『ハイネリア戦記』


【ミラ】
 マファナを追いかけるようにアネッサにやってきた侍女のひとり。ミレの双子の姉。貧困階層出身のためにミドルネームと氏姓は持たない。顔は妹のミレと全く同じだが、薄茶色の髪が内巻きになっているのが見分けるポイントである。穏やかで、慎ましやかな性格をしているが、仕事に対してはストイックな一面を持つ。16歳。


【ミレ】
 マファナを追いかけるようにアネッサにやってきた侍女のひとり。ミラの双子の妹。貧困階層出身のためにミドルネームと氏姓は持たない。顔は姉のミラと全く同じだが、薄茶色の髪が外巻きになっているのが見分けるポイントである。活発で、大雑把な性格をしているが、病人や子供の面倒を良く見る優しい娘である。16歳。


【ロマリオ・ハウム・スタレッツ】
 マファナの御者を務める青年。真面目で、誠実で、従順なところを皆に親しまれ“ロム”の愛称で呼ばれている。元はハインに仕えていたが、馬に対する深い造詣と御者としての能力を認められ、彼の推挙を受ける形でマファナに臣従するようになった。今はオスカーの部隊で兵車部隊長という重責を担っている。18歳。



第6章 ミラ


二人にとっていつのまにか、夜の厩が逢引の場所となっていた。
「あ、ああ……」
 闇の中にうっすらと浮かぶ女の肢体は、耳元をくすぐる甘い吐息と、掌で躍る生々しい手触りで男を悦ばせている。
「あっ、ん、んんっ……」
寄せ合い、擦りあう腰の動きを早めると、女の呼吸は更に乱れ、男は夢中になって愛撫を繰り返した。
「ロマリオ、さま……あ、ああっ……」
 たまらないように男の名を呼んで、四肢をその体に巻きつける女。
「ミラ……ミラ……」
 そうやって生まれた腰の密着を愉しむように、女の名を囁きながら男はその耳朶に口をよせ、軽く歯を立てた。
「ひ、ひぃっ……」
 びくり、と背中が震え、ミラは喉を反らせる。普段の清楚な面持ちが嘘のように、彼女は今、体のそこから沸きあがってくる快楽を貪っていた。
「だ、だめ……あ、ああ……」
 挙げたい声を押し殺し、悶えを必死に喉で留めている様子のミラ。敷き詰められた藁の上で睦みあっている二人がいる場所は、マファナの御者であるロムが任されている彼女の馬が寝息を立てている。
「んっ……」
 ミラがこれ以上、大きな声を出さないように、ロムは唇でそれを封じた。
ありとあらゆる場所で繋がりあい、愛を確かめあう二人。その行為は非常になまぐさみのあるものであっても、体中から迸る官能のうねりの中には、確かな情愛が存在している。
「くっ……」
 己の中で込み上げるものを感じたとき、ロムはミラの体を抱き締めて、腰のつながりを更に深めた。
「―――……ッッ!!」
 その刺激に耐え切れず、ミラの体が大きく震える。
(あっ、ああっ、あああぁぁぁぁ!!!)
そして、体内に流れ込んできた生命の熱気を浴びながら、彼女はその意識を光溢れる世界へと昇華させていた。



 ハイネリアの冬は、それほど深いものではない。疎らに散った雪も既に消え、春を感じさせる薫風が、山麓のアネッサにも吹くようになっていた。
戦端が停止してから、アネッサへ本格的な移民活動が始められ、それを受ける形で城郭の中には集落が存在するようになっていた。兵卒たちの家族が、主にその住民である。夫や息子の援けとなり、その生活を支えるために、進んで移民をしてきたのだ。
 移民政策を進言したのは、“軍政長”のロッシュである。彼は、都市として既に形を得ていたアネッサに、さらなる機能を充実させることで、内側からの堅牢さを整えようと考えていた。
軍師のラヴェッタや参謀長のハインにも支持を受け、マファナの聴許を得てから行政府の正式な認可を戴き、アネッサの移民事業は本格的に開始された。
農事の充実に伴う自活物資の確保は、政治の安定に最も必要とされることである。また、自分の家族が身近にいるということは、兵卒たちの士気を大いに高めることにもなる。
新地の開墾にはとにかく人手が必要になってくるから、ロッシュは兵卒の家族以外にもロンディアで移民希望者を募り、応募してきたものには認可証と支度金を与えて、アネッサへと送った。この辺りの手際のよさは、他の将軍では持ち得ない才能である。平時においてこそ、彼の行政手腕は遺憾なく発揮されるのだ。
農地開拓が進むと同時に、アザルの指揮によって行われている新城郭の建築も進んだ。これまで一層しかなかった外壁が、この工事の修了によって二層になるのである。
アネッサは、城砦から都市への進化を辿り始めていた。
「外郭の進捗は、想像以上に早いようです」
「ふふ、さすがはアザルですね」
これまで、軍事のことを中心に行われてきたアネッサの幕僚会議も、ここのところは内政に関する議題がほとんどになった。
その中で、ラヴェッタが用意した書簡を確認しているマファナは、そこに並んでいる各事業の報告を、嬉しそうに眺めていた。思えばアネッサは自分たちが一から築き、育ててきた“都市”である。
「農地も、数倍の広さになったようですね。オスカー、よくやってくれました」
「い、いえ。恐縮です、総帥」
 新地開墾を担当しているのは親衛部隊長のオスカーである。優秀な地方領主であった父と兄の行政を見ているだけのことはあり、ロッシュには及ばないものの、彼の執政能力は中々に優れたものがあった。
「やれやれ、わしにはすることがないわい」
 アレッサンドロはぼやくが、それほど落胆した様子はない。確かに彼は、武勇の誉れ高い歴戦の勇者ではあるが、だからといって戦いを好んでいるわけもなく、やはりこの平穏な時をいつまでも続けたいと思っている。内政の充実を横から見ているだけでも、彼にとっては満足な時間を過ごせているのだ。
「軍監殿には、しっかりと兵士たちの手綱を握っていてもらわなければ」
 参謀長のハインが、そんなアレッサンドロを慰めるように言った。
「ふむぅ。……アザルもオスカーも、それぞれの役割を抱えながら、しっかり訓練もしておるしのう。軍紀の緩みも、まったく見えん。やはり、することはないのう」
 僅かな期間の中で見せた若者たちの成長ぶりに、目を細めるアレッサンドロの様子は、好々爺そのものであった。
「ハイン、行政府の外交はどうなっていますか?」
「少し風向きが変わったようです」
「風向きが?」
「はい」
 ハインは、集められた情報をまとめた書簡をマファナに渡し、話を続ける。
「リノール公爵が、交渉に応じたというのですか?」
「はい。近くその嫡男が大使として、公都を訪問するそうです」
「まあ……」
 マファナの感嘆を含む吐息を追いかけるように、円卓にもざわめきが生まれた。
「行政府は連邦への帰順を、本格的に考えるようになったということだな」
 ラヴェッタの独白にも似たつぶやきに、皆はそれぞれ思うところを沈黙の中で噛み砕いているようだ。
ノルティア連邦王国へ帰順するということは、単一国家であることを放棄するものである。フラネリア王国とは、臣従に似た盟約関係を結んでいたが、“同盟”は互いが独立した国家としての体裁を維持したまま行われたものであり、完全にどちらかの政治体制に組み込まれる“帰順”とは全く異なる。
「母は、“なにものにも支配されぬ国を創る”という父の遺志を誰よりも尊んでおられましたが、いよいよ決断を下されたのですね」
「いえ。公母さまはやはり、教皇への恭順に対してかなりの難色を示しておられました。それを、公が説得し翻意させたそうです」
「えっ?」
 ハインの言葉に、マファナは少なからず驚きを覚えた。
マファナの実弟であるハイネリア公エンリッヒ3世は、まだ12歳で親政(自ら政治を行うこと)も始めていない。生母であるオルナが摂政となって、行政府から挙げられてくる様々な案件に聴許を与えているのだが、自立した公の判断で事が動いたのは、これが初めてといってよいだろう。
「ハイン殿。連邦との関係を深めようというのは、公の意志だというのか?」
「軍師、そのとおりだ」
 ラヴェッタの確認を受けながら、ハインは深く頷いた。
「それでは、公は…」
「事が成れば、独立を果たした先公の偉業は、わずか一代にして夢と消えることになるだろう。……そのことも承知の上で、公は決断をされたのだ」
少なくとも彼には、正規軍の将校として独立戦争を戦った過去がある。その労苦によって果たされた公国の成立が、ノルティア連邦王国への帰属という形で終焉を迎えるというのであれば、さすがに感傷を抱かざるを得ない。
「父は英邁な人ではありましたが、理想を追い求めるあまり事を急きすぎたように思います。四方を諸侯に囲まれているハイネリアの状況を思えば、単独での国家の維持は相当の困難が伴うでしょう。わたしは、公の判断を英断であると支持します」
 だが、マファナにはそれほどの感慨はないようである。ハイネリアを守ることができるのなら、連邦の版図に組み込まれてもそれで構わないと考えているからだ。
利害の一致でフラネリア王国と手を組み、教皇の心象を害している点はあまり良い状況とはいえない。今、諸国の中で最も孤立しているのはオルトリアード王国だが、フラネリアの庇護を失っているハイネリア公国も、ある意味ではその範疇に入っている。
 やはり、教皇の持っている“神威”は、小国であるハイネリアには必要な政治手段だ。それを理解できたということは、まだ年少であるハイネリア公エンリッヒ3世は、現実を把握できる明晰な判断力を有していることになる。
(弟は、実は優れた君主なのではないでしょうか…)
 宮中にいた頃は、とにかく凡庸にしか見えなかった実弟に、優れた判断力が必要とされる英主としての片鱗を、マファナは見たような気がした。
「ともかく、これからはリノール公との関係が外交において重大になってきます。先の聖フラウス修道院の一件以来、リノール公は我が公国への友好を相当に高めているそうですから、足がかりは出来ていると言えましょう」
 リノール公領にある聖フラウス修道院で発生した事態に援助の手を差し伸べたことが、風向きの変化した最たる理由であることは明白である。修道院長であるメリウスからも、懇々と謝辞を書き連ねた親書が送られてきており、その中にはリノール公がこのことについて“高く評している”との一文もあった。
国交がないことで複雑な問題に転換する恐れのあったアネッサと修道院とのやり取りは、むしろ、ハイネリアにとって慶事を運んできたようである。陰徳には、必ず陽報があるという典型そのものである。
「行政府の連中が、これをどう活かすかというところじゃな。果たして、どうなることやら」
 マファナの慈悲と迅速な判断がもたらした好機を、外交で苦戦している行政府の面々が有効に扱えるかどうか…。世代が替わった行政府の首脳たちの力量をあまり高く見ていないアレッサンドロは、それが不安で仕方無い。
 だが彼も、まさかこの渉外活動において、まだ12歳の幼君である現公・エンリッヒ3世が、その稀有な器量の一端を発揮するとは思っていなかった。誰の目にも凡庸に映るエンリッヒ3世の、密かに隠し持っていた英主としての資質がいよいよ芽吹きを生み出していたことには、老練なアレッサンドロも気付くことができなかったのである。


「ラヴェッタ、少しいいだろうか?」
 軍議が終わり、それぞれが持ち場に戻っていく中で、ラヴェッタはロカに呼び止められていた。彼女は“衛生隊”を司る責を持ち、その報告も兼ねて軍議に参加していたのだ。
「どうした?」
「うむ。ミラのことなのだが」
「ミラの? いったい、彼女がどうしたというのか」
 珍しく、ロカの口調が重い。ラヴェッタの胸に言い知れぬ不安が宿り始めたとき、
「身篭っている」
「なっ……」
それはロカの口から出てきた予想もつかない事実によって、霧散した。
“身篭った”というのは、紛れもなく彼女の体の中に、新しい生命が宿ったということだ。つまりは、妊娠したのである。それほど、暗い話題ではない。むしろ、慶事であるといってよい。
「それは、本当か?」
「ああ。この頃、ミラの体調が良くないらしいということをミレから聞いていたので、事のついでに様子を聞いていたら……前触れもなく急に、吐いてしまってな。それで、もしやと思って“身に覚えのあること”を質したのだが……」
 しばらくは躊躇ったように口を閉ざしていたミラだったが、そういう行為があったことを白状した。“白状”といっても彼女は、普段の業務に全く支障を出さずに逢引を重ねていたから、ロカは責めるつもりなど毛頭なかったのだが。
「相手は?」
「マファナ様の、御者を務めている青年だ」
「ロム……ロマリオ・ハウム・スタレッツか!?」
 ラヴェッタは驚きの声を挙げた。まさかこの二人の間に、そういう感情の交わりが芽生えていたとは、露にも思わなかったからだ。なるほどそういう意味では、二人は偲んだ恋をこれまでずっと暖めてきたといえる。
「このことは、マファナ様には……?」
「まだ伝えてはいない。ミラが身篭ったことを先にその御者に伝えたんだが、彼は自らの口でマファナ様に報告をすると言っていた。彼女を、自分の妻にするともな」
「ああ、そうか。さすがは、ロムだな。けじめを知っているよ。そうか、あの二人がな……」
 何度か会話をしたことがあるが、ロムはとにかく従順で誠実な青年であり、マファナの御者として不足のない好男子だという思いをラヴェッタは抱いていた。
また、宮廷にある頃から侍従として職務を共にしてきたミラが、そんな彼と恋仲になり、新しい命をその身に宿した。
(アネッサで芽生えた、新しい命か…)
なにか前途に煌々たる道が出来たような気がして、ラヴェッタは嬉しさを覚えた。


