つぼみたちの輝き Story.21

「贖罪の白球」



早坂ひかり
12歳 けやきの市立桜ヶ丘中学校1年3組
体型 身長:136cm 体重:31kg 3サイズ:67-48-68

便質:-95(水状便) 排泄回数:37.2回/日

PP属性
超頻繁排泄:トイレが近く、排泄回数が通常の3倍近くになります。
我慢強い: 我慢に慣れており、通常より長く我慢が可能です。
脱ぎかけ排泄: パンツを脱ぎかけたところで排泄が始まってしまい、便器の後方に便を飛び散らせてしまいます。
爆音排泄: 排泄時にものすごい爆音が響き渡ります。
神経性下痢(軽度): ストレスがかかるとおなかの調子が悪くなります。
食あたり(重度): 少しでも傷んだ食べ物を口にするとひどい下痢になります。通常の食べ物でも体に合わずお腹を下す可能性があります。




本作の舞台は西暦2000年であるため、野球の試合におけるボールカウントをストライク・ボール・アウトの順で表記しています。



 ――7月26日午前11時22分。
 一塁側、桜ヶ丘中学校ベンチ前。
 桜ヶ丘中学校野球部主将、早坂隆は言った。
「……相手は高峰だと言っても、同じ中学生だ。勝てない相手じゃない。全力で行こう!!」
「はいっ!」
「おうっ!!」

 三塁側、高峰中学校ベンチ前。
 高峰中学校野球部エース、穂村雄一は言った。
「今まで迷惑をかけた分、ぼくは今日、必ず最後まで投げ抜きます。みんな、力を貸してください」
「任しとき!!」
「勝つぞ!!」


『整列!!』

 二つの円陣が解かれ、両校の選手がホームベース前に集まっていく。

 栃木県中学校野球大会けやき野地区大会、決勝戦。
 桜ヶ丘中学校対高峰中学校。

『礼!!』

 真夏の陽射しの中、頂点を目指す両者の戦いが、今まさに始まろうとしていた。


(…………お兄ちゃん…………)
 早坂ひかりは、小さな体を一杯に伸ばして、背番号1の姿を目で追っていた。
 桜ヶ丘のユニフォームは、純白に桜色のライン。対する高峰は、灰色の布地に細い縦縞……。

「…………」
 ひかりが見つめる中、選手たちが頭を上げ、それぞれのいるべき場所へと散っていく。
 ただ、本来1回表のマウンドに登るべき早坂隆は、正面に立つ高峰の選手と向き合ったまま動かない。

「…………?」
 水晶体の張力をゆるめ、焦点を数十メートル先に合わせる。ひかりの漆黒の瞳の奥に、兄ともう一人の少年が口を開閉している像が結ばれた。
 言葉を交わしている。
 二言、三言――そして、二人は同時に背を向けた。


「……あっ…………!!」
 体中に緊張が走り、本塁付近に結んでいた焦点がぼやける。驚きが生んだ無意識の反応だった。
(……背番号……1…………)
 名門・高峰の背番号1だから驚いたのではない。あのユニフォームの背番号1だから驚いたのだ。
 2日前、隆が完全試合を達成した試合終了後に出会った、あのユニフォームの――。


 バックスクリーン、手書きのスコアボードには、両チームの先発メンバーの名が記されている。
 後攻の桜ヶ丘は右側。上から4番目に「1 早坂」の表示がある。この1番は投手の守備位置を表す1番で、エースピッチャーの背番号1はこの番号が元になっている。ひかりはその番号を頼りに、左側のメンバー表に視線を移す。

「あ……」
 上から3番目にその数字はあった。投手であり3番打者、ということは、チームでも中心になるメンバーのはずである。しかし、ひかりの記憶のなかにその名前はない。記憶にない、ということが、この時は逆にひかりの胸に強い印象を与えていた。
 その名前。

「穂村…………さん……」

 初めて口に出した濁りのない音が、スタンド中段の最前列で小さく響いた。



「…………」
「……ひかり?」
「え、あ……っ!」
 ひかりは驚いて体をすくませた。隣の席に座っていた幸華が、いつの間にか至近距離からひかりの顔をのぞきこんでいる。
「ねえ、相手のピッチャーのこと知ってるの? ほら、穂村って」
「え、えっ……?」
 当惑。
 全く知らない、と言えば嘘になる。直接会って言葉を交わしているのだ。ぶつかって起こしてもらうためとはいえ、手まで握ってもらっている。とはいえ、あの出会い――もしかしたら、おもらししたパンツを見られたかもしれない――の一部始終を話すことになったら、ひかりのか細い神経繊維は恥ずかしさで焼き切れてしまうだろう。
「……そ、その……お兄ちゃんと話してたから…………どういう人かは知らなくて……ごめんなさい……」
 うまくごまかしたようで、小さな胸がちくりと傷んだ。
「……あー、別に知らないならいいの。そこに暇そうな情報のプロがいるしね」
 幸華がくるりと振り向いた先には、黒縁の眼鏡をかけた男子生徒の姿。
 表の顔は桜ヶ丘中学校放送部長、裏の顔は諜報局長、弓塚江介の姿である。
「うむ。説明しよう」
 彼はくいっと眼鏡を押し上げて、重苦しく口を開いた。


「高峰中学校、野球部背番号1、穂村雄一。ポジションはピッチャーだ」
「…………」
「アンダースローで球速はそこそこ。まあ、早坂と比べたら二周りは落ちるだろうがな」
「なら楽勝でしょ、ね?」
「早坂が速すぎるだけだ。二周り落ちても並みの中学生より速いさ。もっとも、彼の真価は七色の変化球って話だけどな」
「話って……センパイが見たわけじゃないんですか?」
「うむ。なにせ今年公式戦初登板だからな」
「初登板……?」
 ひかりが小首をかしげ、短い髪がふわりと浮かんで一瞬後に静止する。
「そこが最大の謎だな。野球マンガだと、ケガで戦列を離れていたエースのために勝ち進むなんてのはよくある話だが……」
「……ケガ……じゃないような…………」
 ひかりの脳裏に浮かぶのは、昨日手を差し伸べてくれた少年の姿。小柄で線の細い体でありながら、力強く助け起こしてくれた姿に、怪我などの違和感は全くなかった。ただ、強いて言えば、どこか儚げな印象を感じる相手ではあった。そこに共感を覚えているのかもしれないと、ひかりは考えた。
「……まあ、ここでどうこう言っても始まらないか。頼むぞ、早坂……」
 そう言って江介はグラウンドに目をやった。
 視線を移し、一同が固唾を飲む。

 後攻の桜ヶ丘。守備位置1には背番号1が立っている。
「よし……!!」
 投球練習の最後の一球をど真ん中のストレートで決め、返球を手にする。
 顔を左上に向ける。桜ヶ丘中学校のスタンド……

(あと一つ……見ていてくれ、ひかり)
(お兄ちゃん……)
 声に出しても届かぬ距離を、声に出さない思いが越える。
 視線の先の小さな姿をまぶたに刻み、隆は本塁に向き直った。初球のサインは決めてある。


『プレイボール!!』
 審判の手が挙がると同時に投球動作を起こす。
 一杯に伸ばした両腕、振り上げた右足、大きな弧を描く左手、その指先から放たれる白球、キャッチャーミットへの見えない軌道を走る、半秒の時間……。

  ビシッ!!
『ストライク!!』
 初球、外角低めストレート、見逃しストライク。

 桜ヶ丘中学校対高峰中学校、決戦の火蓋はこうして切られた。


  ズドンッ!!
『ストライク、バッターアウト!!』
「やった!!」
 高峰中学校1番ショート長尾、空振り三振。
 …………。
  ガキッ…………パシッ。
『アウト!!』
「よーしっ!!」
 2番セカンド松永、セカンドゴロ。

(次が……3番……)
 ひかりの心拍数がわずかに上昇する。
『3番、サード、穂村くん……』
 打順を告げる声よりも、静かに打席に入る少年の姿がひかりの意識に飛び込んでくる。
(お兄ちゃん……穂村、さん……)

(雄一……お前が相手でも、手加減はしない。この試合……必ず俺たちが勝つ!!)
「いくぞ!!」
 走者はいない。
 振りかぶったモーションから直球を投げ放つ。
  ビシュッ……!!
(よし……完璧なコースだ)
 キャッチャーの学は心の中でうなずいた。外角低め一杯、球威も申し分ない。これを打たれるはずがない。確信で心を満たして捕球の衝撃に備えた。

「そこっ!!」
「!!」
 半袖のユニフォームから伸びる細い腕が、短めのバットを鋭く振りぬく。
  キィン!!
「っ……!!」
 当てられた――。隆は反射的に打球の行方を追った。
 ライナー性の打球が三塁線に伸びる。三塁手の頭上を通過するが、打球の速さに反応できない。抜ければ二塁打は確定のコース……。

『ファール!!』
「……ふうっ……」
 ファールラインよりボール一つ分、外側の芝生の上にボールが落ちた。

(やはり真っ当なストライクで勝負はできない、か……)
 小学生時代から雄一のバットコントロールは天才的である。中学に上がってスイングスピードが増し、ライン際や左中間への流し打ちで長打も打てるようになった。
 昨年の対戦では雄一の打席は4打数3安打1二塁打1三塁打である。三塁打の後の4番渡井の犠牲フライが結局、決勝点となった。桜ヶ丘の攻撃力では1点取れるかどうか、その状況で勝つためには、なんとしても3番穂村を抑えきらなければいけない。

(……次、あれでいきます)
(わかった)
 学が今まで出していなかったサインを送った。
 構えるミットの位置はど真ん中だ。

(真ん中…………球威で勝負するつもりなのかな……)
 雄一がわずかに迷いを浮かべたが、すぐに向き直る。

(直球は逆らわずに打ち返される。変化球は、雄一が投げるレベルのものは見切られてしまう。ならば、見切れない変化球なら確実に抑えられるはず)
 雄一を抑え込むために、隆と学は半年がかりで対策を練ってきた。結論は新たな変化球を創り出すこと。言うほどに簡単ではない。練習を重ねてきたこの球も、まだ完成したとは言えない。だが、未完成でも使うしかないのだ。

 早坂隆の10球目。
「いけぇーっ!!」
 躍動感のあるフォームから放ったボール。
 ストレートのタイミングで待つ雄一。

「っ!?」
 だが、迫ってくるボールのスピードが遅い。しかもコースが高い。
(カーブのすっぽ抜け……!?)
 頭上を越えそうなボールに、思わずバットを引く。

  ガクッ……!!
「えっ……!?」
 ボールが急角度で沈んだ。
 ストライクゾーンの直方体、その正反対の頂点を結ぶように、急激に曲がり落ちていく。
 手が出ない。

(これを……捕るんだ!!)
 ワンバウンドさせては意味がない。学は必死にミットを差し出した。
  パシッ……!!

『…………ス、ストライク!!』
 一瞬遅れて審判の声が響いた。
 ツーストライク。

「い……今の球は……?」
 打席の中でバットを構え直しながら、雄一の思考が口を突く。
(球速はたぶん100キロ以下……カーブにしては落ち方が鋭すぎる、でもフォークのスピードとコースじゃない……)
 見たことのないコース、見たことのない変化……それは『魔球』とも思える球だった。

「…………よしっ」
 隆は、その反応を予測していたかのようにやや硬い笑みを浮かべ、投球モーションに入る。

「く…………」
 雄一が両手に力を込める。
(あの落差じゃ、ボールの軌道の正面から捉えることは無理……なら、なんとか当ててカットするしかない……?)
 呆然としながらも、打者としての本能が今の『魔球』の攻略法を模索する。
(当てるとしたら変化し初めかし終わりか……初めは高すぎる、ならギリギリまで見極めて……)

「てやーっ!!」
 隆が体の後ろに隠していた左腕をしならせ、ボールを放つ。
(曲がり始めるまで待って、低め一杯で合わせる……)
 その白球の軌道を見極めようと待つ雄一。

 ビシュッ!!
「!!」
 指先から放たれたのは、時速140キロのストレート。

「しまっ……」
  ズドン!!
 雄一が後悔し終わるより早く、ボールはど真ん中に構えられたミットに飛び込んだ。

『ストライク、アウト!!』

「…………」
 雄一は打席の中で呆然と立ち尽くす。

 意気高くベンチに戻る際、隆と学がポンと手を合わせた。


「…………なんだ、あれは……?」
 スタンドも静寂と小さなざわめきに包まれる。
「……今のボールのこと……?」
「ああ。プロ野球でもあんな曲がる球見たことないぞ」
「じゃあ……もしかして魔球ってやつですか?」
 非日常の気配を感じ、幸華の目がぱっと輝く。
「魔球……そうだな。そうとしか思えん」
 江介も否定できなかった。
「ひかりちゃん、何か聞いてないの?」
「え…………あ、あの……わたしも……その…………初めて見ました…………」
「そうか……むぅ、大リーグボールとは違うし、大回転もハイジャンプもしない、ボールが分身するわけでもないし……」
「何のことですか?」
「いや、魔球にはほら、名前が必要だろう」
「落ちる魔球なら、ドロップボールとか」
「魔球っぽくない、却下」
「えー」
「くすっ……」
 他愛ない会話と、頼もしい隆の「新魔球」に、ひかりの表情が緩んだ。

