタ司祭らが心からの慈悲で許しを与え、説得し、留意させた。
「また……また……礼拝堂で……あんなことを……うっ、うっ……」
 そして今日は、ティアの番になったと言う訳だ。しかも彼女は、礼拝堂で粗相をしたのは二度目になるわけであり、誰もが持ち得ない羞恥を背負っているのである。
 更に言うなら、彼女にはもうひとつとんでもない懺悔があった。
「う、うぅっ……傷んだお水を飲んで……お、おなかをこわしてしまって……うっ、うっ……そ、それを……治してくれたお医者さまにも……えぐっ、うぐっ、ぐすっ……き、きたないものを……きたないものを、か……かけ……かけて……かけて、しまいましたぁ!」
 痔の薬を塗られているときに強烈な便意が襲い掛かり、何とか我慢をしようとしたものの、下痢によって弱ってしまった耐久力がそれを果たせず、栓になっていた指を抜かれた瞬間、迸ってしまったのだ。
「お医者さまに……ひっく……わたしたちのために来てくれた、お、お医者さまに……わたし、とんでもないことを………う、うっ……」
 他国から来てくれた医者の顔に向かって……ティアは糞をほとばしらせて、叩きつけたのだ。由緒あるリノール公爵家の子女として、ひとりの女性として、考えることさえおぞましい、あってはならない行為である。
「う、うっ、うわああぁぁぁぁぁぁん!!!」
 そのときを思い出したのか、遂にティアの精神が崩れ落ち、突っ伏して慟哭を始めた。
「ああああぁぁん! あああぁぁぁぁん!! うわああぁぁぁぁん!!!」
「ティア……」
壁に囲まれた狭い個室は、ビリビリとティアの泣き声を響かせ、その中にいるロゼの耳が痛いほどである。
「ティア、いいの……もう、いいのよ……」
「でも……グスッ……でも……グス……グス……」
「存分に、お泣きなさい……神は、心からの懺悔を……きっと、お許しになるはずです……あの方も、あなたを許していたでは……ありませんか……」
「う、うっ、ぐすっ、ぐすっ、う、うん……」
 顔中をティアが洩らした糞で汚し、見るも無残な状態になったと言うのに、その医術師はまるで何事もなかったかのように微笑を浮かべ、
『大丈夫ですよ。さあ、綺麗にして、また薬を塗りましょう』
 と、汚してしまった元凶であるはずの自分にいたわりの言葉をかけてくれたのだ。
「主よ……深い苦しみを抱く友に……安らぎという名の慈悲を……どうか……どうか……」
「う、うっ、ぐすっ、うぐっ、ひっく、ひっく……」
 ロゼは、ティアの手のひらを握り締めていた。懺悔を聞く者としては、その動きは余分なものである。しかし、友を思う心が彼女にその行為をさせていた。
「うっ、うっ、うっ……」
「ティア……ティア……」
 そうして二人は、公爵家の子女としてあるまじき行為を共に恥じ、懺悔し、涙を流して罪を分かち合っていた。
 後の話になるが、ティアが懺悔を聞く持ち回りになったときに奇しくもアンが懺悔室に訪れた。
『ぐすっ、ひぐっ、あ、あたしは……あたしはぁ……』
礼拝堂で粗相をしたわけではないのに、最初からアンは泣き崩れた状態になっていた。その内容は、“御手洗の壷からこぼれてしまうほどのモノを出してしまい、それで汚した床を他の人に掃除させてしまった”というものである。不可抗力でありながら、これほどに激しい懺悔をする彼女は、まことに生真面目である。
そんな“泣き声”とも“懺悔”とも判別の出来ない彼女の嗚咽をそれでもティアは一身に受け止め、ロゼがそうしてくれたようにアンの手を握り締めてその心を支えてあげた。
 …後に“三賢女”と呼ばれ、大戦以降に失われていた世界の安定に大きく貢献することになるティア、ロゼ、アンの三公女の深い交友関係は、聖フラウス修道院の中で芽生え、ひとつの事件をきっかけに強く結びつき、育まれていったのである。その要のひとつに、ハイネリアの女医術師、ロカ・ユリナ・アルバニッツの名前があったことは、後に教皇の名のもとに編纂される“世界通史”には記されていない。
 だが、諸国史となる“ハイネリア史”において“ロカ”の名は、まるで聖女の如き扱いを受けて記載されている。それは、その編纂を命じた尚学の賢君・エンリッヒ3世の妃となったティアことティリシア・ノル・ハイネリアが、彼女から与えられた数々の慈愛を後世に伝えるためだと、編纂に関わった史官が自らの回想録の中で語っていた。
 ……ちなみにそれらは全て、いまより数十年後の話である。