「とっても、素晴らしいことだわ!」
 ロムとミラが連れ立ってマファナのところに赴き、“夫婦になりたい”と申し出た時、マファナは驚きを含んだ喜びの声を挙げた。そして、ミラの体に新しい命が宿っていることを聞いたマファナは、更にその喜色を膨れ上がらせて、興奮したように言祝ぎ(ことほぎ)を二人に与えていた。
「“祈穣の儀”も、そろそろ時季に入っていますから…。あなたたちの結婚式をかねて、アネッサで初めての“祈穣祭”を開くことにしましょう!」
冬が終わり、種蒔の時期を迎えたとき、その年の実りを神に祈る“祈穣の儀”が行われる。儀式そのものは、宴を催して、神を祭るための歌と踊りで騒ぐという単純なものであるのだが、地域によっては盛大な祭事として行われているところもある。
 春というのは、新しい季節の到来に人の心が浮き立つものであり、その心も後押しをするものか、祈穣祭を境にして新しく夫婦になる男女は非常に多い。故に、祈穣祭の最中にその結婚式をまとめて執り行うことも、頻繁なことであった。
「あなたたちに“神酒”を渡すお役目は、わたしが務めますから」
「マファナ様……」
「ああ、とっても楽しみだわ!」
 結婚の際にもっとも重要となる儀式は、前日に神に供えておいた果実酒を、ひとつのグラスで夫婦となる男女が分け合って飲むことである。そして、それを注ぐ役目は“神の代行者”としての資質を求められるため、“神職者”もしくは、“花飾りの儀を終えている処女”が行うことになっていた。
 移民を始め、集落ができたとはいえ、まだ教会のないアネッサには神職者がいない。ロンディアから呼んでくることも考えられたが、“花飾りの儀を終えている処女”という神酒を注ぐ資格を持っているマファナは、進んで自らその役割を引き受けていた。
(外郭の工事……新地の開拓……兵士たちも疲労が深いところだから、慰安の意味でも良い考えだ。それに、新しくできた集落の住民同士の親睦を深めるのにも“祭り”はいい機会になる……)
 ラヴェッタは相変わらず政略上の視点で“祈穣祭”を捉えている。
(オルトリアードが軍旅を催したとは、参謀長であるハイン殿からの報告にもなく、カゲロウからも聞いていない。だが念のため、哨戒の兵は用意しなければならないだろう)
 今アネッサには、六千の兵員がある。ロンディアにいる守備隊と併せると、正規軍は1万を越える兵勢を有している。
(そうだな……)
五百ほどを哨戒部隊として、“祈穣祭”の間だけアネッサ近郊の防備に当たらせようと、明晰な彼女はすぐにその思考を整えた。もちろん、“祭り”に参加できない形になる哨戒部隊には、マファナに陳情して特別な恩賞を用意するつもりだ。
(その部隊は、私が指揮を執ろう)
 マファナや、他の将軍たちにも、息抜きをして欲しい所だ。
ラヴェッタが携わっている“軍師”としての職務は主に、報告として提出されてくる幕僚たちの書簡を総覧し、その情報をまとめ、確認事項をマファナに伝えることである。他の将軍たちとは違い、彼女はマファナの“秘書”と言って良いから、個別の部隊は持っていない。
部隊を持つということは、その兵士たちの生命を預かるということである。もちろん人間同士の連なりであるから、小さな諍いなどもその中で起こる。そういう瑣末事にも注意し、監督していかなければならないから、部隊を率いるということはそれだけでも神経を使うことなのだ。
「ラヴェッタ、どうしたの?」
「?」
「難しい顔をしているわ。……祈穣祭を行うことに、あなたは反対なの?」
 自分の考えに浸っていたラヴェッタは、マファナの澄んだ瞳の色に撃ち抜かれ現実に戻る。そして、その色合いが少しばかり滲みを帯びていることに、彼女の中にある誤解を見出して苦笑した。
「いえ、祈穣祭はとても良い考えです。ただ、不測の事態に構え、備えはしておかなければならないので、そのことに意識が廻っていました」
「そう、だったわね。ごめんなさい、わたしも少し浮かれていました」
 ラヴェッタが考えていることは、将帥としてマファナも意識していなければならないことでもある。降って湧いた慶事に浮かれるあまり、そのことを失念していた自分をマファナは反省した。
「マファナ様は、“祈穣祭”を通じて兵卒を慰労し、住民たちの結束を高める大事な役割がございます。その間、外向きのことは私にお任せください」
「ラヴェッタ……」
 つまり、ラヴェッタは祈穣祭には参加しないということである。一抹の寂しさが宿ったマファナではあったが、
「わかりました。貴女には祈穣祭の間、アネッサ内外の哨戒活動を命じます」
彼女の意思を慮り、将帥としてその件を改めて彼女に一任した。
「承知いたしました。五百の兵をそのために募りますが、祭りに参加できなくなるので彼らには特別な恩賞を用意していただきたく思います」
「そうですね。一週間の休暇と、グラス一杯分の銀貨、それとワインを与えましょう」
「ご配慮、感謝いたします」
 こうして、祈穣祭に向けた準備は内外に始められることになった。


「ロマリオさま……」
 マファナの下を辞したロムとミラは、そのまま並びあって将舎を出た。既に日は落ちており、薄闇の中をミラが起居している宿舎へと向かう。
「どうしたんだい、ミラ」
「ほんとうに、わたしでいいんですか……?」
「?」
そんな中、ミラが不安げな細声で語りかけてきたので、ロムは足を止めて彼女の様子を注意深く伺った。
「わたしは、姓も持たない貧民の出です……それが、ロマリオさまのように偉い人の妻になるのは、なんだか畏れ多い気がして……」
「僕は偉くなんかないよ」
「でも……マファナ様の御車を預かり、馬をお世話して……それに、オスカー将軍の副官として働いておられる貴方は、やはり、わたしにはとても眩しく思います」
「ミラ……」
ロムは、本当の意味において“将校”ではない。だから本人も、自分がそれほど偉い身分であるとは少しも考えていなかった。
先に少し触れたかと思うが、ロムは元々はハインの御者を務めていた兵士であり、いうなれば彼の“陪臣”であった。
ハインは公爵家から下賜された領地を持っている“直臣”である。そして、ロムはそのハインに臣従している兵卒の生まれだ。つまりロムは、ハインが治める領地の中で一兵卒としての職務をこなしていたのであり、すなわち、彼にとっての主君は“ハイネリア公エンリッヒ3世”ではなく“ハインバッシュ・ヴァン・マエストーニ”ということになる。
マファナの侍従長であり軍師であるラヴェッタと、似たような立場にあるといえば少しは理解の助けになるであろうか。端的に言うなら、侍従としてマファナに仕えているミラと同等であるとさえ、言うことができる。
ハインから推挙される形で、ロムはマファナ専属の御者になった。しかしそれは、仕える主がマファナに代わったということであり、彼女は“公女”とはいえ、総帥となった今の立場はハイネリア公に仕える武臣のひとりであるから、“家臣の家臣”という図式が変わらないロムは、あくまで“陪臣”のままなのである。
ところで、ロムとは同僚となる、親衛軍の騎兵隊長を務めているリーエルは、自らの意志でオスカーに臣従しているが、“ヴァン”という称号を与えられていることでもわかるように、その階位は、実はオスカーに等しい。“剣”をあしらった“ヴァン”の紋章は、公爵の名において発布され授与されるため、たとえ領地を持っておらずとも、リーエルもまたれっきとした公爵の“直臣”であることは、その称号と紋章によって認められているのだ。
今のところ、ロムが持っている“ハウム”の称は、農事に携わる家系の者が持つものであって、武官が手にするものではない。御者の主な仕事となる“馬の世話”が、それにあたるということなのだろう。
つまり、身分を気にするミラの心配は、ロムにとっては杞憂に過ぎない。
「だから、気にすることはないんだよ、ミラ」
「難しい話は……その……わかりません……」
 “陪臣”だの、“ヴァン”の称号だの、ミラにはどうにも理解できない話が続いた。
彼女はラヴェッタの手ほどきを受けることで基本的な読み書きはできるようになっているが、両親も知らない境遇でこれまで育ってきたため、無学に等しい。何事にもよく気がつく聡明さを持っているのだが、それを更に磨く機会を得られなかったことが、その知性に限界を生み出していた。
「僕の身分とかは、まあいいよ。とにかく僕は、ミラのことを愛している。それだけはわかって欲しい」
「あっ……」
 少し伏目がちになっていたミラを、力強く自分の下へ引寄せるロム。自分の気持ちを伝える方法は、彼にはひとつしか思いつかない。
「あ、ん……んんっ……」
 顔を起こしたミラの唇をそのまま塞いで、彼女を優しく抱き締めていた。
自分の子を身篭ったと聞いてから、彼女への愛しさは増すばかりである。その気持ちを封じ込めることなど、とてもできそうにない。
「………」
「………」
しばらく、互いの呼吸と心を唇によって繋げあい、その温もりを分かち合って、二人は情熱的な時を過ごした。
「悩むことはないんだ。僕の妻になって欲しい。僕はそれだけなんだ、ミラ……」
「ロマリオ、さま……」
 重なった唇から伝わってきた想い。そして、再び彼の口から紡がれた確かな気持ち。その全てを受け止めたミラは、透き通る淡い茶色の瞳を潤ませて熱い雫で頬を濡らす。
「愛しています……わたしもあなたを、誰よりも……」
 溢れ出す情愛を込めた眼差しでロムを見つめるミラ。そうして言葉にかわる想いを瞳で熱く交錯させた二人は、星の瞬きが包むヴェールの中で、何度となくその唇を重ねあったのだった。



「なんとも、情熱的なキッスですこと」
「………」
「おかげで、わたし、洩らしそうになったんだからね」
「ご、ごめんなさい、ミレ……」
「まあ、いいけどね。眼福だったのは、確かだし」
「………」
“全く同じ顔”と誰もが口にするミラとミレ。双子だから当然であろうか。それが、一室の中で向かい合って、夜のひと時をすごしていた。
彼女たちが住んでいる部屋は、ラヴェッタの進言を受ける形で組織された“衛生隊”にあてがわれた官舎の一室である。衛生隊とは、文字通りアネッサの衛生を司る部隊で、兵舎の清掃、軍装の洗濯、病人の世話、食糧の炊き出しを主に担当している。ちなみに、ロカが常駐している医室もここにあった。
「あ〜あ……」
 基本的に、厠は官舎の脇に設えられており、用を足す場合は外に出なければならない。
不意に便意を催したミレが外に出ようとしたところ、入り口で情熱的な接吻を交わしているミラとロムを見てしまい、どうにも外に出ることが出来ず、長い時間、便意が起こす腹痛に耐えなければならなかったのだ。
 と、いうより、彼女は耐えられなかった。元々、下しやすい体質でもあるから、催してしまってからの我慢は、ミレにとっては不可能に近いことでもある。
「結局、ここでしちゃったわ。まあ、洩らすよりいいけど……」
 ミレが抱えている木桶には、見るもおぞましい泥濘が渦を巻いている。つまり、我慢をし続けるのは無理だと判断したミレは、夜間用の木桶を使って、部屋の中で排泄を行ったのである。
「ミレ、下してるの?」
 ひどい匂いが、部屋に充満している。それに、ミレが持っている木桶の中身は、どう考えても“下痢を起こしているときの糞”そのものである。
「大丈夫……?」
「うん。いつものことだもの」
 下痢に苦しんでいるとは思えないほど、ミレは明るい。そんな妹の表情に、これまで何度も助けられてきたことをミラは思い出していた。
二人は同じ顔をしているが、どちらかというとその性格は対照的だ。薄茶色の髪が内向きになっているミラはその髪型と同じように内向的なところが強く、外向きになっているミレは気持ちが前向きで活発だった。
どうしても陰気になりがちなところのあるミラは、そんなミレの陽気に引っ張られるように、貧しかった頃を生きてきた。
「ウッ……」
 不意に降りた感傷は、突然やってきた胸のむかつきによって中断される。

 ガタッ……

「ミラ?」
 椅子からまるで飛び上がるように立ち上がったミラは、そのまま口元を抑えると自分のベッドの脇に添えられている木桶を取り出して、その中を覗き込んだ。
 瞬間……
「ゲ、ゲエエェェェェ!」

 びちゃびちゃびちゃびちゃ!!

激しい吐き戻しの音を響かせて、彼女は嘔吐をしてしまった。
「オ、オゲッ、オエッ、オエェェ……」
口から迸った吐瀉物が、木桶に惨たらしい様を見せながらびちゃびちゃと底に叩きつけられ、淡い黄土色の淀みを生み出している。
「ミラ……大丈夫?」
 このところよく続いているだけに、ミレは手馴れた様子で、苦しげに吐き戻しているミラの背中を撫でさすっていた。
「う、ぷっ……ウグッ、ゲッ、ゲエェェェ……」
 ミラが嘔吐してしまったのは、部屋中に籠もるミレの排泄物の臭気にあたったからではない。以前、あまりにも状態のひどかったラヴェッタの排泄物をロカのところに運んだとき、既にその部屋に置かれていたマファナのものも合わさった臭気に胸が悪くなって吐いたことはあったが、それは特殊な事情の中での粗相だ。
「外の空気を、吸ったほうが良いわ」
「ミレ……だいじょうぶ……すぐ、おさま……うっ、ぷ……」

 びちゃぁっ! びちゃびちゃびちゃびちゃっっ!!