 一方、三振した雄一が戻った高峰のベンチは、魔球の名前などに関わってはいられない。あれは何か、どう打ち崩すか。隆の速球を打つことを中心にした戦術の転換を迫られていた。
「穂村、何なんだあの変化球は。まさか、本当に魔球などと言うのでは……」
 監督がやや上ずった声で問いかける。
「いえ……確かに見たことはないんですが。球種と、それを投げていた人の名前は聞いたことはあります」
「……まず、球種から聞こうか」
「おそらく……ドロップの一種だと思います。2階から落ちてくるようなカーブ、という表現を見たことがありますから」
「……で、投げていた投手の名前は?」
「沢村栄治です」
「沢村……」
 伝説の投手である。
 米大リーグ選抜を相手に互角以上の投球を見せ、巨人軍のエースとして実働わずか5年で3度のノーヒットノーランを達成。その伝説を支えたのが、左足を高く蹴り上げるフォームから繰り出される160km/hの速球と、3段に落ちると言われたドロップボールだった。
 少年野球で同じチームだった時、憧れの野球選手を語り合ったことがある。雄一が挙げたのが投球だけでなく走攻守に完璧な技術を見せる桑田真澄、昇は華麗な守備と勝負強い打撃で観客を魅了する新庄剛志。そして隆が口にしたのが、伝説の投手の名前だった。だから雄一は、そのボールの正体を一球で見極めることができた。
「で……打てそうか?」
「…………」
 正体がわかったからといって打てるわけではない。だが、高峰中で最もバットコントロールに優れている雄一が「打てない」と言えばチームの士気に関わる。
「バットに当てるだけなら、なんとか……。ただ、あんな変化ですから、すっぽ抜けも多いはずです。捕球も難しいでしょうから、暴投が怖い場面では投げられません」
「ふむ……つまり、あの球をヒットにしなければ勝てない、というわけではなさそうだな」
「はい」
「よし……ならば作戦変更はなしだ。甘いストレートを徹底的に狙え!」
「はいっ!!」


「やったね、たかちゃん」
「決まりましたね、新変化球!!」
「ああ。うまく入ってくれた」
 1回の表を三者凡退に抑え、ベンチに戻ってきた隆を二人のマネージャーが出迎える。
「藤倉、どうだ、捕れそうか?」
「はい。今くらいに決まれば問題ないです。組み立てはどうしますか?」
「んー……でも、まだストライクになるのは半分くらいだ。クリーンナップ以外は直球中心で行こう」
「はい」
 学はそう答えて、バットを持ってネクストバッターズサークルに向かった。
 1回裏、先頭打者の成瀬陽一郎はすでに打席に入っている。

「行くよ!!」
 高峰中学校背番号1。穂村雄一の投球が始まる。
 小柄な体を沈めて右手を後方に振り上げる。摺り足で踏み出す左足に重心を移し、右腕を時計回りに振り下ろす。流れるような円運動の頂点が体側を通過した瞬間、その指先から高速回転する白球が放たれる。
(打てる!!)
 隆より数段遅いスピードの球が、ストライクゾーンのど真ん中に直進してくる。成瀬は自信を持ってバットを繰り出した。
  ギュン……
「え!?」
 ホームベースの直前、ボールが一つ分真下に瞬間移動したように見えた。
  ガッ……。
 真芯で捉えたと思ったボールがバットの下端に当たり、力なくピッチャー前に転がった。
 雄一が軽快に捌き、一塁送球。ピッチャーゴロ。
(さすが……)
 その結果を見届けて打席に向かう学。
(シンカーがあれだけ曲がるのか……)
 下手投げ投手のほとんどが投げるという沈む変化球、シンカーだが、曲がり方が鋭い。元の軌道が低いため隆のドロップほどの落差はないが、捉えることが難しいのは同レベルである。
(……球数を稼いで、打てる変化球を見極めるしかない)

「えいっ!!」
 水平に逃げるスライダーがストライクゾーンの外一杯をかすめる。
「やっ!!」
 外角へ向かうボールが正反対に軌道を変え、内角に食い込むシュートボール。
 あっという間にツーストライクである。
「く……」
 追い込まれた学。
(難しい球でも、なんとか当てないと)
「それっ!!」
 外角低め一杯にボールが伸びる。
(ぎりぎり一杯かっ……)
 短く持ったバットを始動させる。振り遅れではあるが、雄一の球速なら当てることはできるはず。
  クッ……
(外へ――?)
 外向きの角度が加わるのを見て、バットを止める。ボール球だ。
  ククッ……。
(え……!?)
 一度外に曲がったボールが、ベースの側に食い込んでミットに吸い込まれた。

(回転のない揺れる変化球…………ナックル……)

『ストライク、バッターアウト!!』
 一度も打てる球が来なかった、なす術もない見逃し三振であった。

 続く3番木下。
 小さく鋭く曲がるカットボール。
 弧を描いて外角低め一杯に落ちるカーブ。
 浮き上がるように見えるストレート。
 3球目をバットの上っ面に当てて小飛球に終わった。

「七色の変化球……か」
 ヘルメットから帽子に取り替えた隆が小さく呟いた。
「…………大丈夫、早坂先輩なら打てますよ!」
 力づけるように百合が言葉をかける。
「ああ。でもその前に向こうの4番を片付けないとな」

「よーし! やっと俺の出番や!!」
 高峰の4番、渡井昇がブンブンとバットを振り回す。

「4番ですか……」
「まあ、わかりやすい4番だな」
 打席に入る前に見せるスイングの音が客席まで届く。
「あたったら痛そう……」
「でも、あれだけ大きいスイングということは、タイミングを崩す球が有効なはずでしょう。さっきの球が決まれば……ね」
「はい…………」
 純子の言葉にひかりがうなずいた。
「…………」
 いや、うなずいている……というのが正しい。わずかに下に向けた顔を、上に戻していない。

(…………これ……もしかして…………)
 体が重力を失うような、不思議な感覚。痛みや苦しみはないが、決して気持ちの良いものではない。ひかりにとっては、慣れ親しんでいるわけではないが、全く知らない感覚ではない。それは、いつも……。

  ゴロギュルッ!!
「――っ!!」
 息を飲むと同時に体がびくんと跳ねた。
 腸の奥で重苦しい音が鳴り響き、激しい腹痛が繊細な神経回路を一瞬の間に駆け巡る。
(う、うそ……)
 衝撃は一瞬で去り、腹痛や便意も全く感じてはいなかったが、ひかりは体の中に生じた異変に怯えていた。
(こんな…………まだ試合、始まったばかりなのに…………)
 ひかりのおなかはいつでも下痢状態で、毎日10回以上の排便は当たり前のことである。何もしなくてもその程度の下痢になってしまうのだが、さらにおなかを冷やしたり、傷んだものを食べたりすれば、いっそうひどい下痢をすることになる。そうなった日には、排泄の回数など数えられなくなる。これは比喩ではなく、一度止まっても便意がやまず、おしりを拭かないうちに新たな下痢便を吐き出してしまうため、本当に数えることができないのである。
 そんないつもよりひどい下痢の前兆が、あの意識が飛ぶような急激な腹痛だった。
(こんな時に……おなか……こわしちゃうなんて…………)
 ひかりはよほどおなかの調子が悪くない限り「おなかをこわした」とは言わない。普段の下痢では「おなかが痛い」とか「おなかを下す」などの言い方になる。女の子としてはどれも使わずに済ませたい言葉だが、ひかりはそれらの語彙を増やさなければ日々を過ごすことができないのだった。

「ひかり?」
「ひかりちゃん?」
「え……」
 大きく体を震わせたひかりを見て、幸華と純子が心配そうな視線を向ける。
「あ、だ、だいじょうぶです、なんでも……」
  グギュゴロゴロゴロギュググググググルゥーーーーーーッ!!
 口を開きかけたひかりのおなかから、激しい下痢の波動が生み出される。体の外へは音として、体の中へは便意として。
「なんでもないですからっ、……あっ!!」
  ギュルッ!! グルッ!! グゴロロロロロッ!!
 ひどい腹痛に腸内が貫かれる。おなかの音が響くたび、おなかを抱え込んだひかりの前傾姿勢が深くなっていく。
「ひかり……」
 数秒前まで何ともなかったのに、いきなり下痢の苦しみに支配されてしまったひかり。その急激な変わり様に、幸華は驚くしかできなかった。
「…………はぁ……はぁー…………」
「ひかりちゃん、無理に我慢しないで、その……」
 純子も心配げな声をかける。
「は、はい………………でも……んっ……まだ、だいじょうぶですから……」
 ひかりもこの時点ですでに、試合が終わるまで我慢することは不可能だと理解していた。だが、できる限りは我慢しよう、せめてこの守備が終わるまではと、ひかりは便意に苛まれる小さな体を奮い立たせていた。

「あの魔球だ!!」
「!!」
 ひかりがはっと顔を上げる。

 ホームベースの直上、バットが空を切る。
『ストライク、アウト!!』
「ちぃっ!!」
 4番・渡井は唇を噛み締め、バットで足元の土を叩いた。

「……いや、今の反応とコースを見ると、普通のカーブか……?」
「そうね。そんなに浮き上がったような感じはなかったから……」
「まあ、とにかく4番を三振に仕留めたんだ、万歳だろう。この調子で頼むぜ、早坂」
  ギュルゴログギュルルルルルルッ!! ゴロッギュルッグルルルルッ!!
「っ……」
(お兄ちゃん……おねがい……)
 あと二人。早くこの2回表を終わらせてもらい、トイレに駆け込みたい。できるところまで我慢しようと思っていたが、この表の攻撃が終わるまでが限界のようだ。次の攻撃は隆からだが、攻守交替の時間を考えるととても保ちそうにない。

 それから1分。
『ストライク、バッターアウト!!』
  ギュルッ! ゴロゴロゴログギュゥーーーーーグルゴロロロロロッ!!
(あ、あと……少し…………)

「打ち上げたっ!!」
「っ……!!」
 この回3人目の打者への初球。
 ひかりは打ち上げられた打球の行方を確認し、慎重に椅子から腰を浮かせた。
 ピッチャーフライ。
(お兄ちゃん……!!)

『アウト!!』
「っう……!!」
 息を詰まらせて捕球の瞬間を見つめ、それが確認されると同時に走り出す。二死からのピッチャーフライには似つかわしくないタッチアップの光景を、スタンドの制服の少女が演じていた。
 彼女にとっての安全地帯――トイレの個室に滑り込めるかどうか。


「はぁっ、はぁっ……くぅ…………んっ!!」
 ひかりは無事に階段を駆け下りた。
 おなかの具合こそ現在進行形で急降下中だが、幸いなことにもよおしてから5分と経っていない。この程度ならおしりを押さえるまでもなく、ひかりは度重なる便意の波を耐え切っていた。
  ゴロッ、グルッギュルルルルルルルーーーーッ!!
「あぐっ……」
 だが、腹痛の凄まじさはいつも以上である。あまりの痛みに、ひかりは階段を降りきったところでしゃがみこんでしまった。
  ギュルッグルッグゴゴゴゴゴギュゥーーーーーーーッ!!
「あ、ああ…………」
(だめ……ここでしゃがんでたら、きっと……)
 腹痛がいっそうひどくなり、動けないままおもらしに至ってしまう。そんな経験はひかりの記憶の中に何十個もあった。そんな悲劇を防ぐためには、苦痛に耐えながらでも個室に飛び込むしかない。

「んっ……」
 ひかりはよろよろと立ち上がり、震える足取りで個室を目指した。
『…………!!』
「っ……」
 スタンドから歓声が聞こえる。振り向きたい衝動に駆られたが、ひかりの意識はそれ以上に強い排泄欲求に満たされていた。
 トイレの入口を越え、タイル張りの床に踏み込む。個室まであと10歩。
  ギュルギュルギュルゴロゴロゴログゥーーーーーッ!!
「っ……んんっ…………!!」
 痛むおなかをさすりながら、ひかりは足を引きずるように個室を目指す。
 あと5歩。
  ゴロロロロロッゴロゴロゴロギュルッギュルルルルーーーーッ!!
「んっ……くぅっ…………あっ…………」
 個室の中へ入る。
  ギュグググググギュルゥーーーーーーグルルルルルゴロロロロロッ!!
「やっ、あっ……だめっ……!!」
 爆発的に膨れ上がった便意に突き動かされるように、ひかりは鍵を閉めて便器をまたいだ。パンツを下ろし、スカートを前に手繰り寄せながらおなかを押さえ、崩れるようにしゃがみこむ。