 2週間もすれば、“水痢症”に苦しんでいた娘たちもほとんどが回復し、後遺症のひとつとして慢性になる恐れのあった“痔”も、大事に至る娘は出なかった。
「わたしたちの務めは、終わったようです」
 ロカは状況の沈静を悟り、レンダとメリウス神父にアネッサへ帰還することを告げた。
それを受けた瞬間、レンダはかすかに寂しさを顔に浮かべ、メリウス神父に至っては、“まだ礼も尽くしていないのに…”と落胆の表情を隠そうとしなかった。
 だが、正式な国交がない諸邦のひとつであるリノール公領に、自分たちが長居するわけにもいかないであろう。
「このお慈悲は、終生忘れませぬ……必ず……」
 相手は、いうなれば反目している国の人間である。それでも地に額をつけて、メリウス神父は感謝を捧げ続けているのだ。それは、見るものにとっては反逆行為以外の何物でもないが、神父はそれを意にも止めずに頭を垂れて、祈りを捧げていた。
「神父殿……お手を、挙げてください」
 ロカがそういわなければ、メリウス神父はいつまでも頭を上げなかっただろう。
「酒を酌み交わす余裕もなかったけど……久しぶりに逢えて、嬉しかったよ」
「お師匠……」
「強くなったね、ロカ」
 レンダが差し出した手を、ロカは少しためらった後で握り返した。師と仰ぐ人物が自ら、対等の者と交わす挨拶を求めたことに、恐縮したのだ。つまり、レンダは、ロカのことをひとりの医術師として認めていることになる。
(あんなことがあっても、平然としてるんだ。……立派な、医術師だよ)
 ティアの“痔”を治療しているときに、その尻から迸った糞を顔面に被っても、ロカはまるで気にも止めずに以後の治療を続けていた。かつて自分の師匠が施したものと同じ、汚水を頭からかぶせる修行をロカにしたとき、その悪臭に耐え切れずに吐き戻してしまった時の姿からは、想像もつかないロカの強さだった。
「ロカ様!」
「ロカ先生!!」
「先生!!!」
 出発を前に、シスターや修道女たちが、ロカの周囲に輪を作る。ティア、ロゼ、アンもその輪の中にあり、別れを惜しむように皆が涙に頬を濡らしながら祈りの言葉を捧げていた。特にティアは、まるでロカに抱きつくようにして、止まらない涙と嗚咽の中で惜別の情を顕にしていた。
「わたしは……マファナ様の命令に従い、医術師としての責務を果たしたに過ぎませんよ」
 ロカは平民の出自である。それが、まるで貴族のように崇められ、敬いの祈りを受けている。さすがに畏れ多いものを感じて、ロカは困ったような視線をレンダに向けた。
「痒いだろ、背中がさ」
「そ、そうですね……」
 その姿に苦笑するレンダ。
交じり合う二人の眼差しは、年を経ても変わりのない信頼関係を強く映し出していた。


 ―続―



解 説 其の四

 みなさん、こんばんは。まきわりでございます。『ハイネリア戦記』の第4章でございました。お読みいただき、ありがとうございます。
 今回は、メルティさんのお許しを頂戴して、『ハイネリア戦記』執筆開始の大きな原動力となったメルティさんの小説『聖少女の汚れ』の世界をリンクさせることになりました。他の作家さんのお書きになった作品世界と、自分の作品世界とを繋げようとするのは悪い癖のひとつなのですが、そんな“わがまま”を聞き届けてくださったメルティさんには、感謝するばかりでございます。
 と、いうわけで、『聖少女の汚れ』では七さんの挿絵ともども、見事なまでのOMO場面を披露してくれたティリシア・リノール嬢は、第3勢力であるノルティア連邦王国に縁のある公女として『ハイネリア戦記』にも御出演と相成りました。しかも密かに、“後に、ハイネリア公エンリッヒ3世(マファナの実弟)の妃になる”というどえらい設定までつけてしまい、いささか調子に乗りすぎたかもしれません。
 本当は、ティア嬢の実家である“リノール公爵家”の名前だけを拝借するつもりでした。しかし、いろいろと設定を考えているうちに妄想は膨らみ、ついにティア嬢にも舞台に上がってもらうことになったのです。それも、OMO場面付きで…。
 おかげで、第3章での反省が吹っ飛んでます。表題では主役となるはずのロカが、存在感薄いです。しかも、回想でのOMOに終始し、今のロカの粗相を期待した読者様には気の毒な展開となってしまいました。もっと言うなら、主人公であるはずのマファナはいよいよ隅に追いやられています。彼女の恨み節が、聴こえてきそうです。
 OMO描写は、「集団排泄」をテーマにしてみました。このあたりも、メルティさんの作品をかなり意識した展開になったことは、否定できません。
 ただ、このお話は書いていてとても楽しかったです。別の作者が作った別の作品が実はひとつの世界観で繋がっているという“裏話的な展開”は、書いてても読んでてもドキドキします。コラボレーションの楽しみを、存分に味わいました。
 メルティさんには、本当に感謝しています。ありがとうございました。

 それでは、第5章でお逢いしましょう。
 まきわりでございました。


メルティより

 第4話をいただきました。今回はなんと「聖少女の汚れ」のティアをかなりメインキャラとして使っていただきました。私としても思い入れの深いキャラですので、このような形で出演させていただくことは非常に嬉しいです。
 内容としては集団下痢ものの基本を押さえた展開で、繰り返すひどい下痢というのも読み応えがありました。教国と選王家のくだりが、読むに当たって中世の知識を必要とする部分はありますけど、これだけの内容があればそうそう不満は出ないでしょう。
 最後にティアがハイネリア公妃に、というお話がありましたが、そんな話を持ちかけていただけるだけでも光栄です。この上は私からもその一節を小説化して差し上げようかと思っていますが。まずはこの本編の完結を待ちたいと思います。
 というわけで、次回も期待しております。


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