「………」
 だが、今のミラは妊娠したことによって胃が押し上げられている感じがあり、ふとした拍子で嘔吐感を催してしまうのだ。つまりは、“つわり”が落ち着いていないのである。
胃に何もなければ、込み上げてくる酸い空気をやり過ごすだけで済むのだが、たとえば食事を摂った後に“つわり”を起こせば、胃の中のものはすべて逆流してしまう。
「はぁ……はぁ……」
 それから三度、食道が裏返る苦しみを味わってから、嘔吐は治まった。
「ごめん、ミレ……」
「ううん。でも、ちょっと部屋がすごいことになっちゃったわね」
 ミレの下痢便と、ミラの吐瀉物がそれぞれ満ちた二つの木桶。汚物が生み出す悪臭をこれでもかというほどに漂わせ、部屋の空気をこの上もなく淀み濁らせている。
「部屋の空気も入れ替えないと。これじゃあ、寝られそうにないわ」
「そ、そうね……」
 未だ小刻みに湧き上がってくる嘔吐感をなんとかやり過ごしながら、ミラは自分の吐瀉物が渦を巻く木桶に蓋をすると、それを抱えて蹲っていた体勢から身を起こした。
「あ…。それ、わたしが洗ってくる」
 既に自分の排泄物で満たした木桶を抱えているミレは、それを片手で小脇にすると、空いた手をミラに差し出していた。
「でも……」
「ミラは、部屋の“臭い”をお願い。そこの小棚に“アロセラの種”が入ってるから」
「わ、わかったわ……」
 “アロセラの種”とは、楕円をした粒の大きい殻の固い種で、潰すと甘い香りを出す。たとえば今のように部屋の中で排泄をしたときの後、匂いをごまかすために使われるものだ。種そのものは何処でも手に入るので、芳香の嗜みにも使用されている。
ミレが部屋を出て行ったあと、窓と扉を開放した状態にしてから、ミラは小さな陶鉢を取り出して、中に“アロセラの種”を五粒ほど入れ、かなり使い込まれている木の棒でその種を叩きつけ殻を割り、細かく磨り潰し始めた。この作業が非常に面倒なので、“アロセラの種”による悪臭の抑制は、いまひとつ庶民の間には流布していない。
 ふわ、と甘い香りが立ち込めて、部屋の臭気をごまかしてくれた。
『なんというか、私はちょっと苦手な香りだな』
 宮廷にいた頃、マファナの“排泄部屋”でもこの種は使用していたのだが、この甘い香りについてラヴェッタがそんなことを言っていたのをミラは思い出していた。確かにクセのある香りであるから、好き嫌いは出るかもしれない。
(それじゃあ……あの時……)
 ラヴェッタの部屋で、ひどい状態の糞が渦を巻く木桶を見つけたときのことを不意に思うミラ。
(ラヴェッタは、あんなに酷い匂いの中で眠っていたというのかしら……)
 だとすれば、その精神力は尋常ではない。
考えてみればラヴェッタは、女性の身でありながら戦場に立ち、敵と干戈を交えている。何度も傷をつけられただろうし、相手を傷つけてきたはずだ。もちろん、殺したことも…。
とてもではないが、自分には耐えられることではない。
(………)
 ふいに、種を磨り潰す行為を止め、新しい命が宿った下腹に手を置くミラ。人は互いに交わって生命を作り出す傍ら、やはり互いに相食みあって命を散らすことをする。
(ロマリオさまも……)
 兵士として戦場にある以上は、生命のやり取りをすることになる。彼が“死ぬ”ということも、常にミラに付きまとう現実のひとつだ。
 戦場の中で槍を奮い、勇敢に戦っているロムの雄姿をミラは空想する。ところが、その空想は、矢が至る所に刺さり胸を槍に貫かれたロムの無残な死に様を、不意にミラの中に投影してきた。
(だ、だめよ!!)
 沈みゆく感情を、頭を振ることで押し留めるミラ。どうしてこんなにも自分は陰気なのか、嫌気がさしてしまう。最愛の人の死を、自分で想像してしまうとは…。
(わたしは、あの人の子を産むのだから……あの人の妻になるのだから……)
彼の子を宿し、彼の妻になることを決意した今、その覚悟も丸ごと受け止めなければならない。もちろん、“彼が生きて帰ってくる”ことを信じ抜く覚悟だ。
「ロマリオさま……」
 覆い被さってくる不安に抗うため、愛する人の名を唇から紡いだとき、ミラの中で刻まれていた時の流れは、少しばかりその時間を過去へと戻していた―――。



『……

 ブリブビッ、ブビュッ、ブチュブバアァァ!!

「あ、く、う……ん、んんっ!」

 ビチャビチャビチャビチャビチャァァァ!!

「はぁ、はぁ、はぁ……」
(……?)
 夜明けを間近に控えた薄闇を切り裂く汚らしい音と、ミレのあらぶる呼吸。それが、ミラのまどろみを払い、彼女は目を覚ました。
「う、ううぅぅ〜〜〜……!」

 ブリビチャブバッ、ブブッ、ビチャビチャビチャアァァ!!

(ミレ、ま、また……お腹を!?)
空気をめいっぱい絞り込んでから一気呵成に飛び出したような排泄音が、苦しげなうめき声の後で高らかに起こる。明らかに、それを生み出している者の体調が相当に崩れていと、報せるものであった。
「ミレ!」
「あ、う……ご、ごめん……起こしちゃった……」
「そ、そんなことはいいのっ」
 すぐに床を払い、ミラは、木桶にしゃがみこんで苦しげに蹲っている双子の妹のところに身を寄せる。
「あ、あ、うっ!」

 ブリブリブリブリィッ!! ビチャ、ブバッ、ブリビチャブバアァァァ!!

「あ、はあぁ……」
窄まりが凄まじい隆起を見せたかと思うと、その中心が“バクッ”と口を開き、中から溢れるようにして濁った空気を真っ黒な汚泥を惨たらしく撒き散らす。ミラの見ている前でミレは、土砂のような糞を次から次へと木桶にビチビチ叩きつけた。
(ひどい……それに、臭いも……)
 ミレの腰辺りを撫でさすりながら、ミラは排泄物の状態を見る。
自分とミレは、侍従として宮殿にいたときも、主にマファナのシモに関わる世話をするのが主な役目であったから、これまで色々な状態の糞を見てきた。
ミレが尻から吐き出して木桶に叩きつけているほとんど泥水と化した糞は、その真っ黒な色合いも含めて、彼女の体調が相当に悪いらしいことを伝えてくる。それがわかるのは、経験によるところが大きい。
「ま、また、下っちゃって……」
 下痢に苦しむ中で、ミレは弱々しい微笑を浮かべていた。
「たまんないよね……ほんと……」
確かに彼女は、気温や環境の変化が著しくおこると、それに比例するように腹具合を悪くすることが多い。長年付き合ってきている“下痢症”が再び起こっている事に、彼女は自嘲したのだろう。

 グルルル…

「うっ、き、きたっ……」

 ブバッ、ブバッ、ブビッ、ブッ、ブリブリブリッ!!

その合間にも襲い掛かってきた強烈な便意が窄まりに集中し、幾許も保てず彼女はそれをブリブリと木桶に垂れ流した。
「こ、こんなにきついのは……ひさしぶりかも……う、うぅぅっ!」

 ビチビチビチビチビチッッ! ビチャッ、ビチャッ、ビチャッ、ビチャビチャビチャビチャッッ!! ブリブバッ、ブジュバッ、ブバアァァッッッッ!!!

「はぁ……はぁ……」
「ロ、ロカを呼ぶわ!」
 ここはアネッサ砦の衛生を守る“衛生隊”が起居をしている宿舎だ。そして、衛生隊を司る責任者の一人であるロカは、この舎に設けられている“医室”に常駐している。
「ミレ、ちょっと、待っていてね!」
「う、うん……ご、ごめ……ん、んんんんっっ!」

 ブリブリブリブリッ! ビチビチビチビチッ!! ビチャビチャビチャァァァ!!!

「――……」
「すぐに、連れてくるから!」
 言葉を途中で無くし、噴き出るように尻から溢れる排泄の苦しみに悶えるミレ。そんな妹のうめき声を後にしてミラは、薄衣の寝着であることも気にせずに部屋を飛び出していた。


「“ゲバトの実”にあたったらしい」
 陶製の棒で排泄物をかき回し、中からなにか種のようなものを見つけたロカは、その三日月の形状を確認して診察を下した。
「味が甘いから勘違いをしてしまうんだが、これは“腹下しの実”という別称があるくらいでな。まあ、下薬を作るときは重宝するんだが…。ミレはそれと知らずに食べてしまったようだな」
「あの、洗い場のあたりに生っている紅い実のこと?」
「そうだよ。……ミラも、ひょっとして口にしたのか?」
「え、ええ……」
 今日二人は、久しぶりに雲がひとつも無いほどの快晴に恵まれたこともあって、溜まってしまっていた汚れ物を衛生隊総動員で洗濯していた。
『ミラ、これ、なかなかいけるわよ』
それをすべて干し尽くしてから休憩をしていたところ、ミレがなにやら甘い味のする実を持ってきたので、二粒ほど口にした。その淡い甘さが、“洗濯”という重労働に疲れた体に染み入ってきて、とても心地よかったのを覚えている。
 ところで“洗濯”が重労働というのは、この時代には、当たり前だが“洗濯機”なる利便なものがないからである。水を大きな盥に溜め、その中に汚れ物を押し込んで、足で踏んでもみ洗いをするのが、この時代の主な洗濯の仕方だ。
何度も水を汲む、何度も足で踏む、力を込めて揉んで絞って水気を切る。
おそらく、現代人には想像もつかないほど力をつかう仕事であるから、文字通り“重労働”である。もっとも、便利なものが増えた現代でも洗濯が“重労働”なのには、変わりがないのだが。一度、洗濯をしてみることで、それは味わえるであろう。
 余談ついでに、もうひとつ。
“衛生隊”は、ミラとミレを含めると36人がその総数であり、アネッサにやってきた有志の女性たちがその構成員である。中には8人ほど少年もいるが、これはその女性たちが連れてきた自分の子供たちだ。
なにしろ、彼女たちのほとんどが、アネッサに駐屯している兵卒の身内であり、夫・父・兄弟の助けになろうと決起して集まったのだ。そして、軍を率いているのが、同じ女性であるマファナ公女だということも、彼女たちに影響を与えたのは間違いあるまい。後の話になるが、その流れを受ける形で、アネッサ移民政策は始められるのである。
「“ゲバトの実”は効果が出るのが遅いからな。ミラもそれを食べたというのなら、とりあえずこの薬を渡しておこう。腹が下りだしたら、まずは全てを出してしまうんだ。その後で、これを飲むといい」
 結局、下痢が治るためには、体が悪いものだと判断した物体をすべて体外に出すより無いのである。
「“ゲバトの実”にあたっても、出すものさえ出してしまえば、すぐに治まる。ただ、ミレは腹の調子を崩しやすい。今日は、安静にさせておいたほうがいいだろう」
「そうね。そうしましょう、ミレ」
「ご、ごめん……」
「念のために衛生隊の中から、誰かをつけておこう。それとも、ミラが付いているか?」
「そうしたいけれど……今日からまた、マファナ様の“番”をしなければいけないから……」
 ミラとミレは、マファナの排泄物の管理を受け持っている。日中から夕方辺りまで、交代でマファナの官舎付近にある彼女のための“厠場”で番をして、マファナが排泄に及んだときはすぐにその木桶を取り出し、ロカのところへ持っていくという、マファナの健康に関わる大事な役割である。また、テントの中で排泄しているマファナを覗こうとする不届き者を防ぐ意味もあり、番に立つときは槍を持つ。
 ミレが体調を崩したとあれば、今日はひとりでこれをこなさなければならない。
「ゆっくり休んでいるのよ、ミレ……」
 妹の髪を優しく撫でてから、ミラはロカに後を託して部屋を出ていった。



「あら……?」
 太陽が西に傾きを始めた所で、マファナが“厠”にやってきた。今日、二度目である。
「ミレは、どうしたの?」
 何度か交代を繰り返す“番”であるはずなのに、今日はミラが常にそこに張り付いているので、マファナはそれを怪訝に思ったらしい。
「お腹の調子を崩してしまって……」
「それは、いけないわ。ロカに診てもらいましたか?」
「はい。ロカの話ですと、何でも……」

 グギュル……

「?」
「ご、ごめんなさい」
 マファナとミラの会話を断ち切ったのは、唸るような異音であった。見れば、マファナの右手がそれとなく下腹に添えられ、太股もなんとなく窮屈な具合に重ねあっている。
「マファナ様……?」
「ちょ、ちょっと、ね……」
 考えてみれば“厠”にマファナがやってきた理由は、用を足すため意外にはありえない。ミラと立ち話をするために、わざわざこんな所に足を伸ばすことはしないだろう。
「も、申し訳ありません!」
 マファナは身分の貴賎を問わず、親しげに皆に接する公女である。その優しさに甘え、侍従としての自分もわきまえずに、話の中に引き込もうとしてしまったミラは、畏れ多いその行動を恥じた。便意を催した状態のマファナを引き止めるという、何と罪の深いことをしてしまったのだと…。
「そんなに、頭を下げないで……うっ」

 グルル……グギュルル……

「……し、失礼するわね」
 恐縮したように身を竦ませているミラに、何か語りかけようとしたマファナであったが、いよいよ余談を許さなくなってきた腹鳴りに急きたてられるように、テントの中に身を入れた。
「………」
 しばらく続く、沈黙。そして…

 ブビュブブッ! ブリブリブリッ!! ブッ、ブブッ、ブビッ、ブビッ、ブブブッ、ブリブリッ、ブリブリブリブリッ、ブバッ、ブチャッ、ブビブバブババァァ!!

『うっ……ん、んっ……』
 息の長い排泄音が、響いてきた。最初の噴出で、かなり大量の軟便が木桶に叩きつけられたのであろう。凄まじい音を、後に残して…。
『はぁ……くっ……』

 ブビビビッ、ブビッ、ブブッ、ビチビチビチビチビチビチビチィィィィ!!!

(マファナ様……)
マファナのこもった吐息の後で、空気を震わせる汚らしい音がその耳を刺激してくる。耳を覆いたくなるような汚らしい排泄の音だが、彼女はそれを、耳をそばだてて真剣に聴き続けていた。
それは、ロカに言われていたことでもある。ミレとともに汚物を扱う侍従としてマファナに仕えるようになったときに、既に専属の宮廷医として彼女の健康を司っていたロカから、“状態はもちろんだが、音も聞き漏らさないように…”という注意を受けていた。
それを彼女は、アネッサに来てからも遵守している。

 ブリブリブリブリッ、ブビバジャッ! ビチャビチャビチャビチャビチャアァァァ!!