  ブリリリリリブビジュブジュブビブババババババババブボォッ!!
「あっ!!」
 勝手に開いてしまった肛門から、悪臭に染まった空気を伴った大量の水状便が噴射される。あまりの勢いに、しゃがみこもうとしていた上体が反動で浮き上がってしまったほどだ。噴射の勢いもすごかったが飛び散り方もひどく、おしりが浮いてしまったことも重なり、便器の後方には細かなしずくが一面に撒き散らされていた。

「っく、うぅっ…………」
  ビュルビジュルルルルルルブピィーーーーッ!!
  ブジュッブッブビビビビビブジュッ!! ブリリリビチビチャブビィーーーーッ!!
  ブジュビチビチビチブシャーーーーーッ!! ブピピピピピビチチチチチビュルッ!!
 小さなおしりが震え、ギュルギュルと音を立てるおなかの中身が便器の中に吐き出される。ようやく始まった便器への排泄は、おなかの苦しみと肛門の痛み、炸裂する大音響と強烈な刺激臭に彩られていた。

(は、早く戻らないと……)
 痛むおなかをさすりながら、ひかりは両目をぎゅっとつぶって排泄を加速しようとする。先頭打者だった兄の打席は終わってしまっているだろうが、あまり時間がかかるようだと次のイニングも始まってしまう。
(早く、早く……)
  ギュルゴロッ!!
「ん、あうぅっ!!」
  ブビビビビッ!! ブジュルルルルビチビチビシャァァッ!!
  ブピュルルルルルルッ!! ビュルブビビビビチビチビチビチッ!!
  ビジューーーーーブビブビブビビビビビッ!! ビチチチチチチチブジュビーーーーッ!!
 おなかの奥から新たな下痢便が下ってきて、肛門から便器の中へと撃ち出されていく。早く排泄を終わらせるためには便が出るのは嬉しいことなのだが、おしりの痛みと排泄音の大きさがひかりのか弱い心を締め付ける。

  ギュルギュルギュルグゥーーーーーーッ……。
「う、くぅ……ふぅぅぅっ…………」
  ブボブジュジュジュブビィィィッ!! ビチブビビビビビビッ!!
  ビチビチビチッ!! ブリビチチチチチブリビシャァァーーーーーッ!!
  ブピブピブピブゥゥゥゥッ!! ブリリリリリブビッブビビビビビブリビィィィッ!!
  ブジュビジャブボボボブビィーーーーッ!! ビチビチブビッ!! ブピピピピピブリビチィーーーーーーーッ!!


「……はぁ、はぁ……」
 憔悴した表情のひかり。両足の間には、凄まじい量の下痢便が海を作っている。それも、全く形のない水状の便だ。便器の底が見えないだけでなく、白いふちをも茶色い飛沫で汚しきってしまい、特にしゃがみきる前の噴出が直撃した便器後ろ側は、どこまでが便器でどこまでが床かもわからない状態だった。

「は、はやく……」
 まだ波打つように痛むおなかをさすりながら、ひかりは深くしゃがみこんだ体勢から腰を浮かせた。
「あ……」
 トイレットペーパーを巻き取ろうとした小さな手が動きを止めた。ひかりの視界に映っていたのは無機質な銀白色のみ。
(ティッシュ……!!)
 紙がない。
 普通の女の子ならパニックにもなりかねないが、ひかりはくぐり抜けてきた修羅場の数が違う。スカートのポケットには常に2つ以上のポケットティッシュをしのばせ、紙がないトイレ、あるいはトイレでない場所での排便に備えているのだった。……もちろん、修羅場を乗り切れずおもらしをしてしまい、手持ちの紙では足りなくなって涙を流した回数も、普通の女の子とは桁違いである。
「んっ……」
 滴る水分を吸い取るようにおしりを拭う。ティッシュは一枚あたりの面積が小さいため2枚重ねにしているが、その繊維越しにじわりと指先に水気が伝わってくる。だが、おそるおそる拭いていたら時間がかかる。ひかりは覚悟を決めたようにやや乱暴にティッシュを肛門になすり付けた。
 
(あとは……これだけ…………)
 おしりを拭き、パンツを上げ、靴に飛び散った水便を拭き取ったひかり自身は、その容姿に相応しい清潔さを取り戻していた。だが、便器のふちに飛び散った大量の汚物はまだそのままだった。ポケットティッシュ2袋では、ひかりのおしりと靴、そして便器の横のふちを拭うだけで精一杯だったのだ。
(誰も来ないうちに……)
 隣の個室なり用具入れなりからトイレットペーパーを持ってきてここを片付ける。さらに使い果たしたティッシュの代わりとしてポケットにも少し補給しておきたいところである。
(うん……)

 ガチャ……
「ひかり、大丈夫? あのね、さっき隆さんが…………」
「…………!!」
 幸華の口は『が』の形に開いたまま固まっていた。視線の先は今ひかりが開けたばかりの個室の床。ひかりがしゃがみきるまで我慢できず、便器の外に吐き出してしまった茶色の下痢便の海。
 
「……あっ……あの、ごめんなさい、その、紙が……す、すぐその、片付けるから……」
 青白かった顔を一瞬で紅潮させたひかりが、あわてて弁解する。
「あ……そ、そっか。紙がなかったのね。……そだ、ここはあたしが片付けとくから、ひかりは先に戻ってて」
「えっ!?」
 思いがけない提案にびくっと震えるひかり。
「だ、だめ、その……汚いし……わたしが汚したんだから……」
「いいの。ひかりが見てた方が、隆さんもやる気出るだろうからね」
「で……でも……」
「ほらほら、いいから早く行きなさい。早く戻らないと、隆さんが悲しむわよ」
「う、うん…………その、ごめんなさい……」
 ぺこりと頭を下げ、ひかりは個室から外に出た。トイレに来る時の苦しげな姿とは異なり、小さい歩幅ながら身軽にぱたぱたと駆けていく。

  …………ギュルッ……。
「……!!」
 その身軽な足取りが、止まった。
「……ひかり?」
「あ、だ、だいじょうぶ……その、急に動いたから、おなかが鳴っただけ……」
「そう……無理しちゃダメよ」
「うん。ごめんなさい……」
 そう言って、ひかりはそそくさとトイレを出て行った。

「わ……」
 近寄ってまじまじとひかりの下痢便の海を見た幸華は、その惨状に絶句していた。
(……あたしが一番下した時よりぐちゃぐちゃじゃない……)
 小学校5年の時にひどい食あたりを起こして、必死に家まで我慢してトイレに駆け込んだ時の便器の中がこれと同じような状態だったことを記憶している。
 一面の茶色。タイル地の床は、白い布と異なって汚れが染み込むことはないが、その代わりに叩きつけられた水状便の飛沫がそのままの形で残されている。放射状に広がる茶色の帯の先に、細かい水滴が半球形を保っている。ひかりの体から排出されてかなりの時間が経つというのに、その汚物はいまだに強烈な刺激臭を放ち続けていた。

「とにかく、紙……あ」
 個室に踏み込めぬまま視線を少し上げた幸華だが、個室のペーパーホルダーに紙が残っていないことに気づいてかすかな声を上げた。ひかりが、個室をこんな状態にしたままドアを開けたのはこのためだったのだ。
 隣の個室をのぞくと、ホルダーに先端が糊付けされたままの未使用の紙が備えられていた。ひかりがこちらの個室に入っていれば、誰にも知られずにこの恥ずかしい痕跡を処理できただろうに。
(本当に限界だったのね……)
 その原因は難なく推測できた。2つの個室の間の距離は数歩に過ぎないが、そのわずかな距離がおもらしか否かを分ける状態だったのだ。

「さ、始めましょか……」
 紙を大量に巻き取り、雑巾のように両手で床の上を滑らせる。便器の後ろからドアの下まで広がった茶色い汚物を、便器の中へとブルドーザーのように押し出していく。
 手のひらにはほとんど抵抗力を感じなかった。ひかりの下痢便は、ゲル状の形すら保てないほどに液化し、粘性がほとんどなくなっていたのである。
「わわ……」
 そのかわり、茶色い汁はあっという間に紙に染み込んでしまう。便器までの距離の半分も進まないうちに幸華は手を離し、新たな紙を追加せざるを得なかった。だが、便器に近づくにつれて汚れも激しくなり、また半分ほどを残して指先が湿り気に包まれる。慌てて手を離し、反射的に指先のにおいをかいでみる。……鼻を刺激する要素だけを濃縮したようなにおいが、幸華の鼻腔を貫いた。
(……ひかり……よくこんな状態で我慢できるわね……)
 トイレの我慢にかけては自信のある幸華だが、これほどの下痢ではどうなるかわからない。それをひかりは、あの小さな体で、痛みと苦しみに耐えながら毎日のように我慢を続けてきたのだ。
 毎日。10年以上の間、毎日。
「だから……かな」
 果てしなく続く苦しみに、一人では心も体も耐え切れなかっただろう。それを支えてきたのが兄の隆なのだ。だから、前の試合も今日も、ひかりはいつも以上に無理をしてスタンドに残り続けたのだ。
「そーね。ひかりが隆さんを応援するなら、あたしたちはひかりを応援しなくちゃ」
 幸華は新たな紙を取り、残った汚物に手を伸ばした。
 手や指の汚れやにおいは、もう気にならなかった。


  ゴボジャーーーーー……。
「……よし、しゅーりょー!」
 長い髪が、勢いよく起こされた上体を追って跳ね上がり、一瞬ふわりと舞って肩にかかる。
「試合はどうなってるかな……?」
 幸華が踵を返した瞬間、その視界に人影が映った。
 小さな体。同じ制服。おかっぱの黒髪。
「……ひかり……」
「さ、幸華ちゃん…………あ、あの……」
「あー、気にしないでいいって。もう片付けも全部終わったから」
「う、うん……あ、ありがとう…………あの、その、わたし…………」


  ギュルグルルルルルゴロッ……!!
「あっ……」
「ごめんなさい…………また……おなかが……ごめんなさいっ!!」
 幸華が瞬きする間に、ひかりは再び同じ個室に飛び込んでいた。片手でおなかを、もう一方の手でおしりを押さえながら。

「あっ、あぅっ…………ぅぅうぅっ!!」
  ブリブビビビビビビビシャァァァァァーーーーーーッ!!
「ひかりっ!?」
 幸華は個室に駆け寄って叫んだ。ひかりの苦しげな声と、間髪を置かず響き渡った炸裂音。もしかして、間に合わなかったのだろうか……!?

「だ、だいじょう…………んっ!! うぅっ!!」
  ブピブピブビブジュビビビビビビビビビーーッ!!
  ジュビブパビュルッ!! ビチチチチチブビブリリリリリビシャーーーッ!!
「…………」
 振動する空気の音と跳ね上がる水の音。どうやら、パンツの中に下痢便が広がっていく音ではないようだ。ドアの下まで飛沫が飛んでこないところを見ると、どうやら今度は間に合ったようだ。

「ふうぅぅぅっ……うく…………んぅっ!!」
  ビチビチビチブビィィィィッ!! ブリドポドポドポブジュッ!!
  ブチュブチュブチュビィーーーーーーッ!! ビチャブビビビビビブリビチチチッ!!
  ビジュルルルルブビビビビッ!! ブジュッブジュブピュブリリリリリビチャーーーーッ!!
「ちょ、ちょっと……大丈夫?」
 どうやら間に合ったのはいいが、まったく勢いを失わないすさまじい排泄音がトイレ中に反響している。ひかりは十数分前に大量の下痢便を排泄したばかりなのに、その量を上回るほどの水状便が今新たに排泄されている。あまりにもひどいおなかの下り具合であった。

  ギュグルルルルグルゴロロロロロロロッ!!
「ひかり!!」
「う、うん……ううぅっ…………うっ!! んうっ!!」
  ビュルルルルルビチッ!! ブピュブピュビュジュッ!!
  ブリリリリリブビビブリビビビビッ!! ジブチュビュジューーーッ!!
  ブピビリュルルルルブビブビブビブビビビッ!! ビシャビシャブジュビシャーーーッ!!
  ブッブジュッブジュパーーーーッ!! ビチビチビチビチブリリリブジュビィーーーーーーーッ!!
 個室の中。ひかりはうなりを上げるおなかを懸命にさすりながら、肛門から苦痛の元を吐き出し続けていた。便器の中は茶色の洪水と化している。
 終わらない腹痛、止まらない下痢。何も考えられず、ただ苦痛からの解放を願うのが当たり前だった。それでもひかりの心は、この安楽の地を離れようとする。

(お兄ちゃん……はやく、はやく戻らなきゃ……!!)


「んっ…………」
  プジュルルルルッ…………ビチッ……!!
 わずかにおなかに力をかけるだけでおしりの穴から飛び出していく下痢便。その勢いが、少しずつ弱まっていた。腸内の下痢便が、やっとすべて便器の中に吐き出されようとしている。

「んっ……ふうぅっ!!」
  ブピ…………プジューーーーーーーッ!! ブジュッ!!
 ひかりは、臍を膨らませるようにおなかに力を入れた。少量の水状便がおしりの穴で弾け、空気と交じり合っていっそう大きい音を立てる。排泄の終わりを華々しく飾るかのように、おしりで弾けたしずくが便器の中の茶色い液面に散った。

「……うぅ……は、早く…………あ……」
 ひかりは紙を手に取ろうと壁を見たが、銀色のホルダーの中には白い色は見えなかった。その代わりに、床に置かれて乱雑に巻き取られたペーパーロールが残っていた。ロールの厚みが半分ほどに減っていたのは、幸華がこの個室を掃除するために使った分である。便器の外に飛び散らせてしまった下痢便を綺麗にするには、相当の量の紙が必要だったのだ。

(幸華ちゃん……ごめんなさい……)
 紙を銀色のホルダーにつけて、くるくると巻き取る。4回折って2の4乗、16枚重ねの紙をおしりに押し付ける。一瞬の後に、じわっと湿った感覚が指先を覆った。これだけ重ねても、ほとんど水そのものの便はあっさりと紙に染みこんでしまう。
 何度も指先に冷たい感覚を覚えながら、ひかりは急いでおしりを拭き続けた。

「もう……中で倒れるんじゃないかと思ったわよ」
「ご、ごめんなさい……」
 幸華に心配されながら、ひかりは陽光注ぐスタンドへと戻ってきた。
 グラウンドに散っているのはストライプの高峰のユニフォーム。桜ヶ丘の攻撃中だ。スコアボードに目をやると、3回表まで5つのゼロが並んでいた。打順は9番、アウトカウントはすでに二死。
『ストライク、バッターアウト!』
 主審の手が上がり3つめのアウトが加算された。外角低め一杯の直球、全く手が出ない見逃し三振だった。
 攻守交替。
 桜ヶ丘の選手が駆け足でそれぞれの守備位置へ向かう。マウンドから戻る雄一と、マウンドに登る隆が短く言葉を交わした。

「さっきのドロップ、すごかったね」
「まあ、秘密兵器だからな」
 やはり球種は知っていたか。隆はどこか嬉しく思いながら、平然と言葉を返した。
「……でも、次は打つから」
「……いや、次も抑えるさ」

  ギュル……キュルルルルルッ……!!
「うんっ……ん……っっ……」
 座席に座ったひかりは、しきりに痛むおなかをさすっていた。トイレで二度にわたって水状の便を吐き出したのに、全くおなかの痛みが引かないのだ。強烈な便意こそ息を潜めているが、おなかに力を入れれば汚水がもれ出しそうな鈍い圧力が肛門にかかっている。

『プレーボール!』
 主審の右手が上がり隆が投球モーションに入る。
「でやっ!!」
 しなる左腕が生み出す速球。一瞬遅れて振り出されたバットに空を切らせ、学が構えるミットを叩いた。

「ひかりちゃん、早坂くんは大丈夫よ、昨日と同じで絶好調みたい」
 ずっと試合を見ていた純子が声をかけた。3回裏まで9人を凡退、うち三振4。強打の強豪・高峰を相手に、一歩も引かない投球が続いている。
「は、はい……」
  ギュルルルゴロゴロゴログゥゥゥッ……!!
 おなかを押さえて前傾するひかり。額に浮かぶ汗が暑さのせいでないことは、青白く憔悴した顔色が示している。ひかりの不調は誰の目にも明らかだった。
「……ひかりちゃん……」
 無理はせずに休んでと言いたいところだったが、ひかりが隆の試合を見届けたい気持ちも十分にわかる。純子はそれ以上の言葉を続けられなかった。

「オーライ!!」
 先頭打者はライトフライ。
「ショート!」
「はい!」
 次打者はボテボテのショートゴロ。
 あっさりと二死を取って、迎えるバッターは3番・穂村雄一。

「いくぞ!」
 初球はストレート、ややコースは真ん中だが、球威はこの試合一番の勢いだ。
「そこっ!」
 雄一のスイング。体格は小柄だが、無駄の一切ない軌道でバットの芯がボールに向かう。
  キィン!

「く!」
 三塁線を鋭いグラウンダーの打球が抜ける。
『ファール!』
 …………塁審が両手を上げた。ファールだ。

(速いだけじゃダメか……なら、ぎりぎりのコースで手を出させる……)
 学のサインに隆が即座に頷く。
「いけっ!」
 外角高め一杯、からボール2つほど外れたコース。
「…………ボールだ」
『ボール!』
 審判の右手は上がらず、1ストライク1ボール。

(コースの見極めも完璧……なら、これしかない)
「わかった。……これで!!」
「……来たっ!」
 大きく弧を描いて落ちるドロップ。
(球速は遅い……ぎりぎりまでボールを見るんだ!)
 これだけの変化でありながら、コースはストライクゾーンに入っている。雄一はスイングを始動させながら、ボールの変化を追った。
「真ん中だ……当ててみせる!」
 落下するボールにスイングの軌道を合わせる。
  チッ……。
 バットより一瞬早くボールが沈んだが、その上端をバットがかすめた。
「あ……!」
 深く沈んだボールは学の手前で跳ね、大きく後ろに転がった。
『ファール!』
 捕球できなかったため、判定はファウルチップではなくファウル。2ストライクになったが、今度は空振りさせても捕球できなければ振り逃げになってしまう。

(かすっただけとはいえ当ててきた……やっぱり、ただドロップを使うだけじゃ抑え切れない)
 必死に特訓したとはいえ、ドロップの完成度はまだ低い。ど真ん中でもストライクゾーンに入れば上々というレベルだ。
 カウントは2-1と打者を追い込んでいる。しかし、コースを狙えば捕球が難しくなり、甘いコースなら当てられてしまう。精神的に追い込まれているのは決め手を欠くバッテリーの方だ。
(なら……このサインで!)
 学がサインを出す。

「…………」
 隆は首を振った。

(隆君が、サインに首を振った……!?)
 雄一がわずかに目を見開く。今までの試合でも、隆が捕手・藤倉学のサインに首を振ったことはなかったのだ。
(ドロップは全部枠に来てる……けど、振り逃げがある今は捕球の心配があるはずだ。ストレートのサインに首を振ってドロップ……? それとも、カーブ?)

「…………よし」
 送り直したサインに今度は隆も頷き、ワインドアップの投球動作に入る。
(きっと最初のサインはストレートだ。それなら、来るのはドロップ!)

「勝負だ、雄一!」
「来い、隆君!」
 隆の左腕から白球が放たれる。

 軌道は直線。

「ストレート!?」
 コースはど真ん中だ。だが球速は1球目よりさらに早い。

「くっ、間に合え――」
  ズドンッ。

「……………………僕の、負けか」
 一瞬遅れたスイングは隆の渾身の速球に及ばず。
 空振り三振、バッターアウト、チェンジ。

「やったあ!!」
「やったやった!!」
 スタンドでは幸華と美奈穂がハイタッチをしている。
「お兄ちゃん……うっ……」
  グギュルルギュルギュルギュルグピーーーーッ!!
 一瞬表情を緩めたひかりだったが、すぐに猛烈な便意に襲われ目を閉じた。
 おなかをさすりながら耐える数秒の後、ひかりは席を立ってトイレに向かって駆け出していく。

「やりましたね早坂先輩!」
 ベンチに戻った隆が、百合の歓迎を受ける。
「ああ、藤倉のサインのおかげだよ」
「サイン? そういえば、先輩が首を振ったのって初めて見ました」
「そうだね、どうしたのたかちゃん?」
 ずっと隆を見つめていた百合も、付き合いの長い美典も隆がサインに首を振るのは見たことがなかった。
「最初は何のサインだったんですか?」
「ああ」

「首を振れ、というサインさ」



「…………はぁっ、はぁっ……」
  グルルルゴロギュピーーーーーッギュルルルルルピーーッ!!
 激しく痛むおなかをなだめ、今にも開きそうなおしりの穴を押さえつけながら、必死にトイレに向かう。数メートルの距離が、遠い。
「うぅっ……んぅぅ……」
  ゴロゴロゴログルルルルルピーーーーーーギュルッ!!
 トイレのタイルが目の前に広がる。数十分前に吐き出した水状便の残臭がわずかに感じられるが、恥ずかしさを感じている場合ではない。ひかりは脇目も振らず、さっきと同じ一番近い個室に飛び込んだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 鍵を閉めながら便器をまたぎ、スカートを跳ね上げる。まだ真っ白なパンツをずり下ろし、がくがくと震える脚を折り、噴火口のように盛り上がったおしりの穴を便器に向ける――。

「あっ……!!」
  ビジャーーーーーーーーッ!!
  ビシャビシャビュルルルルルビィィィィッ!!
 後ろのタイルに直撃はしなかったものの、便器の中ではなく縁の部分に向けて水状便を噴射してしまった。当然、タイルにも二次被害が及び、さらにおしりや靴にも跳ね返った水便の滴が飛び散ってしまう。

(だめ……ほんとにおなかこわしちゃってる……止まらない……!)
  ビュルビチビチビュリリリリリブシャーーーーーッ!!
  ビューーッビュルルルビシャビシャビシャブジャーーーーーッ!!
  ブビュバッ!! ビュリリッ!! ビシャビシャビシャビシャーーーーッ!!
 肛門から強烈な勢いで水便が飛び出し、便器の底を叩いている。おなかに力を入れているわけでもなく、肛門の広がりも小さいが、水流が細い分噴射圧力が強い。便器の底に溜まるだけでなく、便器の側面をも茶色い飛沫で汚していく。

  ギュルルルルルゴロロロロログピーーーーーッ!!
「うああっ…………うぐっ…………んっ……!!」
  ブジャビジャビチビチビチブバババババビュルッビシャブシャシャーーーーッ!!
  ビューーーーーーーービュルルルビチビシャアブジュルルルルビィーーッ!!
  ビシャビシャビシャブピジュッビチビシャーーーーーービュルビジャーーーーッブビビビビィーーッ!!
 激しく収縮する腸の痛みに迫られ、ひかりは痛むおなかに力を入れる。途端に水状便の勢いが増し、便器の内外を激しく汚していく。すでに茶色い斑点ができている靴下に、さらに新たな汚れが加わっている。おなかの具合がより悪化したためか、水分が増えて茶色が薄くなってきている。

  グルルルッギュルルルルゴロゴロゴロッ!!
  グギュゥゥゥーーーーーギュルギュリリリリリッ!!
「ううぅっ……はぁっ、はぁっ……うあっ……」
  ビシャッ!! ブシュルーーーッ!! ビュリリリリッ!!
  ビチビチブジャーーーーーッ!! ビュリブババッビシャアーーッ!!
 出しても出しても腹痛と便意が治まらない。おなかとおしりから苦しげな音を響かせながら、ひかりは必死に排泄を続ける。

  ゴロロロギュルルルグルピーーーーーッ!!
(はやく、早く戻らないと試合が……)
  ビシャビシャビシャ!! ビュルルルビピピピッ!! ビュッ!!
  ビュビュビシャーーーーッ!! ブジュビチビチビチブバババッ!!
 苦痛に埋め尽くされた思考の中で試合のことを考えるが、その瞬間にもおしりから水状便が便器に注がれている。とても外に出られる状態ではなかった。今のひかりにできることは、おなかの中の汚水を全て体外に排出することだけだ。


  コンコン……
「くぅぅぅっ……はぁっ……うぁぁっ……!!」
  ビチッブビビビビブシャブシャビィィッ!!
  ビュルーッビューッビュルビュリュビュルルルルルビシャーッ!!
 目をぎゅっと閉じて必死におなかに力を入れるひかり。ドアが小さくノックされたが、それに気づかず排泄を続ける。

  ドンドンッ!!
「ひかりちゃん! 大丈夫!?」
「え…………白宮……先輩?」
  ビシャーーーーッ!! ビュッ、ビィッ……。
  ビュッ……ビチッ……ビュルッ……。
 個室の外に純子の声を聞いたひかりは、慌てておしりの穴を締めた。
「だ、だいじょうぶ……です……っ……!!」
  ギュルルルルルグゥーーーーーーッ!!
  グルッゴロゴロゴロ!! ギュルルグピーーーーーーッ!!
 苦痛に耐えながら返事をするが、すぐにおなかが猛烈な音を立て始める。同時に、閉じた肛門に凄まじい圧力が押し寄せてきた。
「ひかりちゃん、辛かったら医務室で休めるわ、一緒に行くから」
「……だいじょうぶ……です…………その………………あのっ……」
  グルルルルルギュルルルルルグギュゥゥゥーーーーッ!!
 ひかりの言葉の続きはおなかから響く音が語っていた。無理をして排泄を中断したが、早くも肛門の締め付けが限界に達していたのだ。
「わ、わかったわ……ほんとにつらかったら言ってね」
 純子はそう言い残し、急いで個室の前を離れた。