『はぁ……はぁ……ん、んんっ……』
 苦しげな吐息と、汚い旋律。これは、マファナの腹具合を含めた体調が、またしても下降気味になっていることの証であろう。
(戦いがなくなってからは、随分と状態も良くなっていたのに……)
 先の陽動戦を前に、夜間に部屋の中でひり出したと思しき糞が、最近では最悪の状態だった。それが、オルトリアードの撤退に伴う戦闘の停止からは、徐々にではあるが回復の様子を見せるようになっていた。ここの“厠”で回収する便も、部屋の中で使われた木桶の中にある排泄物も、泥水ばかりだった頃に比べれば、随分と形のあるものが残されるようになっていたのだ。
『んっ、んうぅぅっ!!』

 ビチビチビチビチビチィィッ! ブリュリュッ、ブリブリブリブリブリブリィィィッッ!!

『はぁ……く、は……あぁ……』
「マ、マファナ様……」
 激しい爆裂がそれから何度も続いた。とうとうミラは耐えられなくなり、テントに向かって声をかけた。
「調子が、お悪いのですか……?」
『だ、大丈夫よ、ミラ……う、くっ!』

 ビチャッ、ビチャッ、ビチャブリブバビチャビチャビチャァァァ!!

『く、ふぅ……ふはぁ……』
 “大丈夫”という言葉の説得力を無くす排泄音は、その後も長く続いた。
(ああ、おいたわしい……あんなに、お下しになられて……)
 宮殿にいた頃から、マファナは下痢を起こしやすい傾向があった。入れ物の中で激しく渦を巻く泥水のような糞を、ミラは何度となく目にしてきた。部屋の外まで響く音と、部屋の中に篭る凄まじい臭気も同様にしてだ。
(あっ……)
 ふと、自分の身を振り返ってみる。激しい排泄の音を聞いているうちに思い立った。自分は最近、糞をしただろうかと…。
(そういえば、随分と止まっているのではないかしら)
 妹のミレは腹が弱く、マファナ以上にすぐに下してしまうのだが、ミラは全くの逆で、かなり便通が悪い。放っておくと、平気で一ヶ月は便意らしい便意を感じないまま時を過ごしてしまう。
(………)
 意識してみると、下腹がなんとなく重い気がした。滞留を続けることによってありとあらゆる水分を抜き取られ、凝り固まった廃棄物がそこに鎮座しているのだろう。
(“ゲバトの実”も、効かないのね……)
 下薬として使用されるほど、腹を下す効果の高い“ゲバトの実”を誤って食しても、ミラの強烈な便秘は解消されないらしい。
「ふぅ……」
ため息を零して、己の身体を嘆くミラだったが、“ゲバトの実”が効かないという彼女の観測は、間違いだった。

 グギュルル……

「えっ……」
 下腹に溜まっていた重みが、まるで何かの前触れのように震えを生んだのだ。腹の奥に向かって蠕動が収束してゆく感じが、ミラの背筋にざわざわと寒いものを与えた。
(こ、これ、は……)

 ギュルルルルルッッ! グロロロロッ!! ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ!!!

「ひ、ひぅっ!?」
 準備は終わったとばかりに、本格的な鳴動が腹の中で唸りを挙げる。腸のありとあらゆる所にへばりついていたと思しき滞留物が、まるで土砂崩れを起こしたように駆け下り、ミラの窄まりを一気呵成に襲撃してきた。

 グッ、グゥゥゥ……ブビィィィッッ!!

「あ、やっ……!!」
 奇襲を受けた窄まりは、抗う力を持っていなかったかのように簡単に口を開き、ぬくんだ空気を吐き出してしまう。
(う、嘘……わ、わたし……)
 あわてて括約筋に力を込めて、開いた窄まりの口を閉めるミラ。
きゅ、と尻の内側から押しあげる筋肉の動きに合わせるようにして、直腸に集まってきていた土石流は腹の奥に舞い戻ってきた。
(あ、あぁ……)
 スカートの上から指で、空気が洩れてしまった窄まりの所に触れてみる。……尻の溝に、なにかが貼りつく感触があった。
「そ、そんな……そんな……」
 空気の中に、かすかな糞気が混ざっていたらしい。それが、最初の放屁でわずかに漏れ出して、ミラの下布に汚れを与えたのだろうか。
 だとすればミラは、ほんの僅かとはいえ“脱糞”をしてしまったことになる。

 ギュルルルルッ! ギュルゥッ!! グッ、グウゥゥゥゥ―――……

「うっ! ん、んんっ……だ、だめっ!!」
 土石流の奇襲を受けた窄まりは、全開になってしまう前に何とか口を閉ざしたものの、漏れ出た空気によって相当な耐久力を失っていた。

 キュッ……

 それでも健気に、主人を恥辱の極みから救おうと、括約筋は指令通りに職務をこなしている。直腸の内側にどんどんと溜め込まれている排泄物の氾濫を防ぎ、押し戻そうと奮闘しているのだ。

 ギュルル……グル、グル……ゴロロロロ……

「あ、あぁ……く、苦しい……お腹が……い、いやぁ……」
 だが皮肉にも、その奮闘が更なる苦痛をミラに起こしていた。なにしろ、ひと月以上も溜め込まれていた廃棄物が、これまで音沙汰もなく鎮座していたのが嘘のように一気に暇を告げてきたのだから、その容量の大きさに耐え切れない腹が痛むのは当然である。

 グッ、グウゥゥゥゥ!!

「ひ、ひぃっ!!」
 うねり、絞り、捻るような腸の蠕動。窄まりを押し広げ、ブリブリと洩れ溢れそうになる糞の塊…。
『ん、う、んうぅぅっ!!』

 ブリビチャブバアァァ!! ブビッ、ブビッ、ビチビチビチビチビチィィィ!!!

『はぁ……はぁ……ふぅ〜』
 そんなミラの苦しみを他所に、テントの中ではマファナの心地よさげな吐息が響いた。状態が悪いとはいえ、腹の中で渦を巻いている悪意を全て、尻からぶち撒けて彼女は解消しているのだ。さぞかし、気持ちがいいはずである。
排泄欲は本能の中でも最上級におかれる欲求だから、それが果たされるときは至上の悦楽を人は得ることが出来るのだ。
(う、うらやましい……わたしも……あんなふうに、してしまいたい……!)
 人は己の身に難儀が降りかかれば、その立場にいない他人をうらやむものだ。隣の家には、あんなに綺麗な花が咲いているのに…お向かいの家には、立派な庭園があるのに…と。
(は、はやく、したい……お、お願いです、マファナ様……はやく、終わって……わたし、したいんです……したいんです……はやく、したいの……)
 マファナに絶対の忠誠を抱き、熱く尊奉しているミラでさえ、のっぴきならない状況が生み出した“妬み”に心を支配され始めていた。
『あっ……ま、またっ……ん、んんっ!』

 ブリブリブリッ、ブッ、ビチビチブバアァァッ!!

(そ、そんなっ!?)
 終息を迎えつつあった中での排泄行為が、再び始められた。どうやらマファナに第二の波が襲い掛かったようである。

 ギュリュリュリュリュ!! グルッ、ゴロッ、ゴルゴルゴルゴル!!

「あ、あはぅぅ!!」
 そんなミラの状況を好機と見たか、狂気を纏った便意が一気に襲い掛かってくる。
 太股をぴっちりと締め、尻を僅かに突き出す体勢をとり、口を広げて便意を噴出しそうになる窄まりにスカートの上から指を添えて、ミラははっきりと“糞が出そうなのを我慢している”格好で抵抗を続けていた。誰かが横を通り過ぎれば、その状態は一目で瞭然となるだろう。
『なんだ、あんた。そんなに糞がしたいんなら、そこらで尻を“ぺろっ”と出して、ブリブリやっちまえばいいじゃないか』
 男女共に、野糞が珍しくない時代である。苦しんでいるミラの様子を誰かが見つければ、そんなふうに声をかけるかもしれない。
しかし、ミラにはやらなければならないことが色々とある。それを終えるまで、個人的な理由で動くことは、彼女の“職務に対する誇り”が許さなかった。
(まだ、しなければならないことがいっぱいあるのに……)
 まずは、マファナが排泄を終えたところで木桶をテントから取り出し、新しいものと取り替えてから、糞が充満している方をロカのところに持っていく。そして、その糞を、堆肥を作る“肥田”に撒き、空になった木桶を洗って、それで全ての作業が終わる。
(も、もつの……我慢できるの……?)
 少なくともそれを終えるまでは、ミラは糞が出来ない。わかっているからこそ、ミラは洩れでそうになる便意の状態に、悲観的な予測しか立てられなかった。
(も、洩れちゃう……こんなの、我慢できないわ……無理よ……)
 作業の全てを終える前に限界を向かえ、ブリブリと糞を垂れてしまうだろうということに…。

 ギュルルル! グッ、グウゥゥゥ――……!!

(で、出そう! も、もう出ちゃう!! あ、あっ……あくっ……)

 ギュウゥゥゥ……キュッ……

「う……ぐぅ……と、止まった……よかった……」
 開放しそうになる窄まりを、それでも意志の力で締め上げて、ミラは込み上げてきた便意を屈服させることに成功した。
『あ、く、くぅぅ!』

 ビチビチビチビチビチッ! ビチブバッ!! ブリブバブバブババババァッァ!!!

『はぁ……はぁ……く、う……はふぅ……』
かたや、テントの中では相変わらずの凄まじい下痢音が響いている。なにしろ、既に木桶に跨り尻を沈めているマファナには洩らす恐れなどないから、込み上げてくる便意に対し“我慢”の必要もなく、それを思うままにぶち撒けることが出来るのだ。

 ギュルルッ、グルグルグルグル!!

(ま、また来た! も、もう堪忍してぇっ!)
 太股をぴっちりと閉じ合わせ、腰を上下させてあからさまに便意を堪えているミラ。
『はぁ……はぁ……う、うぅっ!』

 ブリュビバッ、ビチャビチャビチャッ、ブリブリブリブリブリィィィ!!

『あふ……く、ふぅぅぅ……』
そんなミラの苦悩も知らず、マファナの排泄はその後も長く続いたのであった。



「はぁ……はぁ……はぁ……」
 引きずるように足を動かし、衛生隊の宿舎へと向かうミラ。
(早く、ロカにマファナ様のものを診てもらって……それで……これを……)
両手でしっかりと抱える蓋をされた木桶には、マファナがひり出した糞がたっぷりと満ち満ちていた。かなり水溶性の高い便なので、歩くたびに“たぷん”と揺れる感触が掌から伝わってくる。
(そうしたら……できる……できるんだわ……)

 ギュルゥゥゥ!!

「ひ、ひあっ……!」
ミラの中で渦を巻く便意は相変わらず余談を許さない。おそらく、ミレだったら既に洩らしているだろう。
 ミラが強度の便秘症を持っていることは既に述べた。故に、ありとあらゆる水分を失ったそれが排泄されるときは、凄まじく硬い大量の糞が彼女の慎ましやかな尻の下でとぐろを巻く。
それをひりだすためには、相当の“いきみ”が必要になるので、いつのまにか彼女の腹筋と括約筋は鍛えられ、身体的な“我慢強さ”が作り上げられていた。正直な話、ここまで我慢できる時点で、既に常人を超える忍耐力をミラは持っている。

 こん、こん……

「誰か?」
「ミ、ミラです……マファナ様のお致しになったものを……」

 ギュルルルルッッ!!

(うくぅっ!!)
 不意に訪れた強烈な波が、ミラの言葉を奪った。
「どうした、入らないのか?」
医室の扉が開き、部屋の主であるロカが顔を出す。両手でマファナの“聖糞”が充満している木桶を捧げ持ちながら、いささか俯きがちに体を震わせているミラを見て、彼女はいぶかしみを顔色の中に混ぜ合わせていた。
「ミラ?」
「あ、あの……マファナ様、またお腹の具合が……」
「……そのようだな」
 蓋をしても漂ってくる凄まじい汚臭。ミラの様子に怪訝なものを感じていたロカだったが、それ以上に優先しなければならないものが目の前にあり、彼女は意識をそれに集中させた。
「具合を確かめよう。入りたまえ」
「は、はい……」
 そのまま医室にミラは入る。ロカは口元に麻布を巻くと、ミラに木桶を持たせた状態でその蓋を取り、改めて中身の様子を確認した。
「む、う……」
 ひどいものである。泥水といってよい状態の糞が木桶を満たし、更に強い臭気を立ち昇らせている。陶製の棒でそれを掻き混ぜると、その臭気がさらに拡散し、ミラは強い刺激を鼻腔の奥に受け、思わず咽そうになった。
「………」
 見るのもおぞましい泥濘の渦を、それでもロカはしっかりと凝視している。鼻先まで木桶に近づけて、糞の中身を細かい所まで診察している。
(ほんとうに、すごい人……)
 ミラも長く排泄物に関わる職務に従事していたから慣れているつもりだ。しかし、麻布で口元を覆っているとはいえ、あれほどに顔を近づければ、汚臭をまともに浴びることになる。おそらく、その鼻腔には凄まじい臭気が篭っているはずである。
「うん?」
 ロカが、糞を掻き混ぜる手を止めた。
「これは……」
「あっ」
 ミラもまた、ロカと同じものをその視界に捉え、思わず息を呑んだ。
「ゲバトの、種だわ……」
「そうか。マファナ様も、これをお食べになったのか……」
 “ゲバトの実”については既述した通りである。常人でもその実にあたれば、しばらくは下痢に苦しむのだから、腹を下しやすいマファナがそれを食したとあればどうなるかは、想像に難くない。
「洗い場に顔を出されたのか?」
「い、いいえ……」
 昨日は一日中、洗い場で大量の洗濯物と格闘をしていたミラである。そして、ロンディアに色々と用事のあったマファナは、ラヴェッタとオスカーを伴い2日ほどアネッサを留守にしていたので、夕方ごろに戻ったとはいえ、洗い場に顔を出す用事も時間もなかったはずだ。
「となると、他にも群生している所があるのかもしれないな」
 “皆にも注意が必要だな”と、ロカは呟くように言うと、再び糞を掻きまわして状態の確認をその後もしばらく続けた。
(………)
 不思議なことに、この部屋に入ってからミラの便意はおとなしい。扉を開ける前にやってきた強烈な波をやり過ごした後は、かすかな蠕動と窄まりへの緩い圧迫感だけが残っていて、ミラには充分に我慢が出来るところまで落ち着いていた。
(これなら……これなら……)
 楽観が、ミラの心に宿る。
「うん、他に異常はないようだ」
「そ、そうなの……よかった……」
 あれだけ苦しみの呼吸を繰り返し、外まで響くほどの下痢便を叩きつけていたマファナだ。ひょっとしたら何か罹病を患ってしまったのではないかと心配したミラは、ロカの言葉を受けて安堵の吐息を洩らした。
 もちろん、その安堵の中には“これで木桶を片付ければ、やっと糞ができる”という個人的な思惟も含まれている。彼女らしくない自分勝手な思考であったが、状況を考えればそれを責めるのは酷であろう。
「あとでラヴェッタを呼んできてくれないか?」
「え、ええ。わかったわ」
 ロカはマファナの糞に何らかの異常を見たとき、必ずラヴェッタと確認を取る。ロカはミラにその言伝を与えると、糞の汚れがこびりついた陶製の棒を布で綺麗に拭い始めた。診察は終わったということである。
「そ、それじゃあ、わたしは……」
「ああ、ご苦労だったな」
 蓋をされた木桶を持ち直し、ミラは医室を後にした。