「あっ、うぁっ…………あぁっ……!!」
  ブバビシャーーーーーーーッビチビチビチビィィーーーーーッ!!
  ビシャッブシャビチャジュバーーーーーッビュリリリビシャビシャビシャ!!
 その姿がトイレから消えるより早く、ひかりのおしりの穴が押し開けられ、猛烈な勢いで汚水が噴き出していった。
「…………ひかりちゃん……」
「ふぅぅっ……うんっ…………うう…………」
  ビュルルビシャーーーーーッビチビチビチブジュブジュブジュブビッ!!
  ブパパッビシャッブジュビシャビュリッビィッ!! ビュルルルルビュルビシャビシャーーーーッ!!
 音を気にするどころではない猛烈な噴出。
 ひかりの排泄は、まだまだ終わりそうになかった。



  グギュルルルルッ……ギュルルゥゥッッ……!!
「うぅぅ……」
  ブシャッ……ビシャーッ……ビュッ……
 断続的に続いていた水便の噴出がやっと勢いを弱める。
 便器の底は白い部分が全く見えないほど、茶色い液体に埋め尽くされていた。底だけでなく、側面にも激しく飛び散った飛沫が跡を残している。特に、最初の噴出流が直撃した便器後方は茶色いペンキで塗装されたかのようだ。

  ゴロゴロゴロギュルルルルルッ!!
「あぐっ………………うぅ…………」
 腰を上げかけた所で激しい腹痛に急襲され、おなかを抱えて両目を閉じる。
(どうしてこんな……これじゃ、またあの時みたいに…………)
 突然猛烈な下痢に襲われトイレから離れなくなる、という経験は一度ではないが、やはり記憶に残っているのは5年前、母と一緒に兄の試合を見に行った時のことだ。試合の途中で急にお腹の調子が悪くなっておもらしをしてしまい、そのままトイレから離れられず母にずっと付き添いをさせてしまった。
 その結果、兄と母の間に決定的なすれ違いを招いてしまった。母が亡くなる直前に和解することはできたが、そもそもあの時に自分がおなかをこわさなければ、母が生きている間にもっと仲良く過ごせたはずなのだ。もう少し我慢できていれば。苦しくても、トイレから出て応援に戻っていれば。

(うん………………戻らなきゃ……)
 下腹部の感覚から、すぐに便意がよみがえってくることが予測できる。本来なら、このままトイレにこもりきりたいほどひどい下痢症状だ。しかし、それでもひかりは苦しみに耐えて目を開け、いまだ茶色い滴を垂らしているおしりに白い紙を当てる。

  ギュルルルルル……ゴロッ……ゴロロッ……!!
「……うぅ…………早くっ……」
 何度も紙を取り、おしりの穴を汚し切った水便を拭きとる。便器に落とした紙は、数秒のうちに先端まで茶色く染まっていく。拭き終わってパンツを上げてからも、汚してしまった便器や床を拭いていく。

 
「…………………………」
 水を流す前に目を向けた便器の中はひどい状態だった。一面を埋め尽くした水状の便に浮かぶ、同じ色に染まった紙。室外からの熱気が流れ込み、強烈な刺激臭がさらに増幅されて立ち上っている。だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。ひかりは痛むおなかをさすりながら、水洗のレバーを倒した。

  ゴボジャーーーーーー……。
 ひかりの身体の中にあった汚水が水流に押し流されていく。側面に飛び散った飛沫を一部残して、激しい排泄の痕跡は下水へと消えていった。
「………………………」
 やや青ざめた顔に浮かんだ汗を拭い、ひかりは小走りに個室を後にした。


「やった!」
「エラーか!?」
「ヒットよ!!」
「あ……」
 可能なかぎり急いでトイレから戻ったひかりだったが、スタンドに出た時にちょうど隆の打席が終わっていた。
 一塁を駆け抜け、ゆっくりとベースに戻る隆。スコアボードにはHのランプが灯り、ボールは二塁手から投手に戻る。セカンド強襲の内野安打。両チーム通して初のヒットである。

「やったわねひかりちゃん、早坂くんが初ヒットよ」
「は、はい……」
「おにーちゃんすごい!」
「ま、内野安打だけどな」
 ささやかな喜びが桜ヶ丘のスタンドを包んでいた。

「チェンジアップがギリギリに入ったのに……うん、さすが隆君」
「よし……とにかくまずは1点だ」
 塁上の隆と投手板上の雄一が視線を交わす。

『5番、サード、芝田君』
「まあ、ここはこれしかねえよな」
 5番芝田は打席の大半が三振か長打という強打者だが、七色の変化球を持つ雄一を相手に振り回しても勝ち目はない。躊躇せず、バットを横に倒した。
「送りバント狙い……なら!」
  雄一の腕がしなり、膝の高さから白球が放たれる。

「ゾーンに来た! 初球で決めるぜ!」
「そう簡単には……送らせない!」
「なにぃ!?」
  グッ……
 ホームベースの直前、ボールが急激に変化した。
 上へ。

「くっ!」
 重力に逆らうその動きに、一瞬遅れてバットを追随させる。
  パキッ……

「キャッチャー!」
「しまった!!」
 浮き上がるボールを捉えきれず打ち上げてしまった。
 バント失敗、キャッチャーファールフライ。ランナー早坂は一塁に釘付けである。

 6番セカンド、左打ちの古西が打席に入る。
 こちらは小技が得意なタイプだが、一塁ランナーを返すほどの長打は望めない。
「とにかく先の塁へ!」
「させないっ!」
 当たり前のように外角一杯に決まる変化球。
 初球見逃し、二球目ファール。
「スリーバントでもバスターでも……来るならこい!」
「くっ!」
 バントの構えからバスターに切り替える。
 二球目と同じコース、球種はシンカー。

「転がせば……な、なんで!?」
 一二塁間を狙ったグラウンダーの打球。だが、その真正面には二塁手が回り込んでいる。
「セカン!」
「くっ!!」
 二塁に走る隆も脚は遅くないが、注文通りのゲッツーコースを覆す超人的な脚力はない。滑りこむ前にベース上の遊撃手にボールが渡り、即座に一塁転送。
『アウト! チェンジ!!』
 4-6-3のダブルプレーで一転チェンジ。
 桜ヶ丘、初安打で無死一塁のランナー生かせず、結局5回裏は打者三人で終わった。

「あちゃー、ゲッツーか」
 客席から立ち上がっていた桜ヶ丘の生徒たちも崩れるように座り込む。
「残念だったわね、ひかりちゃん。……ひかりちゃん?」
「………………すみません、また、失礼しますっ」
 その中、一人だけ座り込まず、かけ出す小さな姿があった。
 

  グルルギュルルルルルッ……。
「はぁ……はぁっ……」
 おなかをさすりながらトイレに駆け込んできたひかり。まだ、おしりを押さえるほど切羽詰まってはいない。点が入らなかったのは残念だが、早く攻撃が終わって区切りがついたために余裕を持ってトイレに向かえたのだ。

  ギュルッ、ゴロッグルルルルッグピーーッ!!
「あっ……うぅぅぅ…………」
 とはいえ、決して余裕があるわけではない。腸内の圧力は気を抜けば即おもらしの状態まで高まっている。数分前まで使っていた一番手前の個室に飛び込み、鍵を掛けてパンツを下ろす。

「もう…………ちょっと……んっ!!」
  ブシャッ!! ビシャァーーーーッ!!
  ビュリリリリリブピビシャァッ!! ブジュビィーーーーーッ!!
 便器の中心をとらえたことを確認してからおしりの穴を全開にする。その瞬間に猛烈な勢いでの噴射。せっかく側面まで綺麗にした便器が、一瞬で元の汚さに塗りつぶされる。

  ギュルゴログギュルルルルッ!!
「うぅぅ……痛っ…………うぅ……」
  ビシャビシャブビビビビビッ!! ビチチチブジューーッ!!
  ブピッビュリリリブバビュルーーーーーッ!! ジュビビビビッ!!
 一層水気を増した便が激しく飛び散る。便器の底を叩く本流が絶え間なく流れ落ち、肛門で弾けた飛沫が周囲を汚す。

  グルルルギュルギュルルルルルピーーーッ……
「はぁっ……はぁっ…………くぅぅ…………」
  ブシャブシャビチビチビチビチッ!! ブビビビッ!!
  ビュリビシャーーーーーーービュルビシャビチャーーーーーッ!!
  ブビィィィィビチチブジュビチャッ!! ブシャビシャビィィィィッ!!
 激しく痛み続けるおなかを何度もさすり、痛みの元凶である汚液を便器に注ぎ続ける。これだけ大量の水状便を出しているにもかかわらず、おなかの痛みは消えず、おしりからの噴出は止まらない。普通の女の子なら一生に一度も経験しないような激しい下痢だ。

 ワアッ……。
「え……?」
 トイレの外から聞こえる歓声のざわめき。おそらく、試合に動きがあったのだ。便器の中の惨状に反して、ひかりがトイレに駆け込んでから時間はそれほど経っていない。なら高峰の攻撃中――ということは、隆がピンチを迎えている可能性が高い。

(も、戻らなきゃ……)
  ゴロゴロギュルギュルグピーーギュルピーッ……!!
「んっ…………」
  ブジュルッ!! ビュリッ! ビィッ!! ビシャシャッ!!
  ブジュ…………ビュルッ……ビュリッ……!!
 まだ排泄が続いているおしりの穴を強引に閉じて、慌ただしく紙を巻きとって拭く。1回、2回……まだ茶色い色が滲んでいる。

「は……はやくっ……」
 ひかりはやむなく、拭きかけとわかりながらパンツを上げた。感覚がなくなりかけているおしりの穴の周りに、湿った接触感が広がる。しかし、気にしている時間はない。ひかりは水洗のレバーを倒し――。

「…………えっ…………?」
 水が流れない。
(ど、どうして……さっきはちゃんと…………)
 故障で水が流れないとなれば、この汚水の海をそのままに個室を出ないといけない。もし誰か来たら……。

  ギュルルルゴロゴロゴロ……。
(お願い…………流れて………)
 おなかをなだめながらレバーをもう一度倒し…………静寂。

 ワアアッ……。
「あっ……!?」
 ひかりが迷っている間にも試合は進んでいく。さっきより大きい歓声。もしかして高峰に先取点が入ったのかもしれない。

  ギュルゴロピーーーーーーギュルルルルルッ!!
(……ごめんなさい、すぐ戻って片付けるから……)
 ひかりは誰にともなく詫びてドアを開けた。どのみち、今のおなかの具合ではすぐにトイレに戻ってくることになる。その時にちゃんと片付けようと決心する。幸い、トイレには他に人はおらず、汚物で一杯の便器を残して個室から出る姿は見られずにすんだ。


「ひかりちゃん! 大丈夫?」
「…………はい……その…………試合は……?」
「フォアボールで先頭打者が出て、いま送りバントでワンアウト2塁よ」
「そ、そうですか…………お兄ちゃん……」
 すでに次打者のカウントも2ストライク2ボールまで進んでいる。さらに四球を出せば一・二塁で上位打線に回る。

「9番とは言っても高峰のレギュラー……簡単に行ったらやられる」
 白球を握る左手に力を込め、隆は投球モーションに入った
「でやぁっ!」
 投球の軸になるのはやはり速球。右打者の内角に食い込む角度で空中を走る。だが、その軌道の先に迷いなくバットが振り下ろされる。

(……読まれた!?)
  カキィンッ!
「――――!!」
 痛烈なピッチャー返しがマウンド上の隆に迫る。

「きゃあっ!」
「危ない!」
「お兄ちゃん!!」

「……止める!」
 左足を地面に下ろし、真正面に飛来する打球にグラブを向ける。顔のやや左横数センチ――。
「ここだ!」

  バシィッ!!
「止めた!?」
「戻って!!」
 大きくはないがよく通る雄一の声。セカンドランナーが飛び出している。

「もらった!!」
『アウト!!』
 頭から滑り込んで戻るランナーに二塁手がタッチ。桜ヶ丘も、ダブルプレーでピンチを逃れた。

「ふぅ……助かったな……」
「よかった……お兄ちゃん……」
  ゴロロロギュルルルグルルルルルッ!!
「あ、あっ……!!」
 気を抜いた瞬間に便意の波がひかりを襲う。肛門が膨らむ感覚に、慌てて指先をおしりに伸ばす。

  ビュルッ!!
「あっ!!」
 だが、押さえるより一瞬早く、水状の便がおしりの穴をこじ開けてしまった。即座にパンツに受け止められ、消えない茶色の染みを作る。

  ギュルギュルギュルッ!!
「あぅ……っ!!」
  プジュッ!! ビチビジュッ!!
 おしりの穴を全力で押さえこみ、被害を最小限に留める。

「ひかりちゃん……」
 大丈夫、と訊くのもはばかられるほどの苦しげな様子に、純子も言葉を詰まらせた。
「ご、ごめん、なさい……ぅぅっ……」
 ひかりは青ざめた顔を再び真っ赤に染めて、おしりを押さえながらトイレへ走って行った。


「うぅっ……」
 トイレに入る前から目に入る個室の惨状。ひかりが使った便器は、受け止めた汚物をそのままの姿で残していた。自分が出したものながら躊躇してしまうほどの汚さだが、ちびり始めてしまったおしりはもう限界に達している。

  ブジュルッ!! ビチッ!! ビュビュッ!!
「ああ…………っ!!」
 指先におもらしの感覚を覚えながら、ひかりはトイレに駆け込む。
(もうだめっ……!!)
 扉を閉める余裕すらなく、そのままパンツを下ろす。水状便の茶色が染み込んだパンツが腿に下ろされると同時に、汚れた肛門の奥から新たな激流が放たれた。

「…………っ!!」
  ビチビチビチブビシャアアッ!! ビュルルルルビチャビチャビチャッ!!
 しゃがむ途中で出てしまった水状便は、さっき幸華に掃除してもらった便器後方を再び塗りつぶした。
「ぁうっ…………!!」
  ビシャビシャビュルルルルブピィ!! ビジュビシャビシャビシャビィッ!!
  ブビビビビビブジュビシャーーーーーーッ!! ビチビチビシャシャーーーッ!!
 やっと肛門が便器を捉え、茶色い水流を滝のように注ぎこむ。すでに溜まった水状便の海に打ち付けられ、いっそう激しく飛沫を飛ばしていく。
(は、早く閉めなきゃ……!!)
 ドア開けっ放しで排泄を始めてしまったひかりの心が羞恥に包まれるが、真後ろにあるドアを締めるにはいったんおしりを便器から離して立ち上がる必要がある。ひかりは必死におしりの穴を締め付けるが、度重なる我慢に力を失った肛門は言うことを聞いてくれない。

「くぅ……っ……!!」
  ブビビビビビジュビィッ!! ブピ……ブジュルーーーーーッ!!
  ビシャビシャビシャッ!! ビッ……ビュッ……ビィッビュリッビシャーーーーッ!!
  ブジュッ……ブピピピッ……ビュルルルルルッ……ビシャッ…………ビュッ……!!
(だめっ……早く……早くっ……)
 激しい噴出を無理やり押さえつける無謀な戦い。ひかりは必死におしりの穴を締め、何度も噴出に屈しながら、少しずつその勢いを削いでいく。

(…………今なら……!!)
 汚れたパンツを両足の間に渡したままの格好でひかりは慎重に立ち上がり、上体を振り向かせる。片足を前に出してドアを回転させて定位置に戻し、両足を一歩ずつ後退させて鍵に手を伸ばす。

  ガチャ……。
「っ…………ふぅ…………」
  ギュルルルルルルルッ!!
「……っあ!!」
 ドアを無事に閉めてやっと一息ついたひかりに、さらなる便意が襲いかかる。過負荷をかけ続けていた肛門に、もはや耐える力は残っていなかった。

「あああっ!!」
  ブジュビシャーーーーーーッ!!
  ビシャビシャビュルルルルルブバァーーーーッ!! ビュルビチィブピーーーッ!!
  ビシャビュルブジュビィッ!! ビチビチジャアアアーーッ!!
 中腰の体勢のままおしりを全開にしてしまったひかりは、便器の後方どころかドアの下の隙間めがけて水状便を噴射してしまった。慌てて両足を前に出してしゃがみ込むが、その間も水状便は流れを止めず、下半身の動きに合わせて右に左にその狙点を変えて床に飛び散っていく。

(ど…………どうしよう…………? 外まで……汚しちゃった…………?)
 さっき便器の外を汚したのが可愛らしく見えるほど凄まじい汚物の飛び散り方。トイレを汚してしまう経験が多いひかりにとっても、これほど激しくやってしまったのは数えるほどしか記憶にない。
(…………早く……早く出て片付けないと…………)
  グルルルギュルゴロピーーーーーーッ!!
「うぅっ…………んぅっ……!!」
  ビシャーーーーッビチビチジュビビビビブパッ!!
  プピピピブピビュシャビシャビィィッ!! ブリビシャーーーーーーーーッ!!
  ビューーーッブピィーーーーッビチビチビチビューーーーーッ!!
  ビュリッ!! ブジュブジュブパッ!! ビシャビィィーーーーーッ!!
 早く終わらせたいと思った瞬間、それをあざ笑うように猛烈な噴出が始まる。もう肛門を締めて勢いを弱めることもできず、ひかりのおしりは全開で爆音を奏でていた。直下に広がる汚物の海がさらに飛沫を上げていく。さっきおしりを拭いたトイレットペーパーは幾度も水便の直撃を受け、細かい繊維へと砕け散っている。

  ギュルッ……ギュルルッ……ギュルルルルルルルルッ!!
(……お願い…………早く…………早く……!!)
  ピジュブジャビシャーーーーーーーーッ!! ビュリリリリブジュビィッ!!
  ブシャーーービシャビシャビシャブババッ!! ビィィッビュリリリビジューーーッ!!
  ビュリブジュビシャッ!! ビチビチビュリビュシャーーーーービュバババッ!!
  ブジュビシャッビュルルルルルッ!! ビチビチビチブピィビシャビシャビシャーーーーッ!!
 激しく、そして長く続くひかりの下痢。途絶えることのない腹痛に苦しみながら、ひかりは水状の便を吐き出し続ける。体中の水分が失われ、熱気の中で倒れそうになりながらも、それでもまだ早く外に出ることを願う。
(…………お兄ちゃん…………!)


「はぁっ……はぁ……っ…………」
  ビュッ……プジュ…………ビシャッ……ポタッ……。
 大量の水便を便器内外に飛び散らせたひかりの排泄がやっと終わりを迎えた。

(……………………どうしよう…………)
 ほとんど感覚の残っていないおしりの穴を数回拭いた後、我慢できずちびってしまったパンツの汚れを見つめる。水状の便は完全に布地に染みこんでしまい、もはや拭いても落ちそうにない。洗剤で洗ってもはっきりと跡が残るだろう。ひかりは再利用を諦め、パンツを脱いで汚物入れに捨てるしかなかった。幸い、スカートのポケットの中に1枚だけは替えのパンツを持ち歩いている。今度は汚さないようにと決意しながら、真っ白なパンツを両足に通す。
 だが、それだけでは後始末は終わらない。便器の中を埋め尽くし、便器の後方から個室の外まで飛び散った水状便。立ち上る刺激臭が、同量の水分を失ったひかりの体に突き刺さる。

  ギュル……キュルルルルルッ……!
(綺麗に……しなきゃ…………)
 絶望的とも思える汚れ方にくじけそうになる心を叱咤し、痛みの止まないおなかをなだめながら、ひかりは紙を手にとって便器の後方を拭き始めた。水そのものの便は容易に紙に吸い込まれ、指先に湿った感覚を与える。拭き終わった紙を便器の中に落とすと、汚れていない部分まで一瞬にして茶色く染まる。紙でとても吸収しきれないほど大量の水便が便器の中に溜まっているのだ。

(……これで……なんとか…………)
 個室にあった紙を全て使いきってやっと、床に飛び散った汚水を拭き終わった。だが、まだ個室の外に飛び散った分は残っている。それを綺麗にするためには、扉を開けないといけない。一縷の望みを託して水洗のレバーを倒してみたが、結果は同じだった。

(お願い、誰にも見られませんように……)
 音も立てないようにそっと鍵を開け、個室の外を覗き見る。幸い、トイレの中に他の人影は見られなかった。

「…………………………っ…………」
 足元にはやはり、相当量の水状便が飛び散っていた。直径20cmほどの池の周り、その数倍ほどの範囲にわたって飛沫が飛び散っている。自分のやってしまった行為に顔を赤くしながら、ひかりは隣の個室から紙を確保し、汚してしまった床を念入りに拭いた。

(………………よかった……これで大丈夫…………)
 ワアアッ……!!
「!!」
 紙を戻してトイレを出ようとした瞬間、外から歓声が響いた。後始末にかなりの時間を要してしまっている。どちらの攻撃か、すぐには判断できない。

「お兄ちゃん……!」
 ひかりは顔を上げ、スカートを翻してスタンドへと駆け出した。


 7回表、高峰中学校の攻撃。一死二塁、打者は3番穂村、フルカウント――。
「はぁ……はぁ……」
「ひかりちゃん!」
 スタンドに戻ってきたひかりの姿を見つけ、純子が駆け寄る。
「大丈夫?」
「は、はい…………試合は……?」
「フォアボールから送りバントで二塁……でも、スピードは落ちてないし、きっと大丈夫よ」
「…………はい…………」
 ひかりは汗をぬぐいながらマウンドを見つめた。

「……だめだ、ボールは見切られるし、カーブもカットされる……」
 キャッチャーマスクの奥、学の額に汗が浮かんでいた。打席の雄一には速球もカーブも通用しない。残された球種は一つ。
「一か八か……ストライクゾーンに入れ!!」
 投じるのはこの打席初めてのドロップ。山なりの軌道を描き、ベースの上空をかすめる。

「来た……軌道さえ見えれば!」
  ガッ!!
「!!」
『ファール!!』
 速球のタイミングで始動し、ドロップが来たらスイングのタイミングと軌道を合わせ、ファールにする。言うのは簡単だが、落ちてくるボールは点でしか捉えることができない。少しでもタイミングか軌道がずれれば空振り三振だった。それを、いとも簡単にカットしてのける。

「…………はぁ、はぁ……次は、ヒットにしてみせる」
「…………くっ……」
 決め球のドロップが通用しないとなれば、力で抑えるしかない。幸い、スタミナはまだまだ残っている。全力投球、その一球に賭けた。
「いくぞ!」
 セットポジションからの内角高めストレート。隆のボールの中で一番威力のあるクロスファイアーだ。
「見えた……ここだ!!」

  キィン!!
「な……!」
 ボールは隆の頭上を鋭く越え、前進守備のセンターの正面で跳ねた。
 二塁走者は三塁を回った所でストップ。

「ようやった雄一、後は俺にまかしとき」
 一死一・三塁。打順は4番、渡井――。

『タイム!』
 学の求めに応じて球審がタイムを宣言した。
 マウンドに内野手が集まる。

「く……威力は十分だったのに……」
「たぶん……穂村さんはあのコースを狙っていたんです。それと……セットポジションだった分、少しだけ威力が弱かったのかもしれません」
「……すまん」
「あ……気にしないでください。それより、ワンナウトです。4番にスクイズはないと思いますが……まずはボールから入りましょう」
「……わかった」

『プレーボール!!』
「お兄ちゃん……がんばって……」

「まずは外角に外す……」
  ザッ!
「なにっ!?」
 外角に外した球。明らかなボールに、4番・渡井昇は大きく踏み込んできた。
「そこは俺のストライクゾーンや!」
 スイング。
 バットの先、だが、ウェストした球に球威はない。
 力でボールを強引に引っ張る。

 ――ピッチャー強襲ライナー。
「くっ!!」
 右手のグラブを顔の前に動かす。だが、見逃しを予想していた分反応が遅れた。
  ガッ!!
「ぐぅっ!!」
 打球はグラブの中に収まらず、隆の前にこぼれた。

「お兄ちゃん!!」
「早坂くん!!」
 スタンドから悲鳴のような声が上がる。
「バ、バックホーム!!」
「くそぉっ!!」
 隆は腰を落として目の前のボールを直に左手で掴み、倒れこむようにして本塁に送球する。
 二塁は空いている。タッチプレー、タイミングはギリギリだ。

(ここで点を取られたら勝ち目はない……僕が止めるんだ!)
 学が体全体を三塁に寄せてブロックし、隆の返球を受ける。
「間に合え!」
  ドンッ!!
『…………』

「……………………」
『アウト!!』
 球審の右手が上がった。俊足の三塁走者のスライディングは、学のブロックに阻まれベースに届いていない。

「よし……!!……早坂先輩、大丈夫ですか!!」
 殊勲のキャッチャーがマウンドに駆け寄る。
「ぐ……ああ、大丈夫だ」
 隆は一瞬右手を動かして、顔をしかめた。

「…………」
「……大丈夫かしら……」
(……手首に当たったかも……)
 消耗して霞んだひかりの目には、白球がグラブと手首の隙間に当たった瞬間が焼き付いていた。
(……お兄ちゃん、大丈夫だよね…………)


「うおおっ!!」
 二死一・三塁のピンチ、だが、隆はストレート一本の投球で5番打者を追い込んだ。
『ストライク! バッターアウト!!』
「よし!!」
 7回表終わって両軍無得点。桜ヶ丘のナインがベンチに戻っていく。