(はやく、はやくこれを……)
 残された作業のひとつである“聖糞”の後始末…。これを撒くべき場所である、堆肥を作るための“肥田”は居住区からかなり離れたところにあるため、少しばかり距離を歩かなくてはならない。

 グッ、グルッ、グギュルル……

(ま、また、お腹が………)
 医室にいる間、嘘のように治まっていた便意が、歩き始めた途端にぶり返してきた。一歩一歩毎に蠕動が下腹で起こり、苦痛を生み、その源になっている質量のある悪意たちを窄まりのところに集めていく。

 キュッ――

 いつのまにかミラはひどい内股になり、かすかに腰を引いた状態で歩くようになっていた。窄まりを少しでも引き締めて、便意の噴出を堪えるためである。それほどに、再び襲来してきた便意の波は、体の中で荒れ狂っていた。
(はやく……はやく……)
 早足で道を行くミラ。しかし、内股であるためにその一歩はあまり大きく踏み出せず、小刻みに鳴っている歩幅が、地面を踏む振動を何度もミラの腹部に与え、その蠕動に拍車をかけていた。

 ギュルルルルッ!!

「く、ひっ、ひぅっ!」
 ついにその足が止まり、ミラは微かに腰を沈めて体を震わせた。尻の窄まりに襲い掛かってきた激しい便意がいよいよ臨界に達し、我慢が出来なくなってきたのだ。

 グウゥゥゥゥ……

 と、塊が大挙して窄まりの内側に集められ、入り口を無理やりにでも開け放とうとしている。ひと月という滞留期間を経ている排泄物だから、その物量からして既に宿主を圧倒していた。
(まだ……まだよ……こんなところで……)
 尻の溝をきつく締めあわせ、窄まりの口を絞り、洩れ出そうになる糞をなんとか押し上げる。歩みを刻んでは立ち止まり、駆け下ろうとする便意を気合で腹の中に押し込んで、そしてまた歩を進めるという、常人には想像もつかない奮闘をミラは繰り返していた。

 グギュルル……ギュルルッ…グウウゥゥゥ……

「う、んっ……くっ……ん、んぐっ……」
 窄まりの周囲は既に感覚がない。それでも、括約筋になんとか刺激を与え、襲ってくる波を次から次へとやり過ごす。
こうなってくると、彼女の精神力には賞嘆せざるを得ないだろう。
 しかし、である。
「あっ、あ……や、やだっ……!」

 プッ、プピッ、ププッ、プスゥゥ……

「くっ……だ、だめ……」
 その意志に、体の機能が応えきれなくなっている。窄まりが微かに口を開いて、糞と粘膜のわずかな間隙に充満していた臭気が少しずつ漏れ出してきた。

 プッ、ププッ、ブッ、ブリッ、ブビッ、ブビビビビィィィ!!

「と、止まって……だ、だめぇッ……」
 漏れ出るどころではない。はっきりとした高い音を響かせて、本格的な放屁が次から次へと窄まりから吹き上がり、ぬくんだ感触を下布に残していった。
(やだ……おしりが……)
ほんの少しだけぺっとりした感触があるのは、臭気にかなりの水気が含まれているからだろう。
(急がないと、も、もう……)
 糞気をやり過ごすために足を止めていたミラは、放屁の発露という、いよいよ限界を報せる体の反応に背筋を冷やし、慌てたように歩みを再開した。

 ブッ、ブピッ、ブブッ、プッ、ブプッ……

「はぅ……くっ……ん、んんっ……」
 一歩を踏み出すごとに窄まりから飛び出す放屁。なにか、得体の知れない質量感が、窄まりの入り口で群れを成している。
 それは、糞である。放屁を繰り返すことで少しずつ入り口を浸蝕してきた糞の塊が、いよいよ窄まりの抵抗を完全に駆逐して、ミラの体外へとひり出ようとしているのだ。

 ブブッ、ブビッッ……グヌヌヌッ……

「う、うぐっ!」
 明らかに大きな質量が窄まりを抉じ開けにかかった。もしもその宿願が果たされれば、ミラは完全なる“脱糞”という恥辱を味わうことになる。
「お、おしりが……お腹も、もう……あ、あぁ……」
 だが、既に限界であるということはミラ自身がよくわかっていた。目指す“肥田”は、遥かに先であり、どう考えても敗北は必至だ。
「………」
 ついに脚が止まるミラ。
そして、彼女は自らの両手に捧げ持っている、マファナの“聖糞”が詰まった木桶に、何かすがるような視線を注いだ。
(あの木陰で……これを使って……)
 糞をしてしまおうかと、彼女に黒い思惟がよぎった。
いくら野糞が一般的に行われているとはいえ、やはりその行為に並ならぬ羞恥心を催すのは婦女子であるなら当然で、それに、たっぷりと地面に撒き散らした自分の糞が衆目に触れるというのもミラには耐え難い恥じらいを覚えた。
(誰も、見ていないし……どうせ、ロカの診察は終わっているのだし……)
 木桶に満ちる“聖糞”の中に、自分の致した糞が加わっても特に問題はないだろう。どうせこれはもう、“肥田”に撒かれるだけのものであるのだから…。
(そ、そうね……そうしましょうか……)

『二人とも、私のお友達になってくれない?』

「!!??」
 自分の考えに従おうとしたミラの脳裏に、宮殿に招いてくれたマファナの言葉が蘇った。
 ……何度か触れたとおり、ミラとミレは生まれたときから孤児で、貧民たちが寄り合って暮らす小さな集落街に住み、日雇いの花売りや農事手伝いを転々とすることで少ない糧を得て生活してきた。
 当然、常に飢えの苦しみが二人にはあった。ミラはそれを水などでごまかし何とか凌いでいたのだが、ミレは耐え切れないまま、店で売られている果物などに手を出すようになってしまった。何度か捕まり、ひどい折檻を受けて、よろけるようにして還って来たミレを、ミラは泣きながら介抱していたものだ。
 それでもミレは、盗みをやめなかった。集落には自分以外にもひもじい思いをしている子供たちがいる。ミレは、初めこそは己の飢えを凌ぐために盗みを行っていたが、いつしかその子供たちに食べ物を与えるため、盗みを繰り返した。
そんな姿に眉をひそめていたミラも、食べ物を口いっぱいに頬張り、笑顔を取り戻していく子供たちの姿を見て、気がつけばミレに手を貸すようになっていた。
『この泥棒猫どもめ! もう、容赦しねぇぞ!!』
 どちらかといえば、穏やかな心根を持っている公都・ライヒッツの人民だが、堪忍袋の尾はいつか切れるものだ。明らかな待ち伏せをされ、二人はそれに捕まり、後ろ手に縄で縛り付けられて、激しい折檻を受けた。まるで見世物のように、衣服がぼろぼろにまるまで棒で殴られたのだ。
『おやめなさい!!』
 殴打される痛みに意識が朦朧とする中、凛とした声が耳に心地よさを生んだ。その持ち主は、お忍びでライヒッツの街を練り歩いていた公女・マファナである。
『確かにこの子達は罪を犯しました。しかし、これはやりすぎではありませんか? 法を犯したのであれば法によって裁かれるのが道理でありましょう』
『私刑(リンチ)もまた、法を犯す行為だ。店主、それはわかっているだろうな?』
 あどけない少女ふたりを前にして、ミラとミレを途中から楽しむように殴りつけていた店主は身を竦ませた。相手が公女だとは知らないものの、その全身から溢れ出る高貴でありながら峻烈さを持つ独特の雰囲気に気圧されたのだ。
『ラヴェッタ、この裁きはどのようになるのかしら?』
『窃盗は、その軽重により罪を定めるとあります』
『そう』
 マファナは自ら二人の縄を解き、衣服が破れ、ほとんど裸同然になってしまったその体を覆い包むために、羽織っていたマントを肩にかけた。
 それから、店主に今回までの被害がどれほどのものか聞いた。ちなみに、金貨にして十枚分になるというその盗みの罪は、“十打の刑(棒で十回、打たれる刑罰)”に相当する。
『ならば既に、二人は罰を受けたことになりますね』
少女の華麗な裁きは、群集の喝采を生んだ。その騒ぎを避けるようにして、マファナはラヴェッタと共にミラとミレを近くの宿場に休ませ、街医者を呼んで、二人の治療を頼んだ。
 全てが落ち着いた後、眠りから覚めたミラとミレは慟哭した。人のものを盗み続けたという、これまで麻痺していた心の痛みが、マファナの優しさに触れることでにわかに蘇り、そのあまりの情けなさと、手厚い慈悲に感動する心とが混ざり合い、あらぶる感情を整理できなくなって、凄まじい哭鳴になったのだ。
『事情は、わかりました』
 慈母の如き穏やかな表情で二人の慟哭を受け止め、その体を優しく抱き締めるマファナ。彼女は今でこそ宮殿で不自由のない暮らしをしているが、12歳になるまでは庶民の中で生活をしていたから、二人の苦しみは痛いほどにわかった。
『ねえ、せっかくこうして逢えたのだから、お友達になってくれませんか?』
『マファナ様の身の回りを世話する人手が足りないのだ。どうだろう、やってくれないか?』
 そのまま二人は、連れられるようにして宮殿へと招かれた。そこで、侍従の誰もが忌避する“排泄”にまつわる身の回りの世話を、与えられたのである。
もちろん、侍従であるのだから、マファナから給金が出る。そのうちの半分ずつを出しあい、マファナにお願いをする形で、ミラとミレは自分たちが暮らしていた貧民街の福祉活動に廻した。
『野卑な公女の人気取り』
貧民であるミラとミレを侍従に迎えたマファナは、宮中の心ない公族たちからそのように揶揄された。しかし、実はこの一件は、ライヒッツの中でも民衆たちの喝采を呼び、結果として公爵家に対する内外の声望を高めることに一役買った。
『どうやらマファナには、政に優れた才覚があるようだ。あやつを育てたヴェルエットは、噂どおりの良い教育者であるな』
 愛妾・オルナの子でありながら、マファナには全くといっていいほど関心を寄せていなかった先君・エンリッヒ2世だったが、企図せぬ人気の高まりを生んだこの公女に、ようやくにして好意的な意識を注ぎ始めたのである。ただ、“己の治世に有用な人材”として娘を視界に捉えた辺りに、独立を果たしたこの“名君”の、人としての冷たさはあるかもしれない。
マファナに与えられる年金が増えたのも、エンリッヒ2世が彼女を認めた証のひとつであったろう。しかし、この後まもなく先公は病を得て俄かに薨じてしまうので、この親娘の情意は最後まで真なる部分で通いあうことはなかった。
 ミラとミレが侍従として携わる仕事は、排泄物を始めとした“汚物”にまつわるものが全てである。侍従職は主に、文官の子息・子女がそれを勤めることになっているから、汚物に慣れないこともあってか、どうしても進んでやろうとしない。当番制でも布いて、嫌々やるのが常の話だ。
 だが、マファナに救われた二人は、その仕事を嬉々として行っていた。マファナの排泄物が満ちた木桶を、宮廷医であるロカのところに運び、それを綺麗に洗う…。マファナの住んでいる居宅の“厠”で、糞尿の染みが残っている所を、それこそ隅まで綺麗にして…。
自分たちの働きが、貧民街に福利をもたらすということもあっただろうが、やはりマファナに仕えることを二人は心から喜んでいた…。
(………)
不意に降りたミラの感傷であった。しかしそれが、排泄欲に屈服しかけるあまり理性を失っていたミラに正気を戻した。
(わたしは、なんということを……)
同時にミラは、自分が手にしている木桶に“糞をしてしまおう”と考えていた自分の愚かな思考を恥じた。それは、排泄物の扱いを任され、自分を信頼してくれているマファナを裏切ることだ。
(申し訳ありません、マファナ様……)

 ギュルルッ、グルグルッ、グルルル!!