 グラブを取ってマウンドに戻った雄一に、惜しい一打を放った昇が声をかける。
「雄一、すまん、決められんかった」
「ううん、狙いはよかったよ」
「けど、早坂は右手痛めたかもしれんで。ピッチングには影響はないやろけど、ピッチャー前のバントで攻めれば……」
「隆君はケガなんかしてないよ。たとえケガがあっても、それを狙うわけにはいかない」
 相手の弱点を突こうとする昇の提案を否定する雄一。その瞳の奥には、単なるスポーツマンシップを越えた何かが揺れている。
「せやけど……」
「大丈夫、僕はまだまだいけるから」
「……そうか。無理はすんなや」
「うん」


「……早坂くんは大丈夫そうね、よかったわ……」
「……はい………………ん、ぐうっ!!」
  ギュル……ゴロゴロゴロゴロゴロ!!
 一息ついたスタンド。だが、ひかりのおなかの中の嵐は、身体的な休息を与えてくれない。
「ひかりちゃん!?」
「だ、大丈夫です……お兄ちゃんの打席、ちゃんと見ないと……うぅ!」
  ゴロゴロゴロギュルルルルーーーーッ!!
 この回の隆の打席を見届けるまで我慢しようと考えるが、急激に高まる便意がそれを許さなかった。
「無理しないで。試合が動いたら伝えに行くから」
「は…………はい…………。ごめんなさいっ…………」
 ひかりはきゅっと目を閉じ、弾かれるようにその場を離れてトイレへ駆け込んでいった。


  グリュルルルルゴロゴログギュゥーーーーッ!!
「うぅっ…………!!」
 半開きになっている一番手前の個室の惨状から目を背けて、ひかりは隣の真ん中の個室に駆け込んだ。便器の中もタイルもまだ綺麗な状態だ。

(こ、今度は汚さないように…………!)
 まだおしりの圧力は限界に達していない。ひかりは震える指で鍵を閉め、さっき替えたばかりのパンツを下ろした。僅かな時間ではあったが、冷たい汗ですでに蒸れ始めている。

  ゴロゴロゴロゴロゴロッ!!
「んっ…………くぅ、ふぅぅっ!!」
  ブジュブジュビシャビシャビシャビィィィーーーーーッ!!
  ビュリブパパパパパブジュブジュビチッ!! ブビビビビィビュルーーーーッ!!
  ビチビチビシャビシャビュルルルビュルビュルルーーーーッ!!
 おしりの締め付けを緩めると同時に吐き出される水状便。綺麗だった便器が一瞬にして汚水の海へと変貌する。

  ギュルルルッグルルルッゴロゴロゴロッ!!。
「うぅぅ…………」
  ビヂビヂビヂビヂッ! ビュリブパッ!!
  ブジュルーーーーーーーッビシャビシャビシャッ!! ビィィィィィッ!!
  ブシャビチィーーーーッビュルビシャーーッ!! ブビビビビビビューーーッ!!
 出しても出しても楽にならないどころか酷くなっていく腹痛に、ひかりはぎゅっと目を閉じる。苦しみに耐え、体内の欲求が治まるまで水状便を吐き出す――それだけが、彼女に許された行為だった。

  グピーーーーゴロロロロロギュルゥゥゥッ!!
「はぁ……はぁ…………んっ……」
  コンコン……
「ひかりちゃん……」
「えっ、あっ……!!」
  ブビビビビビブジューーーーーッビチビチビチ!!
 おなかに力を入れた瞬間に外から声が聞こえ、慌てておしりを締めたが間に合わず爆音と共に水状便を吐き出してしまった。
「………………ごめんなさい……」
「き、気にしないで。……早坂くん、残念だけど内野フライだったわ。それと……」
 個室の外にいたのは純子だった。激しい音を聞き、隣の個室の惨状が目に入り、ひかりのおなかの具合のひどさを思い知る。
「……………は、はい…………」
  ギュルルグルルルルルルゴロゴロゴロッ!!
 トイレ中に響き渡るようなおなかの唸り。
「ご、ごめんなさい、気にしないでゆっくりした方がいいわ」
「は、はい…………うぅ………」
  ブジュッ!! ビジュビジュビシャッ!!
 断続的に弾ける水飛沫。会話の間肛門を締めておくことすら難しくなってきている。
「本当に苦しかったら言ってね。それじゃ……」
「はい…………んぅぅっ!!」
  ブパッビシャアアアアアビュリリリリリブジューーーーッ!!
  ビチビチブジュルルルルビュルッビシャビュルーーーッ!! ブビビビビビッ!!
  ビシャビシャブジュブパッ!! ビィーーーーーーッブジュジュジュッ!!
 純子がトイレから去るのを待てず、茶色い水流の蛇口は全開になってしまった。


「うぐっ…………くぅ…………」
  ブビィーーーーーーーーッ!! ビチビチビチッ!!
  ビシャッ!! ブジュルルルルルルッ!! ブバビビビビッ!!
  ビュリリリリリブジューーーーーッ!! ブシャビシャビシャブーーーッ!!
  ビチチチチチビュリィーーーッ!! ブビィーーーッ!! ビーーーーーーッ!!
 止まらない激しい排泄。
 トイレに駆け込んでから10分以上経つのに、水状便の噴出が止まらない。
 早く戻らないと試合が終わってしまうかもしれない。しかし、おなかの痛みと排泄の勢いは全く弱まる様子がない。ただ、おなかの具合は最悪に近づいている。早く戻れるかどうか、ではなく、ここから動けるかどうかそのものが問題になるほどだ。

「ひかりちゃん……大丈夫……?」
「は、はい……」
  ブジュッ!! ビュリーッ!! ビチチチチッ!!
 再び純子の声がして、ひかりはおしりを締めようとした、だが、必死に力を入れても、水状便が全く止まらない。
「9回表が始まったわ。それで…………」
「……ぐっ…………お兄ちゃん、打たれたんですか?」
  ビーーッブジュジュッ!! ブピピブビィッ!!
「まだ点は入ってないけど……ノーアウトで」
「…………わかりました……ごめんなさい、先に戻っててください、すぐ行きますっ」
 個室の中、消耗しきったひかりの瞳にもう一度輝きが戻る。
「んっ!!」
  ブシャーーーーーーッ!!。 ビシャビシャビシャビィィィッ!!
  ブバババババビィーーーーッ!! ブジュビチビチビチビチーーーーッ!!
 一気に個室の中の排泄音が大きくなる。ひかりがおなかに力を入れ、腸内の汚水を出せるだけ出しきろうとしているのだ。
「ひかりちゃん……わかったわ。外で待ってるから」
「はいっ……くぅっ!!」
  ビジューーーーッブシャビシャビシャッ!!
  ビュルルルルルビュルビュルビュルッビィィィィィッ!!
  ビチビチブジューーーーーービヂビヂビヂブビビビビビビッ!!
(お兄ちゃん…………もうちょっとだけ待ってて…………!!)
 ひかりは直腸内の水便を絞り出し、慌しく紙を巻きとっておしりに数回押し当てた。パンツを上げながら立ち上がる。
  ギュルルルルルルルルッ!!
「くぅっ………………まだっ……!!」
 体を起こした瞬間、猛烈な腹痛に貫かれる。同時に、空っぽにしたばかりの直腸に体の奥から水分が送り込まれてくる感覚が沸き上がってくる。
 だが、ひかりが動きを止めたのは一瞬。水洗のレバーを倒し、便器の中の汚水を下水道に流し込みながら、その水流が途切れるのを待たず外へ向かって駆け出した。


 9回表。
 状況は、無死二塁。
 先頭打者、9番の伏兵・幡野に出会い頭の長打を食らったのだ。
 ちょうどマウンドに集まっていた内野陣が散っていくところで、ひかりはスタンドにたどり着いた。

「お兄ちゃん……」
「大丈夫、まだ始まってないわ」
 大急ぎで戻ってきたひかりに、純子が優しく声をかける。
「弓塚センパイ、この場面の解説は?」
「ここまで来たら、もう戦術より気合の勝負かもしれんな」

『プレーボール!』
「バントでも強行でも…………来い!」
 隆は1球目からストライクゾーンに直球を投げ込む。
「当てる!」
「……そや、ピッチャーの左側へ転がせ!」
  キンッ……。
 送りバント。ピッチャーの正面やや左に転がったが、勢いが強い。
「サード!!」
 学が声を上げる。この当たりなら三塁で刺せる。
 隆がグラブを伸ばし――。
「……くっ!」
 伸ばしたグラブで、ボールを掴むことができない。
「あ……ファ、ファースト!!」
 学が指示を出し直す。隆は左手で直にボールを拾い上げ、一塁に送球した。

『セーフ!!』
 スコアボードに灯るEのランプ。ピッチャー早坂のエラーで、無死一・三塁。
「…………やっぱり……右手を……」
「さっき打席でアウトになった時にまた痛めたみたいなの……でも、交代できるピッチャーはいないし……」
「…………お兄ちゃん……」

 無死一・三塁、打者は2番・松永。
「どうする? スクイズで行くか? 同じ所なら……」
「バントはやめよう……隆君が手を痛めてるのは確かだ。それを狙うなんて……」
「けど、綺麗事だけで勝てる相手やない。勝負に情けは無用や」
 ベンチの前で、次打者の雄一・四番の昇も集まって意見を交わす。
「でも…………」
「スクイズや。サインをよう見とけ」
「ああ、わかった」
「…………」


 息詰まるような投球が3度続き、カウントは1-2。
「うぅ……」
  ギュルギュルギュル……!
(お兄ちゃん……がんばって……!)
 ひかりは片手でおしりを押さえながら祈る。

「…………ここだ!」
「スクイズ……!!」
「いいぞ、外した!!」
 4球目、三塁ランナースタート。だが、投球は外角に外れるストレート。
「くっ……!!」
 打者は必死に飛びつく。
  カンッ!
『ファール!!』


「あぁー、惜しい……」
「助かった……」
 スクイズ失敗もなんとか空振りは免れた結果に、両軍ベンチとスタンドが息をつく。

「スリーバントスクイズ……来るなら、来い!」
 内角高めに構えたミットめがけて速球が飛ぶ。
「もう一度だ!!」
 再度、ランナーがスタート。打者はバットを倒した。

「…………!!」
  ギィン……!!

『ファール!!』
 結果はバックネットへと跳ねたファール。隆の球威が勝ったのだ。
 スリーバント失敗、一死一・三塁。

 スクイズ失敗の松永がネクストバッターズサークルの雄一に声をかける。
「穂村、すまん」
「いいよ、気にしないで」
「お前が嫌がったスクイズを二度もやったのに……」
「ううん、勝つために一番のことをやってくれたんだから。結果は仕方ないよ」
「すまん。後は頼んだぞ」
「うん」
 しっかりとうなずき、雄一はバッターボックスへ向かった。


「隆君……」
「雄一……」
 両エースがマウンドと打席の間で対峙する。
「僕達は勝つよ、そして……」
「俺は……負けるわけにはいかない!」

「お兄ちゃん……」
  ギュルルルルルギュルゴロロロロロ……。
 激しい腹痛と便意に耐えながら、ひかりは二人の戦いを見つめる。

 1球目、外角低めストレート。
「………………」
  ゴロロロロロギュルゥゥゥッ!! グピーーーーッ!!
『ボール!!』
 ボール2つ分外。雄一のバットはぴくりとも動かない。

 2球目。外角カーブ。
「っうぅ…………」
  ギュルルグリュルルルルギュピーーーーッ!!
『ファール!!』
 一塁の僅かに横に痛烈な打球が飛んだ。

 3球目。内角低めストレート。
「はぁっ…………」
  ゴロロロロロギュルギュルギュルグゥゥゥゥッ!!
『ボール!!』
 膝の僅かに下。ストライクでもおかしくないコースだったが、判定はボール。

 4球目。内角高めストレート。
「うぅぅ……!!」
  ギュリリリギュルルルルルゴロロロロッ!!
『ファール!!』
 やや振り遅れたか、ボールはバックネットに直撃した。

 カウント2-2。
(ドロップが来ない……。右手のケガが影響しているのかな……)
(なら……ストレートを狙う!)

(追い込んだ……だが、どうする?)
(怪我でバランスが崩れてる状態でドロップは無理です。今のコース、最大の球威で!)

「でやああ!!」
 5球目。内角高めストレート。
「まだだ!!」
 雄一が鋭くバットを繰り出した。
  ギンッ!!
『ファール!!』

「……うぅ……こりゃ怖くて見てらんないわ……」
「お兄ちゃん……くぅっ……」
  ゴロロロロギュリルルルッ!!
 緊張感に包まれるスタンド、ひかりも必死に我慢を続けていた。
(あの時はお兄ちゃんが投げてる途中でおもらししちゃって……点を取られて……)
 ひかりの脳裏に浮かぶのは5年前の記憶。母と一緒に見に行った試合で、隆が投げ終わるまで我慢できずにおもらしをしてしまった。直後に隆が1点を奪われた、そこまでしか試合を見ていない。母に連れられてトイレに入ったものの、下痢が止まらずずっとこもりきりになり、そのまま家に帰るしかなかった。
(お兄ちゃんも、痛くても投げてる……私も……最後まで見届けないと……!!)
 ひかりは痛みに歪む顔を上げ、その瞳に飛び交う白球をとらえた。

「これで!!」
 6球目、再び内角高めストレート。一塁側スタンドに飛び込むファウル。
「まだっ!!」
 7球目、外角低めストレート。三塁線に鋭い打球のファウル。
「うおおっ!!」
 8球目、真ん中低めストレート。反対側のバッターボックス内に突き刺さるファウル。
「そこっ!!」
 9球目、三度内角高めストレート。一塁側フェンスを直撃するファウル、。

「これだけ粘るなんて……ひかりちゃん、大丈夫?」
「………………………っ…………」
 ひかりは声も出せず、ただ微かに頷いた。
 両手はおしりに回し、すでに感覚のない肛門を外から無理やり押さえている。
  ギュルルルゴロロロロロログゥゥゥゥゥギュルピーーーーーッ!!!
(まだ……まだ、我慢しなきゃ……!!)

 10球目。
「行けぇ!!」
 内角高め。
「これでっ!!」
 ストレート。

  ビシッ!!

『…………ストライク!!』
 ついに、球審の右手が上がった。三振に切って取ったのだ。

「よし…………」
「はぁっ……はぁっ…………今のが一番速かった……さすが、隆君だね」

 これで、二死一・三塁。
 あと一人、抑えれば裏の攻撃に移れる。

「ひかりちゃん、やったわ、あと一人よ!」
「…………………っ………………」
「ひかり!?」
「ひかりちゃん!?」
「………………うぅっ!!」
  ブジュッ!! ビビビッ!! ブジュルルルルッ!!

 おしりを押さえていた指に熱い感覚。
 限界を超えた肛門をさらに押さえつけていた指先。押し寄せる水状便の圧力が、ついにそのすべてを上回ってしまったのだった。

「だ、だめ……だめっ…………!!」
  ビジュルルルッ! ブビィッ!! ビチチチチチッ!!
  ブジュビシャビュルルルルルルルーーーーーッ!!
 今度は、ちびるという段階ではなかった。止まらないおもらしの始まりだった。

「ひかりちゃん! 大丈夫? 早く――」
  キィン!!
「あああっ!!」
「…………え…………あ…………」

「よっしゃあああ!!」
 4番・渡井昇が放った打球がピッチャーの横を抜ける。
「……っ…………ぐうっ!!」
 隆が伸ばした右腕は、ボールにわずか届かない。

 今、三塁ランナーがゆっくりとホームイン。
 スコアボードについに得点が刻まれた。

(わたし……また…………また…………がまんできなかった………)
 おしりに広がる熱い液体の感覚が、かつての記憶を呼び起こす。我慢できずにおもらししてしまい、そして……。
「ああ…………あぁぁ…………」
  ブジュルルルルッ!! ビチビチブジュジュジュッ!!
  ブビィィィッ!! ビヂヂヂヂヂブビュビュッ!!
「ひかりちゃん、しっかりして、早くお手洗いに……」
「ひかり!!」
「ひかりちゃん!!」

「………………ごめん……なさい……」
 ひかりは水分の失われた体にわずかに残った涙を流しながら、そっと目を閉じた。



「ひかりちゃん、一人で大丈夫?」
「………………はい…………」
 パンツの中から両足と地面に水状便をこぼしながら、ひかりはトイレの個室にたどり着いた。
 個室の中に、一人。

「んっ……うぅ…………」
  ブジュルルルルゴポゴポゴポゴポッ!!
 液体で満たされたパンツの中にさらに汚水が注がれる。すぐに容量を越えた分が両足を伝って流れ落ちていく。
「ん……………」
 ひかりはそっとパンツを下ろす。
  バシャーーーッ!!
 おしりとパンツの間に閉じ込められていた水状便が一気に便器の中に流れ落ち、凄まじいまだら模様を作り上げた。

 パンツの中は一面の茶色。
 前は半分ほど白が残っているが、後ろは腰のゴムまで茶色に染まってしまっている。

  ギュルルルゴロゴロゴロゴロッ!!
「あぁぁっ……!!」
 さらに襲い来る腹痛と便意。ひかりはパンツを両膝の間に渡したまま、崩れるように便器にしゃがみこんだ。
「んっ…………!!」
  ブジュビシャビシャビシャビーーーーーーッ!!
  ブジュルルルルルビチビチビチブシャーーーーッ!! ビィィッ!!
  ブピッビチビチッ!! ブジュビシャッ!! ブババビシャーーーーッ!!
  ビジュルルルルブピピピピピビューーーッ!! ブババビィーーーッブジューーーーッ!!
 大量におもらしした直後なのに、噴出の勢いは全く衰えていなかった。汚れたままの下半身から、さらに汚水が吐き出され続ける。

(わたし……また…………)
 最後まで兄の試合を見届けることができず、途中でおもらしをしてしまった。もうちょっとだけ我慢できていれば、兄が点を奪われることもなかったのでは……。
 自責の念がひかりを埋め尽くす。限界を越えて涙ぐましい我慢を続けていたのは確かだが、それは言い訳にはならない。もう、結果は変わらない。

(お兄ちゃんはあんなに頑張ってるのに……わたしは…………)
  ビチビチビチブジュルルルッ!! ブピピピピビィッ!!
  ビシャビシャビシャビシャビシャーーーーーッ!!
 汚れたおしりから水状便を撒き散らす自分の姿に、ひかりは絶望しか感じられなくなっていた。

(やっぱりわたし……お兄ちゃんの近くにいちゃ……いけない………………)
 おもらししている最中の肛門を押さえたため汚れている指先で、両腕を抱え込む。

 ――だいじょうぶ。きっと、お兄ちゃんはわかってくれるわ。

「…………」
 ひかりはそっと目を開く。
(お母さん…………)
 母の言葉が頭の中に浮かんだ。あの時にかけられた言葉。その言葉が本当になるのに何年もかかったけど、でも、本当になった言葉。

 ――お兄ちゃんはきっと、ひかりのことが大好きだから。何があっても待っててくれるわ。

「お兄ちゃん……待って…………」

「ひかりちゃん!! 大丈夫?」
「ひかり!! チャンスよチャンス!! ランナーが出たわ。隆さんに回るわよ!!」
「ひかりちゃん、がんばれ!!」

「白宮先輩……幸華ちゃん、美奈穂ちゃん……」
 あの時は母が。
 今は、敬愛する先輩が。迷惑をかけても許してくれる親友が。
 そばにいてくれる。支えてくれる。
 そして――。

「……待っててください! ……すぐ……行きます!!」



 9回裏。
 ツーアウト、フルカウント。
 ランナーは一・二塁。
 バッターは4番、早坂。

 ひかりは間に合った。最後の一球に。

「……お兄ちゃん!!」
 か細い声で精一杯の声援を送った。
「…………」
 隆の視線がスタンドを、ひかりの姿をとらえた。
「お兄ちゃん……」
(…………抑えられなくてごめん。でも……)

「はぁっ……これで……最後だ!!」
 雄一が投ずるは七色の変化球の七つ目……浮き上がるようなストレート。
「これで……決める!!」
 隆はバットを振り抜いた。ほぼ、左手一本だけのスイング。それでも、ストレートの速さには負けない。

  カッ――
(右手が折れてもいい! このボールを打ち抜く!!)
 インパクトの瞬間、隆は右手に力を込めた。全力のフォロースルー。

  キィィン!!
 白球は空へと舞い上がる。
 バックスクリーンに向かって伸びる。

「これは――」
「いけーっ!」
「お願い、入って!」
「フェンスまでは届くぞ!」

「させるかい!! 雄一のピッチング……無駄にできるかぁ!!」
 高峰のセンター、渡井が背走して打球を追う。
 飛距離はフェンスぎりぎり、入ればサヨナラホームラン、捕球すればゲームセット。

(届いて……!!)
 ひかりは精一杯の祈りを込める。

「俺は……」
 白球が描く放物線。
「勝って……」
 その落下点。
「ひかりに……!!」

  バシッ……。

 フェンスのすぐ上を抜けようとする白球は、昇が跳び上がって伸ばしたグラブに阻まれた。


『……ゲームセット!!』

「あ…………」
「ああ…………」
 桜ヶ丘のスタンドから、一斉にため息が漏れた。
 最終打者、早坂はセンターフライ。
 試合終了、1対0。

 優勝、高峰中学校――。



「……ごめん、ひかり……」
「お兄ちゃん……」
 スタンドを見上げた隆の目に、ひかりの小さな姿が映った。
 ひかりの視界は涙と汗で滲んでいたが、隆の姿はその中に確かにあった。
 だが、焦点を合わせようとしてもうまくいかない。
「お兄……ちゃ――」
「ひかりちゃん!!」
 上下を見失った体を受け止められる感覚。
 その感覚を残して、ひかりの意識は真っ白になった。



「……ごめんなさい……お兄ちゃん…………」
「ひかり……? 目が覚めたか!!」
 次の瞬間、ひかりはベッドに横たわっていた。耳元で響くのは、近くにいて欲しかった、いつも近くにいたかった、兄の声。
「え…………」
 目を開けたひかりは、自分が医務室のベッドで寝ていたことに気づく。
「脱水症状で倒れたらしい。もう大丈夫か? おなかの具合は?」
「う…………うん……だいじょうぶ」
 まだおなかに鈍い痛みは残るが、便意は感じられないくらい弱くなっていた。
「そっか、よかった…………」
 ほっと息をついた隆の声を聞いて、二人の間に静寂が満ちる。

「ごめんな……勝てなかった」
「あの……ごめんなさい……わたし……ちゃんと見てないといけなかったのに……」
 何度もトイレに駆け込んでしまい、一番重要な場面でおもらしをしてしまったひかり。そのことは、何としても謝らないといけなかった。
「いいんだ。苦しかったのに、最後までいてくれたんだろ」
「でも…………」
 謝り続けるひかりを、隆の言葉が遮った。
「試合に勝っても、母さんもひかりもいなかった時より……負けたけど、ひかりが最後まで見ててくれた今日の方が、ずっと嬉しかった」
「お兄……ちゃん……」

「あの時は…………ごめんな」
 ずっと言えなかった言葉を、やっと口にする。

「また…………また、見に来てもいい?」
「……ああ、必ず来てくれ」
 本当は、5年前にこうするべきだった。
 そうすれば、母が生きている間に、もっと――。

「ごめん……ひかり」
「お兄ちゃん…………わたしこそ……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!!」
 それから後は、言葉にならなかった。

 試合に負けた悔しさは、どこかに消えてしまっていた。
 全力を振り絞って、その目的は果たせなかったけれど。


 5年間の贖罪は、この日、やっと、果たされた。





あとがき

 大変長らくお待たせしました。つぼみたちの輝き、一学期最終話、野球大会決勝戦をお送りいたしました。当初は野球の試合の内容をまじめに書いていたのですが、ひかりの猛烈な下痢と並行して書いていたら凄まじい分量になって途中で挫折していました。最終的には、視点をひかり中心にして「下痢でトイレにこもっている間の試合内容は見られない」として大幅にスキップすることでなんとか完成させることができました。
 野球描写はかなり削ったのですが、強敵に対して新変化球ドロップの投入、「首を振る」サインの投入と、一応の見せ場は書いたつもりです。それに加えて、激しい排泄の繰り返しの描写と、隆とひかりの過去の描写、もう少しそれぞれに焦点を合わせた書き方もあると思いますが、ひとまず詰め込んで書ききった、ということで完成としたいと思います
 それから、お気づきの方もいるかも知れませんが、ひかりの排泄設定を強化――便質を水状に、排泄回数を約3倍に、その他属性を追加――しています。つぼみシリーズ構想当時は現実から離れすぎないようにと自重していたのですが、それによって排泄シーンの魅力が薄れるよりは、非現実的でも思う存分激しい排泄シーンを書ける方が良いとの判断によるものです。今後、他のキャラクターについても排泄設定の強化を行っていく予定です。

 それでは、今度はあまり間を開けずに書きたい次回の予告です。

 決勝戦翌日。隆は今まで好き勝手野球をやらせてもらった礼に、ひかりに何でも願い事を聞くと提案する。欲しい物でも、行きたい所でも――。
 当惑するひかりをさらに驚かせたのは、昨日激闘を交えた高峰中学校のエース、穂村雄一の来訪。そして、彼はさらに驚くべき提案を携えていた。
 高峰高校に、特待生として来てほしい、と――。

 つぼみたちの輝き Story.22 「満たされた空白」。
 ひかりと隆が、口にした答えは――。


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