「んっ……く……」
 正気に戻ったことで、己の腹を責めさいなむ激しい便意も思い出す。だが、理性による強い抑制が蘇ったミラは、放屁を繰り返すほどに忍従の限界を超えた窄まりに更なる奮起を促し、またしても便意を屈服して見せた。
(耐えてみせるわ……これしきのこと……)
 そうして、三たび、足を踏み出すミラ。腰を引いて、内股であるという滑稽な体勢は変わらないが、その意志の強さは限界に屈しかけた時の比ではない。

 プッ、ブピッ!

「くっ! う、うぅっ……」

 ブブッ、ブッ、ブリッ、ブリッ……

「む、ぅ……ん、んぅ……」
 どうしても脚を動かせば、窄まりは尻溝の中で微妙な蠢きを起こす。時折、かすかな隙間ができると、それを突くようにして放屁が飛び出すが、ミラは臭気の噴出のみにそれを留め、中身の漏出は防ぎ続けた。信じられないほどの忍耐力である。
「も、もう少し……」
 “肥田”独特の臭気が、ミラの鼻腔に入ってきた。目の前に見える、柵に囲まれた黒い土壌がそれである。

 ブッ、ブリブリッ、ブブブブブゥゥゥ!!!

「あ、うっ、くぅ……」
 “あと少し”という心の安堵が生み出した弛緩は、一瞬だけ窄まりの力を奪った。開放を求め続けながらそれが果たされない憤懣を、大挙して押し寄せる圧迫感によって訴えていた便意はその隙を逃さず、これまでの中でも一番激しい放屁がミラの尻で音を立てた。
 ぬくんで、湿った空気が下布に沁みこむ。しかし、それが一段落つくと下布はいつもと変わらない質感を尻の肌に残すだけだ。まだ、完全なる“脱糞”は犯していない。
(も、もう、少し……あそこなら、そのまましてしまってもいいわ……)
 “肥田”がいよいよ目の前に迫ってきた。ミラは、マファナの糞がたっぷりと満ちている木桶の中身をそこに撒いた後、自分もその場所で排泄をしようと考えていた。結果としては肥田の中で“野糞”をすることになるのだが、ナレノハテたちが最終的に行き着く場所であることに変わりはない。それに、この“肥田”に近寄る者はほとんどいないから、木陰がなくとも、晒した尻からブリブリと音を立ててひり出される糞の様子を見られる恐れはないだろう。
「えっ……」
 そう、思っていた。
「やあ、ミラ」
「あ、あっ……ロ、ロマリオ……さま……」
 なんと、“肥田”には人がいたのだ。そして、その人物はミラも良く知っている顔だった。
「厩の藁が随分と汚れてしまって。取り替えた分を、持ってきたんだ」
 ロマリオ・ハウム・スタレッツ。“ロム”と皆には親しみをこめて呼ばれている、マファナの御者を務める青年である。
自分と同じように、マファナに近い場所にいる人物なので、ミラもよく顔をあわせることがあったのだが、丁寧なその物腰と、清潔感と誠実さが溢れるその笑顔に、ミラは始めから強い好感を抱いていた。
 それだけではない。
マファナの兵車を引く馬が起居する厩の管理もロムが預かっているのだが、当然、寝藁は月に何度か代える必要が出てくる。馬の屎尿によって汚れた藁は、やはり堆肥を作る原料としてこの“肥田”に撒かれるのだが、そういうこともあって二人はよくこの場所で顔をあわせることがあった。
 顔をあわせれば、当然、会話がそこに生まれる。それに、兵卒であるとはいえロムは元々、ミラほどではないにせよ、貧しさの中で生活をしてきた青年だ。惹きあう要素は、その時点で既にあった。
事実、気さくに話しかけてくれるロムへの親しみが、このところ強くなりつつあることをミラは感じている。
『ミラって、ロマリオさまのこと好きなんでしょう? “好き好き〜”って、雰囲気に出てるもの』
 と、ミレに指摘され、からかわれるくらいに…。
(そ、そんなっ!?)
 しかし、今の状況で彼がここにいるのは、ミラにとっては悲劇としか言いようがなかった。
(これじゃあ――……)
 この場所で糞が出来ない。好意を寄せ始めているロムの目の前で、つるりとその尻を丸出しにして、中央部から盛り上がった窄まりを全開にして大量の糞を撒き散らすなど、出来る筈がないではないか。
『う、うわっ、きみは、何を考えているんだ!!』
 当然、目の前でいきなり婦女子の排泄行為が始まれば、ロムは狼狽し驚き、幻滅するはずだ。
『ひ、人前で尻を出して……く、糞をするだとぉ! お、おまえ、変態だったんだなっ! この、露出狂女めっ!! もう、僕に近づかないでくれ!!!』
 蔑みの言葉を吐き残して、ロムはこの場から去るに違いない。そうなれば、徐々につながりを強めていた彼との縁が断ち切られてしまう。
(い、いやっ……そんなの、いやだ……)
 絶望的な状況と、妄想といってよい悲観。
(ロマリオさまに、そんな女と思われたくない……だって、わたし……わたし……この人のこと……)
それが、ミラの気持ちをはっきりさせたのは皮肉な話である。

 ギュルルルルルルッ!!

「うっ、ひぅっ!?」
 さらに過酷な現実がミラに襲い掛かる。脅威の忍耐力で堪えてきた便意が、いよいよ最後通告を発布してきたのだ。もうこれ以上の猶予は、絶対に許さないとばかりに。
「? ミラ……?」
 ぶるぶると全身を震わせ、口をわななかせ、顔が歪んだ彼女の様子にロムがいぶかしむ。まさか彼も、ミラがとてつもない便意を堪え続けている状態にあることは気がつかないだろう。
「ど、どうし……」
 明らかに様子のおかしいミラが心配になり、その傍に寄ろうとロムが足を踏み出した瞬間であった。
「あっ、やっ、い、いやぁ……んぁ!!」

 グルルルルルルッ、グルルッ、ギュルルルッ、ギュルルルルルルルゥゥ!!!

「ひっ、だ、ダメッ、ダメッ……も、もう、ダメぇぇぇぇ!!」

 ブリブリブリブリブリッ、ブリブリブリッ、モリュモリュモリュモリュモリュッッ! ブブッブブッ、ミチミチミチミチミチッ、ビチビチビチッ!! ブバッブチュブチュブチュブバッ、ブバッ、ビチビチブババババババババアァァァァァァ!!!

「あ、ああぁあぁぁぁ………」
 一気呵成に駆け下った便意。既に余力を失っていたミラは、それに抗うことなど不可能であった。

 グリュリュリュゥゥ……

「ん、んんんっ!!」

 ブボォォッ! ブボッ、ブボッ、ブビブビブビブバッ!!

「はぁ……はぁ……あ、ふぁ……」
 木桶を両手で捧げ持ちながら、尻を完全に突き出した体勢をとり、本能の命令に従うままミラは腹筋に力を込めて便意を全て押し流す。当然、降ろしていない下布はミラの尻から噴出した糞を全て受け止めて、布地が許す限り膨張し、それが限界を迎えると盛り上がりの脇からドロドロと垂れて太股の裏側を汚し、それがスカートの裏地にこびりついて茶色い汚れを沁みだして、傍目にも“大量の糞を洩らした”と、わかってしまうほどの惨状になった。
「………」

 ギュルルルルッ!!

「!? ……う、くっ、ううぅぅぅぅ!!」
 呆然としていた顔に、再び走る苦悶。唇を噛み締めて、ミラが息んだ瞬間、

 ブボボボボッ、ブボッ、ゴボッ、ゴブッ、ブボブボブボブボォォォォ!!

「いやぁぁ……」
 くぐもった排泄音が尻から飛び出して、スカートの茶色い沁みが更に広がった。
「う、うぅっ……ううぅぅぅぅぅ……」
 ミラの体が膝から折れて、地面に蹲ると、がっくりと首も垂れた。

 ブニュルッ……ニュルニュルッ……ドロッ……ベチョッ、ボトッ……

「ううぅぅぅ……うっ、ぐすっ……」
 尻に充満した不快感も、“ぐにゃり”と形を変える。かすかな糞気を吐き出してしまったときから感じていた、布地が尻に貼りつく心地の悪い感触は、それを遥かに上回る大量の汚泥が下布にぶちまけられたことで完全に更新されていた。それも、悪い方に…。
(おしりがきもち悪い……)
 ひと月という凄まじい期間を経ていた固形の老廃物が、“ゲバトの実”にあたったことで排泄されたのだ。糞の表面は形状の柔らかい“下痢”のものでありながら、その中央は便秘によって凝り固まった核がある。それが、下布の中でとぐろを巻く糞の基本となり、とてつもない存在感と不快感で、触覚的にミラを犯していた。
「ぐすっ、ひぐっ、う、うっ、うっ……」
 心の芯を折られたミラは、耐え切れずに嗚咽を始めた。手にしていた木桶は地面に置かれ、両手で顔を覆ってミラは全てから逃れるようにシュクシュクと偲び泣いていた。
「ミラ……」
 一部始終は、ロムの目の前で起こったことだ。奇妙な唸りの音の後で、壮絶な爆裂音が響き、そして、ミラは蹲って泣き始めている。
(洩らしてしまったのか……)
“肥田”にいるから、その臭いは掴めない。しかし、傍に寄って窺い見たミラの尻の部分が、独特の茶色に変じている状況を見れば、彼女が粗相をしてしまったという事実は、すぐに察しのつくことであった。
「………」
 ロムは深く嘆息をすると、その場をゆっくりと立ち去った。何か声をかけるでもなく、まるで始めからミラはその場にいなかったように、彼は静かに去ってしまったのだ。
(ロマリオさま……)
 淡い期待はしていた。慰めてくれるのではないかと。でも、それはなかった。
(当然、よ……)
誰が、こんなに糞にまみれた臭い女に手を差し伸べようと思うものか。
「う、ううぅぅ〜〜……うわああぁぁぁ!!」
 “ロムに愛想を尽かされた”…それが、ミラの中にかろうじて残っていた理性を壊し、彼女はとうとう大声を上げて慟哭を始めたのである。
「あああぁぁぁぁぁん!!」
その姿は、洩らしてしまった童女そのものであり、とても結婚の適齢期に入ってきた少女のものではない。だが、この場にはもう自分しかいないわけであり、誰にも見咎められることなく泣けるのなら、今は脇目も振らずに泣いてしまいたかった。
(あの人の目の前で、洩らしてしまった……)
(あの人に、嫌われた……)
(あの人に……)
 情意が通い始めていた矢先の粗相である。それだけに、失望と絶望は深くミラを傷つけ、彼女はそれを逆説的に癒すために慟哭を繰り返し続けた。
「ぐすぅ、ひぐっ、ううぅぅぅ……」
「ミラ、もう泣かないで……」
(!?)
 自分の耳も痛いほどに泣き叫んでいたミラ。しかし、それを救う優しい物腰の声が、彼女の鳴き声を俄かに止めさせた。
「ちょっと、ごめん」
「あっ……」
 次いで、体に起こる浮遊感。
「ロ、ロマリオさま……」
 自分の粗相に呆れ、この場を去ってしまったはずのロムが、汚物で尻を汚しているミラの姿も厭わずに抱えあげてくれたのだ。
「近くに、ちょうどいい水場を見つけた。そこで、綺麗にするといい」
「あ、あぁ……」
どうやら彼は、綺麗にするために相応しい場所を探していたのだろう。あまりにも優しい心遣いである。
「だ、だめ……汚れてしまいます……」
 抱え挙げられたとき、尻からボトリと何かが零れる感触があった。おそらくは、下布に収まらず、はみ出てしまった糞であろう。それはスカートの裏側に落ちて、べっとりと張りつき、汚れが沁みだしているはずだ。
「………」
 事実、彼女の太股辺りを抱えているロマリオの右腕には、なにやら湿った感触が広がっていた。尻の方からずらすようにして腕をいれ持ち上げたから、その時に糞液の汚れがついたのだろう。
「大丈夫さ」
 しかし、なにひとつ不快なものを感じなかった。それよりも、今この腕の中にあるミラの、思ったよりも軽く、そして柔らかい手触りに、彼は心が躍っていた。
「すみません……」
 頬を朱に染め尽くし、ミラはロムに全てを委ねる。見た目よりも遥かに逞しいその腕と胸に身をうずめ、ミラの心に穏やかなものが宿った。
「ここだよ。多分、この前の大雨のときにできたんだろう。このあたりは、あまり手が加わっていないから」
 土壁が覆っているとはいえ、この辺りは未開の趣が強い。それもあってか、ひとたび雨が降れば地面がそれによって削られ、割と大きな水溜りも出来上がるのだ。
「さ、ミラ……」
「は、はい……」
 身体を優しく起こされて、ミラは俯きながらスカートの裾に手をかける。ロムはそれを見ないように、彼女を降ろすとすぐに背中を向けていた。

 ボトッ、ボトッ……

 裾をあげると、裏地に張りついていた糞が地面に盛り落ちる。
「………」
相当にひどい状態だというのがよくわかる。ミラはやむなく、裾をまくるのではなくスカートそのものを脱ぎ放つことにした。
「あぁ……」
 案の定、尻の部分に溜まった糞がおびただしい茶色の汚れを残していた。踏んで、揉んで、洗って洗って洗い尽くしても、この汚れはきっと消えないだろう。
 直接の汚物を浴びなかったスカートがこの状態である。
「こんなに、ひどいことに……」
 窄まりから迸り、ぶち撒けられた糞を受け止めた下布は、見るもおぞましい様態をミラに現実として叩きつけ、それを受けた彼女は改めてやってしまったことに対し血の気が引いた。
「こんなこと……わたし……」
 既に、布地ではない。もはやこれは、糞そのものである。

 ドロォ……トプンッ……ボチャッ……ボチャ……

 膝のところまで下布を擦りさげ、布地一杯に盛り上がっている糞を水の中に落とす。それはゆらゆらと水の中を躍りながら、底に落ちていった。
「………」
 水溜りは、踝の辺りまで深さがある。ミラは膝を折り曲げ、尻を水面のところに近づけると、水を手ですくって糞でドロドロになっている太股の裏側から清め始めた。

 ぐちゃっ……

 と、掌で躍るおぞましい感触。自分の腹の中に溜め込んできたものではあるが、好き好んで触りたいとは、当然だが思う代物ではない。

 バシャ……バシャ……

 何度も何度も、漱ぐ行為を繰り返して、ようやく清涼な肌の感覚が戻ってきた。代わりに、水溜りは濁り淀んだ泥水と化し、糞を洩らしたことでミラの尻がどれほど汚れてしまったものか、わかる。
(もう、これも……捨てないと……)
 膝の間に残る、糞まみれの下布。無事な部分を探すのが無理なほどに汚れており、スカートともども再生の余地などないように見えた。
「………」
 そうなると、大きな問題がミラには残った。剥き出しになっている下半身を覆うものがないのだ。股間の丘に慎ましやかに茂る淡い影も、瑞々しい張りのある太股も、全てを晒したままここから移動しなければならない。
(どうしよう、どうしたら……)
 そもそも、自分を援けれくれたロムの目の前で、下半身を晒すことになる。糞を洩らす瞬間を見られ、汚れた尻を目の当たりにされたにも関わらず、尽きない羞恥がミラには生まれ、それが彼女の心にさざめきを起こしていた。
「ミラ」
「あ、は、はいっ……」
 名を呼ばれたので振り向く。すると、ロムが背を向けたまま後ろ手に何か布のようなものをミラに差し出していた。それは、彼の着ている軍服の上着である。
「これを使うといい」
 厚手のしっかりした綿布で織られたその上着は、太股の辺りまで覆う丈の長さがある。これをしっかりと体に巻きつければ、とりあえずは恥部と臀部を隠すことは出来る。
「……っ」
「ミラ?」
 あまりに手厚い彼の優しさに、ミラは込み上げてくる涙を抑えることができなくなった。ぽろぽろと零れる雫が頬を濡らし、ミラは我慢が利かずに嗚咽を始めてしまっていた。
「うっ……ううっ……ぐすっ……」
「泣いているのかい?」
「す、すみま……ぐすっ……う、ううっ……」
 言葉にならない。差し出されている衣服に手を伸ばそうともしないでミラは、ただ嗚咽を零している。
「………」
 思うところがあり、ロムは意を決めて振り向いた。視線を空の方に向けているのは、ミラの剥き出しになっている下半身を視界に入れないためである。……何処かで聞いたような話であるのは、愛嬌と思っていただきたい。
「うっ、ううっ、ぐすっ、ぐすっ……」
「ミラ、泣かないで……」
「で、でも……ぐすっ……あっ」
 衣服を着せられ、そのままミラはロムに抱き締められていた。
「ミラ……僕は、君のことが好きだ」
「えっ……」
「だから、そんな哀しそうな顔は……見たくないよ」
「ロ、ロマリオさ……ん、んっ」
 優しく頬に手を添えられて顔を起こされたかと思うと、唇の上に柔らかく暖かい何かが重なってきた。
(………)
 ロムの熱く火照る顔が、間近に見える。睫がすりあう感触が、はっきりとわかる。
(わたし――)
 そして何より、唇に生まれる甘い暖かさが全てを物語っていた。今、自分は、密かに想いを寄せていたロムと、接吻を交わしているということに……。
「んっ……ん……」
 戸惑いと恥じらいに揺れていた心はいつしか安らぎに満ちたものになり、ミラもまたその目を閉じて、己の感覚に全てを委ねて時間を過ごした。抱き締められている彼の腕の逞しさと、触れ合う唇から伝わってくる情愛が、ミラにはとても嬉しかった。
「………」
「………」
 二人は長く唇を重ねあい、強く抱き締めあう。永劫、離れることを望まないかのように、長く、強く…。
それでも、終わりはいつか来るもの。
 名残惜しげに唇を離していったロムの、真摯な瞳の色の中にミラは自分の顔を見ていた。
「好きなんだ……ミラ……僕は、きみのことが……」
「ロマリオ、さま………わ、わたしも……わたしも……」
 後の言葉が続かない。想いが繋がりあったと言う感激がミラの中で渦を巻いて、これをどうやって整理したらいいのか思いつかないのだ。
「ミラ……」
「あなたが、好きです……好き……」
 言葉は単純でも、そこにミラの気持ちは全て映し出されている。
「嬉しいよ、ミラ……」
「わたしも……」
 想いを確かめ合うように、二人はもう一度、口づけを交わしていた。……』




(炎の灯りが空を照らしている……)
 ラヴェッタは馬に乗り、哨戒の部隊を率いてアネッサの城外を廻覧している。
「始まったようだな」
中央の開けた場所に、大きな火を焚くための櫓が組まれ、その煌々とした灯火が夜空まで照らすのが見えたとき、“祈穣祭”と同時にロムとミラの“婚礼の儀”が始まったことを彼女は知った。
「西側に異常はなかったぜ、軍師さん」
「東は、獣の声が聞こえましたが、すぐに場を離れたようです」
 そんなラヴェッタに、別々の方角から影が寄ってくる。ひとりは背中に剣を背負い、もう一人は闇世の中に溶け込みそうな黒装束を纏っていた。
哨戒の部隊に志願してきた剣士・ヴェスバルと、ラヴェッタに常に近侍しているカゲロウである。
「こちらも、今のところは何もない。まだ山道の雪は深いから、オルトリアードもまさかそれを越えてはこないだろうが……」
 油断は禁物である。祈穣祭に盛り上がっているアネッサは、ある意味で今は弛緩している状態だ。ここを不意討ちされれば、いくら堅牢さが加わったとはいえ、アネッサは簡単に瓦解するだろう。
 もっとも、オルトリアードはまだ軍旅を催していない。ラヴェッタの指摘した通り、山道の雪が融けるのを待つ傍ら、ギュスタブ・オルゲンスト伯爵を元帥とする“ハイネリア遠征軍”を再編しているところであった。
「ラヴェッタ様。私は、アネッサ城内の監視に廻ります」
「そうか。頼むぞ、カゲロウ」
「御意。……ヴェスバル殿、ラヴェッタ様の護衛をよろしくお願いする」
「ああ。任されたぜ」
 カゲロウは単独でも、百人の密偵と等しい働きをする。城内は既に、百名の兵士を別部隊にして哨戒にあたらせているが、これにカゲロウの“百目”が加われば、問題は何も起こらないであろう。
 ラヴェッタは残る四百の部隊を連れて、その後も城外の哨戒を続けた。今宵は空に曇りがなく星が無数に散らばって、もう少しで満ちる月も、それ故に光を煌々と湛えている。
 いい夜だと、ラヴェッタは星空を見て目を細めた。
(き、綺麗だな……)
 目を細めていたのは、ラヴェッタだけではない。
(なんというか……“女神”って、こんな風なのか……)
 その横顔があまりにも透明感のある美しさを持っていたので、ヴェスバルは思わずそれに惹きつけられてしまった。凛々しさの中にある繊細な美質が、月の淡い光を纏うことで浮かび上がるようなシルエットを見せている。それが、幻想的な美をヴェスバルに見せていた。
「どうした? 私の顔に、何かあるのか?」
「いや、綺麗だなと……」
「なっ……!?」
「あ、いや……」
そのラヴェッタに語りかけられることで、ヴェスバルは彼女を凝視していたことに気付く。
およそらしくない自分の有り様が照れくさかったのか、慌てたように彼は言葉を連ねた。
「は、ははは。月だ、そう、お月様だよ。綺麗な満月だなぁって……」
「あれが、満月に見えるのか?」
「……どう見ても、違うよなぁ」
 贔屓目に見ても、月は楕円の状態である。あれを見て“満月”と言い切ることのできる輩は、おそらく相当に視力が良くないのであろう。
「すまん」
 観念したヴェスバルは、ラヴェッタの横顔を凝視していたことを白状し、詫びを入れた。
「ふふふ、礼を言っておいた方がいいのかな?」
「申し訳ない」
「詫びることはないよ、ヴェスバル。私も女だからな。“綺麗”と言われれば、それは嬉しいさ」
 薄闇の中であるから気がつかないが、ラヴェッタの頬には微かな緋色が浮かんでいる。もしもヴェスバルがそれを昼間のうちに見ていたら、完全に魅了されていただろう。
厳しさで固められているラヴェッタの美質は、本来ならば絶世の才能を持ち、それがひとたび“艶”によって磨かれたとしたら、世の男子は全て彼女の前に平伏するに違いない。
「ん……」
 原石のままで充分に美しい。そんなラヴェッタの表情が、わずかに翳った。

 ぶるっ……ぶるぶるっ……

そして、その肩を何度か震わせる仕草をすると、困ったような顔つきでしばらく時を過ごし、ややあって自分の身に起きた事態をヴェスバルに告げようとした。
「あ、その……」
「うん? どうした?」
 しかし、いつもなら、躊躇いもなく言えることがなぜか簡単に口から出ない。“催したので、小用を足してくる”と…。
護衛を引き連れた状態で、何度も野外排泄をした経験のあるラヴェッタにしては、珍しい逡巡が、この時はっきりと生まれていた。
「ああ、小便か」
「う……うむ…」
勘のいいヴェスバルは、微かな震えを起こしたラヴェッタの様子で全てを察したようだ。“小便”という野卑な言葉づかいは、周囲でも良く使われているものだから、ラヴェッタも特に気にはしない。
ところが、“尿意を催した”と気付かれたことに、何故かラヴェッタは頬に熱いものを感じてしまった。
(どうしたというのだ……)
 身に覚えのないことばかりが、今は起こっている。催した尿意をはっきりと告げられず、それをヴェスバルに知られたことで、“恥じらい”が生まれるなどと…。
「あ、あの辺りに行ってくる」
 彼女が指差した草の陰は、ここから少し闇が深いように見えた。一抹の不安を覚えたヴェスバルだが、
「わかったぜ。虫の声も聞こえるから、獣はいないと思うが……あっ、あれ?」
 慣例である“護衛”をしようとしたが、既にラヴェッタの姿はその草の陰に溶け込んでいた。およそ、軍事の原則に従順な彼女らしくない行動ではある。それだけ急に、激しい尿意がやって来たというのだろう。
(まあ、こういうのもあるか)
ヴェスバルは、ラヴェッタの躊躇いに全く見当の違う見解を自ら作り上げ、不慮の事態から彼女の背中を守るために、放尿場所として指を指した草陰に脚を向けた。

 シャアァァァァァ……シャァッ、シャッ、シャアァァァァ……

「………」
 静謐な空気を伝わってくる、水の迸る音。それは間違いなく、この闇の先で行われているラヴェッタの放尿が生み出す旋律である。
ヴェスバルは脚を止めて、その音の出所となっている方向に目を凝らす。微かに気配があったが、おそらくはラヴェッタ影であろう。
(ここらで、いいかな)
 これ以上近づけば、恐らく彼女は集中して尿意の開放に務められないであろう。いくら、危険が伴う場所での用足しに護衛が必要になるとはいえ、自分の排泄している姿を見られるのは、気分のいいものではないはず。ましてや、相手は女性だ。

 シャアアァァァァ……シャアアァァァァ……シャアアァァァァァァ……

「………」
 随分と息の長い水流が続く。かなりの量の小水が、しゃがみこんだ股の間から噴出しているに違いない。
脚の長いラヴェッタが腰当を外してからその下布を降ろし、膝を折り曲げて草根に向かって股間を晒し、そこからジョロジョロと黄金の水を放出している。
(ちっ……なんてことを、俺は考えてんだ)
そんな様子を、ヴェスバルは頭の中で描いてしまっていた。これは男の業であり、同じ業の深さを持つ自分には、ヴェスバルを責めることはとても出来そうもない。

 ガサッ…

(終わったのかな?)
 草の葉を踏みしめる音と共に、ラヴェッタが闇から姿を現した。幾分、俯きがちになっているのは、暗闇の中で脚をとられないように気を配っているからだろうか。
「す、済んだよ。戻ろうか、ヴェスバル」
「ああ……」
 お互いの心境に微妙な変化が出始めていたことは、本人も、その原因となっているヴェスバルも、今の段階では気付くことはなかった。




「マファナ・オルナ・ハイネリアの名において、二人に“誓いの神酒”を授けます」
 白い衣装に身を包み、手にした果実酒を、ロムとミラが二人で共に捧げ持っている銀製のグラスに注ぐマファナ。
「さ、ミラ」
「はい…」
 “神酒”が注がれたグラスに、まずはミラが口をつける。初めてといってよい“果実酒”の酸い味は、舌に慣れないものだったが、これを飲むことで愛しい人の妻になれると思うと、知らずその頬に火照りが生まれた。
「ロマリオさま……」
「ああ」
 ミラから杯を受け取ったロムは、彼女が口をつけていた場所を使い、残っていた神酒を全て呑み干した。そして、空になった銀杯を二人でもう一度持ち、それをマファナに向かって捧げた。
「今、このとき……この神酒を分かち合ったこの時をもって、二人を夫婦であると認めます。……ミラ、ロム、おめでとう!」
 厳かだった表情が一変して、マファナはその銀杯を高く掲げた。それを契機に、静かに儀式を見守っていた周囲の人垣が一斉に沸き立つ。
「おめでとう!」
「ロマリオッ、このぉ、幸せもんがっ!」
「ミラ! おめでとう、おめでとう!!」
「乾杯だっ!」
「乾杯よっ!」

 ワアアァァァァァァ!!

 果実酒の詰まった樽の蓋を砕く音がそこかしこで響き、用意されていた空の杯が次々と満たされて皆に振舞われている。
「歌と踊りを! 豊穣神がお目覚めになるよう、高らかに響かせるのです!」
 竪琴や横笛、指笛、草笛も中に混じり、煩雑にも聞こえる音色が響く中で、焚かれた炎を廻るようにして踊りが始まった。
祈穣祭は、春が訪れたことを陽気な歌声で神に報せ、冬の眠りから覚ますことを目的とされている。したがって、力の限り歌い、踊り、騒ぐことによって豊穣神の意識をこちらに向け、その興味をそそらせ、一日も早く大地に降り立つように“祈る”のだ。
 鮮やかな手つきで手品や曲芸を披露し、不可思議な踊りで周囲を笑わせ、男女がそれぞれ組となり踊りの輪を繋げ、杯を何度も交換しあって互いの武勇を語り合う…。
皆がそれぞれの騒ぎ方で場を盛り上げ、宴はいよいよアネッサ中に広がっていった。
「昔は“十樽呑み”という無茶もしたもんじゃが……」
 喧騒から少し間を置いたところに席を設け、アレッサンドロはハインを相手に酒を酌み交わしている。
「ふふふ。確かに、老将軍の“武勇”は兵学校にいた頃から既に伝説になっておりましたなあ」
「さすがに、今はの…。こうやって、静かに飲むほうが楽じゃわい」
 正規軍の中にあって、アレッサンドロが昔から見知っている将兵は数えるほどだ。今、酒の相手をしてくれているハインはその一人だ。アレッサンドロが“総帥”として独立戦争を戦っていたとき、若い士官の中では、ヴェルエットと並ぶ“智恵者”と評価を受けていたのをよく覚えている。そんな彼が、ヴェルエットのような人望を得なかったのは、孤独を愛するあまり他人と強いて交わろうとしなかったからだ。
「長生きは、まあ、するものじゃな」
「………」
「ハイネリアには、なんとも逞しい若木たちが育っておる。これを愛でながら酒を飲むのは、まこと、至福なことであるよ……」
「老将軍?」
 不意に、アレッサンドロの顔に刻まれた皺が深くなった。
「……もう一度、来るじゃろうなぁ」
「……間違いなく、来るでしょうね」
 有効な交渉を経ないまま迎えた停戦だ。戦争はまだ、終わっていない。
「ハインよ。わしは、今ほど国のために身を賭したいと思ったことはないんじゃ」
「私もですよ」
 そうして二人が同時に目をやった先には、輝かんばかりの笑顔でミラとロムを祝福しているマファナの姿がある。
(あの笑顔を守るためなら……)
 二人には相通ずる強い想いがあった。
「がははははっ! あと一樽で、伝説の“十樽呑み”だぜっ!!」
 不意にそんな感傷を破る高らかな笑声があがる。見れば、大樽を抱えたアザルが顔を真っ赤にしながら哄笑しているではないか。その周囲には、酔いつぶれてしまったと思しき兵たちの無残な姿もあった。
「老将軍の“武名”を継ぐのは、彼のようだ」
「少しも、ありがたみのある号ではないんじゃがなぁ」
 ハインの言葉に、アレッサンドロはただ苦笑するばかりであった。


「ロム、杯を受け取ってくれるかい?」
「おめでとう、ロマリオ隊長」
「あっ、オスカー将軍、リーエル隊長」
 一段高い台の上に、ロムとミラの席はある。
「ミラはもう戻ったのかい?」
「無理はさせられませんから」
ただ、ミラは身篭っているので、しばらくその場で時を過ごした後、ミレに付き添われながら既にその席を後にしていた。
 残ったロムはかわるがわる顔を出す同僚たちから杯を受けながら、時を過ごしていた。いかに彼が皆に親しまれているかは、重ねた杯の多さが物語っている。もうひとつ、それをことごとく飲み干した彼の強さも、特筆しなければなるまい。
 三人は同じ年齢である。だが、妻を迎え、子供が生まれることになったロムは、それだけで二人を大きく引き離す雰囲気を得たように、オスカーとリーエルには見えた。
「ああ、そうだ」
「?」
「ロッシュ殿に頼んでいた品が、ようやく届いてね」
綺麗な小箱をオスカーから手渡されたロムは、それを開いてみる。
「あっ……こ、これは……」
 中に入っていたのは“盾”の形をあしらった紋章で、これを身につける兵士は“フレム”の称号を名乗ることが出来る。“フレム”とは、“ヴァン”よりふたつ手前の階級にあたる武官に与えられる称号であり、陪臣とはいえロムはこれで正式な将校として認められたことになるのだ。
 今、ロムはオスカーの部隊に所属している。そして、“フレム”の称号を与える権利は“ヴァン”の称を持つものならば誰にでもあるわけで、その件をオスカーはマファナに陳情し、快く許可を得て、新たな称号と紋章をロムに授けることにしたのだ。
「これから君は、ロマリオ・フレム・スタレッツになる」
「は、はい……ありがとう、ございます……」
 受け取った紋章はそれほど重いものではない。しかし、ロムの手の中に収まったそれは、まるでずっしりとした存在感を彼に与え、同時に、小隊を指揮する責任感の大きさを意識させた。
「さあ、無礼講でいこう」
 三人で席を作り、酒を傾けあう。
それから、しばらくのことであった。
「わたしも、いいかしら?」
「「「そ、総帥!?」」」
 動きやすいよう街娘の衣服に着替え、マファナがやってきた。
ミラの様子を伺った後で宴に戻ってきた彼女は、台の上で楽しげに杯を酌み交わしている三人がうらやましく見えて、その席に顔を出したのだ。
「ど、どうぞ、総帥」
 リーエルが畏まって席を譲る。結果、オスカーの隣にマファナが座る状態となった。
「あら、リーエル。遠慮はしないでいいのよ」
「えっ……」
 場を離れようとしたリーエルを引き留めると、マファナは自分の隣に席を用意して彼を座らせようとした。
「そ、そんな、申し訳ないですよ……」
「いいのよ、さあ、リーエル。座って頂戴」
 親しげに声をかけてくれるとはいえ、相手は自分たち将校を率いている“総帥”だ。更に言うならば現公爵の実の姉である。それを考えれば、彼女の隣に腰をおろせる慶事は凄まじいものであり、リーエルは恐縮するばかりだ。
オスカーは、休暇を共にし、馬術の教練を行うなど、マファナと長い時間を共有してきたので、慣れた雰囲気と空気を持っていた。そしてロムも、御者としてマファナを兵車に乗せ続けて転戦してきた経験が、リーエルのように抱く“畏れ”を少なくさせていた。
遠慮はあるが、総帥のお言葉である。実直この上ないリーエルは、その時点で断ることを考えなかった。こうして、三人の席が、四人の席に変じたのである。
「馬のことを、もっと知りたいわ」
「それなら、ロムしかいませんね」
「い、いえ……馬術は、将軍には敵いませんよ」
「実は……馬術はリーエルから学んだことが多いんだ」
「あら、そうだったの? では、今度はリーエルにも馬の上手な乗り方を教えてもらわなければ」
「お、お、畏れ、い、いります……」
「畏れてばっかり。リーエル、わたしがそんなに恐ろしい?」
 普段の荘厳さが今は薄れて、マファナは、休暇の旅程の中でオスカーが見た“爛漫な少女”となっている。その愛らしさには、彼でなくても惹かれることだろう。
「はっ、も、申し訳ありません」
「うふふっ、まるで、誰かさんみたい」
「それは……僕のことですか?」
「どうかしら? ふふふっ。それじゃあ、リーエル。これからはあなたも、わたしの馬術の先生になってくださいね」
「お、お、おっ、畏れい、いりっ、いりますっ……」
 普段は慇懃で硬い物腰のリーエルが、間近にマファナがいることですっかり舞い上がってしまい、この席では奇妙な言動と所作を繰り返して、席の盛り上げに一役も二役も買ったのであった。




「あっ、ああっ……あなたぁ……あなた……あ、ああっ……」
 宴が終わり、静けさがアネッサを覆う中で、夫婦となった二人は激しい睦みあいに時を過ごしていた。
“初夜”は特別なものであり、よほどのことがない限り夫婦は同衾し熱く互いに交わらなければならない。それは、子供を残すという神聖なる意味において、ラーナ教の一節に記されているほどだ。
「ん、んんっ……んんっ……」
「くっ……ミラ……ミラ……」
 新しい命が宿るミラのお腹を無理に圧迫しないよう、横臥した状態で身体を密着させ、ロムは繋がっている部分を更に深めていた。
「ん、ひっ……」
「あ、ああ……ミラ……」
 ぎゅ、と締まる感覚が腰に立ち上り、いささか趣の違う性交の感触にロムは酔いしれる。
 ところで、結婚した後に妻が子供を宿すと、その新しい命を生み出すための場所は、神聖なる禁忌の場所となる。つまり、正式な陰陽の交わりは、妊娠の判明と同時にしばらくは打ち止めとなるのだ。
 だからといって、体に渦巻く性欲を抑えられるものではない。結果、人が重ねてきた性の歴史は、技においても色々な形を成立させていくことになり、新しい命を交えた中で、夫婦がそれぞれ満たされた夜を過ごすことを可能にしている。
「あ、ああっ……お、おしり……が、あつい……あついの……」
 その中で最もポピュラーな交わり方が、“肛門性交”であった。つまり、妊娠したことで精神的な封印が生まれた場所に変わり、それに相似した空間を代替とする……。野卑な言い方をすれば、“お尻の穴に入れる”のである。
「く、うっ……あ、ああぁあぁぅ!」
 ただし、“肛門性交”は、その部分がかなり狭いという観点においても、相当の修練と馴致を必要とするものだ。無理にこれを行えば、結局は傷むだけで全てが終わり、極上の心地よさは得られない。
「う、ううっ……ミ、ミラ……」
 だが、ミラとロムは随分と慣れたようにその行為に没頭している。繋がっている部分が淫靡な音を立てるほどに…。実に早い段階でこの二人は、“肛門性交”を通常の性交と変わらぬ程度に昇華させていたといえる。
 これには理由がある。
なぜなら、性のことをあまり知らなかった二人は、“肛門性交”こそが、正式な男女の交わりであると勘違いをしていたからだ。
知識のないミラもロムも、普段からモノが出てくる場所である肛門こそが、命の通り道だとばかり思っていた。だから、最初の方はミラも痛みを訴えるばかりで、互いに非常に苦労したものだ。ただ、慣れてしまうと凄まじい快楽が身体を走るようになったらしく、快楽を叫びながら、ミラはよく失神した。
 間違いに気付いたのは、衛生隊の女たちが好んでする猥談の中からである。
『昨日、旦那が寝ぼけてお尻に入れようとしてね。今、痔がひどいから、もう、痛くて大変だったのよ』
と、いう卑猥な言葉にミラは、勘違いをしていたことに気がついた。
 そういえば、性交の間中、尿道口の下の辺りがすごく熟れて湿って熱くなっていたように思う。“これはなんだろう”と思いながらも触るのが怖くて、ミラは耐えていたのだが、話を聞くに、こちらにも男を迎え入れる空洞があるとのことだ。そして、この場所こそが“命の通り道”だと彼女はようやく知った。
もう一度、身体を裂かれるような痛みに苦しめられながら、ロムとミラは正確な愛の交わりを果たすことが出来た。それから時を待たずしてミラが身篭ったので、二人は顔を見合わせて苦笑したものである。
「あ、ミ、ミラ……くっ―――」
 ロムが何かに耐え切れなくなったように、腰を強く密着させた状態でミラの身体にしがみつく。
「ん、んぐぅぅ!! あっ、ああっ、あああぁぁああぁぁぁ―――――………ッッ!!!」
 窄まりを一杯に広げる感覚は、その奥に至るまで深い楔を穿たれ、逆入してくる凄まじい感触にミラの官能は一気に弾けた。
「は、くはぁ……あぁ……」
 真っ白い靄が浮かぶ世界の中でミラが見ていたものは、生まれてきた新しい命とそれを抱き上げている自分と、優しく見守ってくれている夫の姿…。
 溢れんばかりの幸福に包まれた“未来絵図”であった。


―続―



 解説 其の六

 みなさん、こんばんは。まきわりでございます。『ハイネリア戦記』も、はや第6章と相成りましたが、比例して濡れ場増量中です(汗)。メルティさんのサイトは、可愛いキャラたちの「OMO物語」がメインであるので、“流れのエロWEB作家”と自称してはいるものの、ここでは性的な描写を極力抑えるつもりでいました。そういう意味でも“やっちまった”という印象が今回はあります。
 ミラを中軸に据え、今回はOMO物語の「王道」を意識して書き進めました。必至に必至に我慢して、それでも堪えきれずに洩らしてしまい、しかもそれを好きな相手に見られるという…。苦渋と羞恥と屈辱と、安らぎをめいっぱい散りばめました。
ミラが極度の便秘症であるのに対し、ミレが過度の下痢症だという設定は、メルティさんに考えていただいた“裏公式設定”を元にしています。また、厠の番をしているところでミラが、大きい方を催してしまう状況もまた、メルティさんから戴いた感想の中に、ちらりと出てきた話を参考にさせていただきました。
 みなさんの支えを受けながら、『ハイネリア戦記』の世界は広がっています。本当に、ありがとうございます。
 それでは、いよいよ“戦記”が中心になっていく第7章でお逢いいたしましょう。
 まきわり、でございました。


メルティより

 自分の妄想が創作の役に立ったようで何よりです。
 集団食中毒、とまで行かなくとも複数人の下痢がからむだけで話の広がりが出るということの好例を示していただけました。
 作品的にも、久々となる主人公・マファナの排泄シーンを拝めたり、ラヴェッタ閣下の羞恥シーンがあったりと飽きさせない作りになっていますね。
 まぁ、性的描写に関してはほどほどに……という事でお願いいたします。
 それでは。次回も期待しておりますので。



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